杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

『駿河酒造場』復活ものがたり

2010-05-26 11:13:08 | 吟醸王国しずおか

 取材や出張が続いています。今月はGW中は1週間ほとんど家に籠りきりだったので、その反動からか、外へ出ると自分でも異様なくらいテンションが高くて、一昨日、下田で初亀試飲会&パイロット版試写会をやっていただいた夜も、地元のみなさんと二次会のカラオケで大はしゃぎしたことしか記憶にない…(苦笑)。覚えているのは地元の観光旅館のおやじさんから「あんた、明るくて、幸せそ~な顔して酒呑むなぁ」と褒められたぐらいかな。まぁそれでもいいんです。静岡の酒は、飲んでいて幸せな気分になるんですって周りに伝われば。

 

 

 ブログで紹介する時間がなくて遅くなってしまいましたが、先週は、かねてからじっくり話を訊いてみたいと思っていた蔵元2軒を訪ねました。『萩の蔵』と『千寿』です。

 

 

 『萩の蔵』は、平成16年から「株式会社曽我鶴・萩の蔵」として掛川市の旧曽我鶴酒造の蔵で稼働していました。

 曽我鶴酒造は創業者の柴田家が酒造業から撤退し、7年ほど蔵が休眠状態になっていたのですが、「萩錦」(静岡市)の親戚筋にあたる萩原吉宗さんが、第二の人生を酒造家として生きよう!と脱サラで酒造りの世界に入り、曽我鶴の蔵を借りて始めました。それまで曽我鶴で杜氏を務めていた小田島健次さん(南部杜氏)が引き続きバックアップしてくれるということで、萩原さんは、小田島さんが務める県外の酒蔵でひと造り修業をし、さらに小田島さんが務める『小夜衣』で1年半修業をして、小夜衣の蔵元で『萩の蔵』の最初の仕込みを行います。「小夜衣の仕込みで覚えようとしても、どこか甘えが出てしまう。自分はいずれ蔵元になるのなら、自己責任で造らねば」との思いだったそうです。

 ちなみに小田島さんという杜氏さんは、小規模の酒蔵を何軒も掛け持ちする器用な杜氏さんです。

 

 

 

 Dsc_0014 平成16年に晴れて蔵元デビューした萩原さん。萩原さんの父覚三さんは、静岡では『萩錦』の販売部門を担当していた人で、昭和初期にはご兄弟で酒を造っていたそうです。

 

 その後、造りは現在の『萩錦』一家が継承し、萩原さんは大学卒業後、まったく酒とは関係のないエンジニアの世界へ。国分寺にある日立製作所中央研究所で、今のカーナビ、携帯、ICカード等の基礎技術となったマイクロコンピュータの開発を担当しました。その後、半導体事業部に移り、200人の技術者を束ねるプロジェクトリーダーに。技術オタクが研究だけやっていればいいというポジションではなく、販売や売り上げにも責任を持たされ、「中小企業の経営者になったような経験だった」と激務を振り返ります。

 

 

 やがて、日本の半導体産業が韓国や台湾の追い上げにあい、競争力を失っていく状況を現場担当者として実感し、「どうせ苦労するなら、技術者として、やりがいがあるもの、他の人には真似できない、価格競争に巻き込まれないものを造りたい」という気持ちに…。そんなとき、脳裏によぎったのが、亡き父が果たせなかった酒造りの夢でした。

 

 

 家族を東京に残して、単身、酒造りの世界に飛び込んだ萩原さんは、『曽我鶴』の酒銘を残してほしいという掛川市民の声に応え、『曽我鶴』『一豊』『掛川城』といった掛川ご当地銘柄をそのまま継承し、自身では『萩の蔵』『天虹(てんこう)』という新しいブランドも作りました。

 新ブランドの評判が少しずつ広まる一方で、いつまでも旧曽我鶴の酒蔵を間借りしているわけにもいかず、いずれは移転も…と考えていた矢先の昨年夏、突然、旧曽我鶴側から年内で明け渡してほしいとの通達。大慌てで移転先を探し、いったんは掛川市北部で計画が進み始めたのですが、蓄積していた疲労やストレスが災いし、脳梗塞で倒れてしまいます。倒れたのが東京で家族と一緒の時だったので、幸いにして処置が早く、一命は取り留めました。

 

 

 掛川市内での移転がストップしたとき、昨春に廃業した静岡市の『忠正』の蔵元・吉屋酒造から、酒造免許を譲ってもいいというオファーが。さらに暮れの11月、かつて父が兄弟と一緒に酒を造っていた場所に建っていたスーパーマーケットが閉店したという話が飛び込んできます。現在の『萩錦』とは目と鼻の先の距離ですが、長く静岡を離れていた萩原さんには、地元や親戚同士のしがらみに悩む前に、「…天のお導きだ!」と思えたのでしょう。一命は取り留めたものの、東京での入院や辛いリハビリ生活が続いていたときだけに、その思いはひとしおだったと思います。

 

 

 萩原さんは東京の病室で設計図を書き、電話やメールで機械や道具の手配をし、ものの3カ月で「株式会社駿河酒造場」を立ち上げてしまいました。

 

 建物は閉店したスーパーのバックヤードや冷蔵庫を改装し、機械の多くは吉屋酒造から運び、従業員の何人かも吉屋酒造からそのまま異動してもらいました。4月2日に開業し、すぐさま機械の試運転がわりに酒造りをスタート。今期は6月初旬まで仕込みを続ける予定です。

Dsc_0008  杜氏は、小田島さんの弟子だった小林和範さん。他に曽我鶴・萩の蔵時代から一緒に造ってきた蔵人2人に、萩原さんの甥大吾さんが加わり、『曽我鶴』『萩の蔵』『天虹』も途絶えることなく継承できることになりました。

 

 

 そして今度は静岡市民の要望で、『忠正』も継承することになりました。なんとも豪華なラインナップを任されることになった萩原さんですが、「他の人が真似できない技術者としての生き方」を貫きたいという思いが、消えつつある伝統の酒銘を復活させ、自身も三途の川を渡りそうになったところを引き返す、とんでもないエネルギーになるんだな…と感動してしまいました。

 

 

 酒造の世界には、このように、ときどき常人では真似できないことを成し遂げる逸材が出現します。人を、それだけ熱く駆り立てるものが、酒造りにはあるということを、私も自分のつたない筆や映像の力を借りて伝えて行きたい、と熱く熱く、再認識させられます。

 

 翌日訪ねた『千寿』も、酒造の灯を守るための紆余曲折を乗り越えた酒蔵です。今日は書くスペースがなくなってしまいましたが、吟醸王国しずおか公式サイト『読んで読む静岡酒』に、1997年に書いた千寿の記事を紹介しましたので、まずはそちらを予習替わりにお読みいただければ。


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