夕べ(19日)はアイセル21で静岡県朝鮮通信使研究会の総会があり、映画『朝鮮通信使』の監修でお世話になった北村欽哉先生の講話「消えた朝鮮(通信使)伝承」に聞き入りました。
朝鮮通信使の研究は県内外はもちろん、日韓両国でも現在進行中の分野なので、昨年の映画脚本執筆時には解明されていなかったことや、北村先生ご自身が新たに発見したことなどがたくさんあって、夕べのお話もすごく刺激的で面白かった! あまりにも面白かったので、時間があった今日の午前中、先生のお話に出てきた日本坂や丸子の周辺をさっそくドライブしてきちゃいました。
静岡には『日本平』と『日本坂』という地名があります。地元の人間にはおなじみですが、静岡以外の人は、日本平といえば富士山の景勝地、日本坂は東名高速道路のトンネル火災事故を記憶する人も多いと思います。両方とも日本武尊にちなんだ呼び名と言われ、昔は“やまと平(ヤマトタケルが平定した地)”、“やまと坂(ヤマトタケルが越えた坂)”と呼ばれていたそうです。
平凡社の「静岡県の地名(2000年)」、角川書店の「静岡県地名大辞典(1982年)」、静岡新聞社の「静岡大百科事典(1978年)」など最新の調査結果に基づいたであろう地名関連書籍などでも、この説を採っていますが、北村先生は、1834年に記された「駿河国新風土記」に、“日本坂という地名は日本武尊が越えた道だからと伝えられているが、本当だろうか? 神祖(=徳川家康)がこの地に遊行した折、この地を朝鮮ヶ谷と命名したという説もある”とあるのを見つけました。家康が朝鮮ヶ谷と命名した説は、1842年に書かれた「なこりその記」、1843年の「駿国雑志」にも紹介されています。
ところが1861年の「駿河志料」以降の文献には、日本武尊のことしか載っておらず、家康命名説は1956年に松尾書店から発行された「史話と伝説」にあるものの、“家康が狩りの時にここに来て、日本一の景色だと褒め称えたことから日本坂と言うようになった”とあり、朝鮮の文字は見当たらないそうです。
静岡と焼津の境にあり、日本坂につながる満観峰(標高470m)のハイキングコースには、「朝鮮岩」と呼ばれる眺望ポイントがあります。ここから静岡の長田方面に広がる一帯は、「朝鮮ヶ鼻」と呼ばれていたそうです。北村先生の調査では、「駿河国新風土記」「駿国雑志」「駿河村誌」(1881年)に“朝鮮岩”もしくは“朝鮮巌”の記述があり、家康が用宗城を攻めたとき、朝鮮岩と呼ばれる大きな岩の上に幕を張り、陣取りしたとか。
また「朝鮮ヶ鼻」は、1806年に書かれた「東海道分間延絵図」と「駿河志料」に地名が書き込まれています。いずれも、なぜ「朝鮮」の名が付けられたかは説明がありません。
日本坂周辺に「朝鮮」の地名が点在する確かな理由は、北村先生にもわからないそうですが、朝鮮渡来人は古来より絶えず日本にやってきて、秦氏のように織物や土木技術を伝えた優秀な一族も多くいました。朝鮮の人々は、今よりもずっと身近な存在だったと思います。
もっとも、「朝鮮」という言葉は、李氏朝鮮王朝ができてから、日本では室町以降のことなので、先生は「秀吉の朝鮮侵攻で拉致されてきた被虜人がこの一帯に住んでいたのかもしれない。彼らは奴隷売買されて各地に連れてこられたから」と推測します。その後、朝鮮との国交を回復させ、朝鮮通信使を招聘した家康が、日本坂を“朝鮮ヶ谷”と命名した、と考えるのも不思議ではありません。
国道1号線の丸子から岡部・藤枝方面に向かう途中に、赤目ヶ谷というところがあり、起樹天満宮という小さな神社があります。1843年の「駿国雑志」によると、神社の梅の木が街道側に傾いて、朝鮮通信使の行列の妨げになるので切り倒そうとしたところ、一夜にして梅の木は神社側に起き上ったという故事があるそうです。
ところが1861年の「駿河志料」では、建久元年(1190)に源頼朝が上洛するとき、社前の梅が駅路に横たわっていたので枝を切ることになったが、梅の木は一夜にして起き上ったとあり、それ以降の文献やガイドブックはこの頼朝説のみを採用しています。
一方で、延享4年(1747)の史料に“朝鮮通信使が通る道に支障があってはいけないと、並木や枝を整えるよう代官がこまかく指示をした”という記述もあります。
梅の木が一夜にして起き上ったという伝説はさておき、頼朝一行の通行よりも、旗鑓を高く掲げて行進する通信使一行の支障になるという理由のほうが現実的です。
なぜ、日本坂や起樹天満宮の縁起が、日本武尊や頼朝伝承に書き換えられたのか…。記述に大きな変化が表れたのは、いずれも、1861年に書かれた「駿河志料」からです。
「駿河志料」の筆者は、なぜ、わずか27年前に書かれた「駿河国新風土記」にある日本坂=家康の朝鮮ヶ谷命名説を無視したのでしょうか?
なぜ、わずか18年前に書かれた「駿国雑志」にある起樹梅=朝鮮通信使通行説を無視して、頼朝説を用いたのでしょうか?
そして、明治以降の研究家は、なぜ「駿河志料」の説だけを採るのでしょうか?
幕末当時、ガタついていたとはいえ、まだ治世者だった徳川方が書かせたのなら、神祖家康や家康の功績である朝鮮通信使のことを無視したとは考えにくく、この手の地方誌を手がけた市井の学者レベルにも、反徳川・国学至上主義が浸透していたのではと思われます。
北村先生は、「明治になって征韓論が勃興したといっても、明治政府が作った教科書には、朝鮮通信使のことがきちんと記されている。むしろ、市井の研究家のほうが時代の雰囲気に流され、客観性を見落としがち。はるかに情報が進んでいるはずの20世紀以降の研究家たちも、過去を正しく見ようとしていない。歴史研究家ならば、伝説まがいの話であっても、文献が書き残していることを無視してはいけないし、文献を選り好みしてはいけない」と言います。
私も、一応、大学で歴史を専攻してきたんですが、夕べの先生のお話で初めて、歴史を学ぶ上で最も基本的で最も大切な姿勢を教わったような気がしました。
今日は小坂から車で行けるところまで行ってみようと思ったのですが、あいにく通行止め。長田方面から入ろうとしましたが、朝鮮岩までは「歩いて1時間はかかる」と地元の人に言われ、満観峰ハイキングはあきらめ、起樹天満宮の参拝だけで終わりました。
冬の快晴日、満観峰からの富士山の眺めは絶景のようです。家康公が好んで遊行したという日本坂。地元なのに、知名ひとつ取っても、まだまだ知らないことがたくさんあって、家康公ゆかりの知られざる場所があるんだなと実感しました。
なお、今朝(20日)の静岡新聞でも紹介されていた、県文化政策室発行の『朝鮮通信使散策ガイド』は、北村先生の監修によるもので、家康と通信使の関係などをわかりやすく紹介しています。
先生監修で私の脚本デビュー作『朝鮮通信使』DVDも、静岡市内の図書館で無料レンタルできますので、ぜひご覧くださいね!