杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

朝鮮通信使と富士山

2013-08-03 13:14:47 | 朝鮮通信使

 7月31日(水)19時から、アイセル21で静岡県朝鮮通信使研究会の本年度第2回例会が開かれました。

 

 今回のテーマは『朝鮮通信使と富士山』。北村欽哉先生が、朝鮮通信使の訪日記録「使行録」の記述の中から、富士山を描いた部分を多角的に解説してくださいました。富士山の世界遺産登録に合わせた、まさにタイムリーな内容で、会議室の定員が満席になる盛況でした。

 

 

「白須賀村を過ぎた。日本人が東の雲際を指して「富士山だ!」と叫んだ。

 私は輿を停めて、東の空を眺めた。雪の積もった山頂が白いかんざしのように青い空をまっすぐ貫き、山の中腹から下は、雲のかすみにおおわれて、陰となっていた。<o:p></o:p>

 聞けば、ここはあの山裾から四百里も離れているという。それが、今、すでに、私の目の中にある。海外に、あまたある山の中でも、富士山に並ぶものはないだろう。」<o:p></o:p>

 

富士山の美しさを讃えた文章。海外の山々をもってしても並ぶものがない、と結んでいます。これは、江戸時代に日本を訪れた、朝鮮通信使によって書かれた訪日の記録・使行録(しこうろく)の一節です。」<o:p></o:p>

Dvd

 

 私が脚本を担当した2007年制作の映画【朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録】の冒頭で、俳優の林隆三さんに朗読していただいたナレーションです。1719年に来日した第9回朝鮮通信使の使行録「海游録」の記述を元に、意訳してみました。

 

 

 

 

 

 

 こちらは名古屋市博物館が所有する葛飾北斎の富嶽百景の【原】(沼津市)。上記ナレーションにかぶせた画です。

 

Img032

 

 

 

 

 

 

 富士山の描写は、第1回の訪日(1607年)から第11回(1764)まで、江戸まで行かなかった第3回を除く計10回の朝鮮通信使の東海道往復記録に残っています。北村先生の調査によると、富士山の描写が登場した場所は、前述の白須賀宿、今切(浜名湖)、浜松、掛川、小夜の中山、大井川、駿府、江尻、薩埵峠、蒲原、富士川東、吉原、三島、箱根と、静岡県内の東海道の名所ほぼ全域に亘っています。

 

 

 ほとんどの描写が、富士山の姿を褒め称え、山頂に万年雪があることに感動したもので、たとえば、

 

第3回(1624)/記述場所=(往路)浜松、蒲原、箱根、(復路)吉原

「山は大平野の中にあって、三州の境界に雄雄しくそびえ立ち、白雲がつねに中腹に発生し、空に浮かんで天を覆い、山の頂上はいつも雪が積もって白く・・・まことに天下の壮観である」

 

 

第7回(1682)8月/記述場所=(往路)江尻、吉原、三島、(復路)吉原、大井川

「富士山の氷雪が消えないという話を、一行の中には出鱈目だと疑う人もいないわけではなかったが、今になってこれを見ると、平山に雪の痕跡があり、頂上には堆(うずたか)く盛られていた。

日本人が言うには“貴国の人が疑っていた心を打ち破った”」

 

 

 

 また、江戸時代は富士山の氷を食べるのが“至高のゼイタク”だったそうで、第1回(1607)、まだ徳川家康が存命だった時の使行録に、

 

「夏の暑さを避けるため、6月1日に氷を飲み込むという。氷は日本国中で富士山だけにあるが、氷を切り出して運搬するうちに溶けてしまうので、わずかに天皇と将軍に献上するだけである。庶民の口には入らないので、毎年12月1日(1月1日の記述間違え?)に餅を使って氷の固まりを作り、貯蔵し、6月になると氷の代わりに食べるという」

 

 北村先生は、ちゃんと裏づけ調査もされました。家康が駿府城で富士山の氷を食べたという記述は、1614年に書かれた徳川実記にあり、「難波江」という史書には、5月31日夜、登山して3尺四方の氷を切り出し、6月1日、山宮浅間神社に献上した後、駿府城~江戸城と輸送したもよう。駿府城に着いたときは氷は6~7寸四方に、江戸に着く頃は2寸四方になってしまったとか。コストパフォーマンスの悪いクールビズですね(笑)。

 

 歴代使行録には、「駿河地方の河川(大井川、安倍川)はすべて富士山から発す」という表現もありました。正確ではありませんが、北村先生は「実態以上に富士山の存在を大きくとらえていた表現ではないか」と解説されました。

 また「斎戒沐浴して登山する」という、当時の巡礼者や富士講の風習も記述しています。

 

 

 

 興味深かったのは、第9回(1719)あたりから、富士山について、賞賛一辺倒ではなく、後ろ向きな表現が出始めたこと。「優雅で奇観ではあるが、先人の日記にあるような天下の名山というほどではない」「箱根のほうが山脈として魅力的」「伝説では、始皇帝が不老不死の薬を求めて徐福を遣わし、富士山で仙薬を探させたというが、(朝鮮)人参の産地である朝鮮をパスし、人参のない日本に来るはずがない」といった記述が見受けられます。中には、かなり痛烈な表現も。

 

 これは、この頃から起こり始めたナショナリズムが背景にあるようです。日本でも、賀茂真淵や本居宣長ら生粋の国学者が活躍し始めていた時期。幕府の中には、朝鮮通信使が行列の先頭に「清道」と書いたフラッグを掲げる伝統に対し、日本の道が汚いというのか!とイチャモン?をつける声も出始めたそうです。

 

 

 使行録は朝鮮通信使が自国民に伝える日記ですから、日本人が読むことはなかったと思いますが、先輩通信使が「世界でも比類なき山」と賞賛していた富士山を、「たいした山じゃない」と書いてしまう心情、個人の主観プラス当時の空気感(日本側の態度とか)みたいなものが背をおしたのかもなあと想像します。

 

 

 

 

 北村先生の解説はもっと突っ込んだ詳しい内容でしたが、ここですべてを開示してしまっては先生の研究活動の妨げになりますので、このあたりで止めておきます。関心のある方は、ぜひ、直接、静岡県朝鮮通信使研究会にご参加ください。

 

 

 

 

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