前回の続きです。
小島藩の領民は新たな年貢徴収法に苦しめられ、宝暦12年(1762)4月、中島・西脇・西島・下島の浜方四ケ村が以前の徴収法に戻すよう、訴え出ます。農民がお殿様に窮状を訴えるって、まるで時代劇で命がけの直訴みたいな場面を思い浮かべますが、実はそんなに珍しいことではなかったようで、北村先生は「むしろ、今よりずっと民衆の声が統治者にストレートに届いていた」と言います。
ここで北村先生は大胆な仮説をたてます。
宝暦12年4月8日に、現在の静岡市駿河区西島にある光増寺に白隠禅師がやってきて法会を営んでいた記録を見つけ、「浜方四ケ村の訴えは、白隠の入れ智恵に違いない」と。
先生が見つけた記録とは、沼津市の大聖寺が所蔵する『竜杖』に添えられた、「宝暦壬午夏仏誕生日駿府城南西嶋光増寺従義杲上座」の一文でした。宝暦壬午とは宝暦12年のこと。夏仏誕生日とは4月8日のブッダ生誕日のことで、旧暦では4月は夏だったんですね。いずれにせよ、浜方四ケ村の訴えが出された同時期に、白隠が四ケ村のひとつ西島に滞在していたことは間違いありません。
残念ながら、このときの浜方四ケ村たちの訴えは聞き入れられず、2年後の宝暦14年(1764)5月、今度は小島藩領内8ケ村の名主が、小島藩主松平家(滝脇松平)の親戚筋にあたる亀山藩主松平紀伊守に越訴するという強硬手段に出ます。同じ松平でも、もっと力のありそうな松平の殿様に、越境してまで訴えたというわけですね。いくら「今より民衆の声が届けやすい時代だった」といっても、かなり思い切った行動です。しかも翌明和2年(1765)には惣百姓(農民組織)が「年貢不能」を申し立ててストライキを起こします。
同年4月、ついに小島藩は新年貢徴収法を導入した(白隠が佞臣と批判した)役人を罷免し、年貢徴収を従前の方法に戻しました。さながら、“民主化運動の成功”といったところでしょうか。
この一連の出来事について、北村先生の推理がさらに冴えます。亀山藩主に越訴をした宝暦14年というのは、朝鮮通信使がやってきた年で、通信使一行は2月(行き)と3月(帰り)に東海道府中宿を通過しているんですね。
実は朝鮮通信使が前回、正徳元年(1711)に訪日したとき、沼津の大平村でこんな出来事がありました。
『大平年代記』によると、通信使がやってくる前年のこと。厳しい年貢の取り立てに苦しむ大平村の領民代表の宮内左衛門が、同じ境遇の豆州瓜生野村の小四郎という世話役に相談したところ、「来年、朝鮮通信使が来朝するが、今のように生活が苦しいと接待どころじゃない、一揆を起こすぞと脅してやった。大平村でもやってみろ」とアドバイスしたのです。瓜生野村の“脅し”は奏功しなかったようですが、大平村では年貢徴収が緩和されたとか。
50余年前のこの出来事を知っていたと思われる原(沼津)の松蔭寺住職・白隠禅師が、宝暦12年に小島藩領内に来た時、名主たちに伝えたか、後日、何らかの形で伝え、「2年後に朝鮮通信使が来るから、お前たちも“通信使の接待に支障が出るから”と訴えてみよ」と助言したのでは?・・・というのが北村先生の仮説。
「あくまでも私の推理で、白隠がそんなアドバイスをしたかどうか確証はない」とおっしゃっる先生ですが、国賓級の外交使節団・朝鮮通信使一行が通過する街道筋の藩では、涙ぐましい努力をして饗応接待をしていたのは事実ですから、財政の苦しい小島藩にしてみたら、領民の協力が得られなければ大変なことになると危機感を募らせたはず。通信使のことを持ち出されたら、領民の訴えを無視するわけにもいかないだろうと容易に想像できます。
ここが、史書に明確には記されていない“行間”を読み解く、歴史探究の面白さなんですね~
年貢徴収法が元に戻った翌年の明和4年(1767)2月、白隠はふたたび西島の光増寺に招かれ、法会を執り行います。白隠はこのとき83歳。富士山と並んで“駿河に過ぎたるもの”と謳われた名僧の説法を拝聴したいと、多くの民衆がおしかけ、光増寺の床が抜けたという記録が残っています。「白隠さまのおかげで村が救われた」と信じた人々の熱気がこもっていたのかもしれませんね。
白隠禅師は翌明和5年(1768)12月、84歳で亡くなります。白隠に“贅沢を慎め”と説教された小島藩主松平昌信は、その3年後の明和8年(1771)に43歳で亡くなります。
彼は、10人いた小島藩主のうち、ただ一人、白隠が最初に法会を行った小島村の龍津寺に葬られました。・・・厳しいことを言ってくれた白隠禅師を心のうちでは慕っていたのかな。興津川流域の龍津寺、蔵珠寺、養田寺には白隠が残した扁額が残っています。
中でも養田寺本堂の「施無畏」という扁額は、「衆生の種々の畏怖の心を取り除き、安心させ、救済する」という意味が込められ、「農民への励ましのメッセージだと思う」と北村先生は推察します。・・・映画にするならこの扁額がラストショットになる
扁額といえば朝鮮通信使に揮毫してもらうのが当時のお寺さんの“ブーム”で、西島の光増寺の扁額はまさに正徳元年(1711)にやってきた朝鮮通信使写字官の李爾芳(ペンネーム花菴)の書でした。「光増寺は臨済宗の名刹・宝泰寺(JR静岡駅前)の末寺。宝泰寺は通信使の休憩所になったから、その縁でしょう」と北村先生。
おなじく正徳元年(1711)に李爾芳が残した扁額が、福島県浪江町の大聖寺にも残っているそうです。先生曰く「おそらく現存する通信使扁額ではもっとも北にあるもの」とのこと。
浪江町といえば今回の東日本大震災の被災地であり、原発事故の避難指示区域ですね。
通信使が通過しない東北の寺になぜ残っているのか聞きたいし、実際に見に行きたいと思っても、おいそれと行けなくなってしまったことが、なんだか無性に哀しく思えてなりません・・・。震災被災者や原発避難者の方々が「施無畏」となる日が早く来るよう、お祈りするばかりです。