前回記事でウズベキスタンが親日国だと紹介した確たる証拠が、成田―タシケント間の直行便運航です。私自身シルクロードの国に長い間憧れを持ちつつ、今まで渡航の機会を持てなかったのは、一介のフリーライターにとっては高額な渡航費や乗り継ぎの煩雑さもハードルだったんですが、今回、週に2便ながら直行便が飛んでいることを知ってビックリ。ウズベキスタンが国策として日本との交流促進を目的に、ウズベキスタン航空直行便を支援していたのです。
行きの成田発タシケント行きには私たちのような日本人ツアー団体が6~7割、帰りのタシケント発成田行は、ウズベク人の若者を中心にぎっしり満席でした。隣に座った20代のウズベク男性に訪日目的を聞くと「短期日本語留学」とのこと。上川陽子さんがおっしゃっていたウズベクの日本語熱のリアルを目の当たりにしたのです。
10月13日、11時過ぎに成田を発ったウズベキスタン航空HY528便は、朝鮮半島から中国内陸に入り、ゴビ砂漠、天山山脈、タクラマカン砂漠をひとっ飛び。約9時間でウズベキスタンの首都タシケントに到着しました。まさにシルクロードの頭上を東から西へ。シベリア上空を飛ぶヨーロッパ便では味わえない眼下の圧倒的な景観に、終始カメラが手放せず、9時間がまったく苦ではありませんでした。
思えば、自分がシルクロードにはまったきっかけは高校生の時に観たNHKのシルクロード。喜多郎の音楽と石坂浩二さんのナレーションが鮮やかによみがえって来ます。ラクダや馬しか移動手段のなかった時代に、広大なユーラシア大陸を行交う民族と文化・・・とりわけインドから中国~日本へと伝来した仏教がシルクロードの道程でさまざまな時代、さまざまな地域の影響を受け、多種多様な仏教芸術を生み出した現象に強く惹かれ、大学の卒論では西域千仏洞の一つキジル石窟をテーマにしました。
キジルはバーミヤンから敦煌に至る仏教伝播のプロセスで中間に位置し、バーミヤンをしのぐ規模で、制作年代も中央アジアの他の石窟よりもはるかに早く、中央アジアの混淆雑糅文化を象徴するような石窟寺院。この地と縁が深い、インドの経典を中国語に翻訳した鳩摩羅什(344~413)や玄奘三蔵(602~664)の伝記も深く読み込んだものでした。
キジル石窟が築かれた亀茲国(現在のクチャ)の王子として生まれた鳩摩羅什は、大乗仏教に目覚め、出家してカシュガルの高僧のもとで修行し、中国(前秦国)の侵攻を受けて捕虜となって無理やり還俗させられたものの、後秦国の時代になって国師として厚遇され、長安で大乗経典300余巻の翻訳に従事。約200年後に玄奘の訳経が登場するまで鳩摩羅什訳の経典が最も権威あるものとして中国全土に広がりました。
クチャから長安へ東進した鳩摩羅什とは反対に、玄奘は長安から西進し、クチャを通過し、タシケントやサマルカンドにまで足を踏み入れました。『西域記』にはタシケントは「赭時(石)国」、サマルカンドは「康国」と記されています。赭時とは石のこと。シャシと発音します。ケントは都市という意味。シャシケント(石の都)がタシケントの語源となったんですね。玄奘は「赭時国は周囲千余里で、西は葉河(シル・ダリヤ)に臨んでいる。東西は狭く南北が長い。城や邑は数十あるが、それぞれ主君を別にいただいている。赭時国全体の君主もなく、突厥(とっけつ)に隷属している」と紹介しています。
東洋美術史要説下 吉川弘文館より
玄奘がタシケントを訪れた7世紀前半、中央アジアはトルコ民族の大帝国突厥が支配していました。ササン朝ペルシャと対立していたため、ペルシャの敵であるビザンチン帝国(東ローマ帝国)と同盟を結び、これによってシルクロードの東西交流が促進。突厥に従属していたソグド人の隊商が交易キャラバンを活発化し、各地に植民都市を築きました。17年間で3万キロにも及んだ玄奘のインド・西域求法の旅が、困難に遭いつつも完遂できたのは、このソグド人の経済力と突厥の軍事力によって安定していた時代背景もあったでしょう。玄奘はソグド人のことを「財産の多い者を貴とし、身分の優劣の区別が無い。たとえ巨万の富を持った者でも、衣食は粗悪である。力田(農民)と逐利(商人)が半ばしている」と記録しています。
宗教はソグド人が信仰していたゾロアスター教が浸透していました。火を拝み、鳥葬や風葬で死者を弔うペルシャ人の宗教・・・って世界史の授業で習いましたっけ。今回の旅で、ゾロアスター教の遺跡や玄奘時代の仏教の足跡を楽しみにしていたのですが、残念ながら、突厥に代わって中央アジアを征服したアラブ民族のウマイア朝やサーマーン朝王国がイスラム教を広め、モスクや廟など目玉となる史跡はすべてイスラム文化のもの。それ以前の宗教の面影を垣間見ることはできませんでした。
13日は現地時間16時30分過ぎ(日本時間20時30分)にタシケント国際空港に到着しました。
私にとっては初めてのイスラム圏の入国。しかも26年前までソビエト連邦下の社会主義国ということで、入国審査にどれだけ手間取るのか心配でしたが、あっけないほどスムーズにパス。空港ビルが手狭なせいか、屋外に送迎者ゾーンがあり、多くの人々が鈴なりになって家族や友人の到着を待ちわびていました。2017年4月現在でタシケント空港の国際線はソウル週8便、モスクワとイスタンブール便は毎日、北京と成田から週2便ほか中央アジア圏内からも5路線、国内線6~7路線あるようです。ラクダと馬でしか移動できなかった時代とはまさに隔世の感・・・!ですね。
この日はタシケント市中心部にあるホテルに直行し、荷ほどきをした後、ホテルで夕食をとりました。さあ最初のウズベキスタン料理!・・・といっても日本時間でいえば22時を過ぎており、食欲よりも眠気が先。ビュッフェで目に付いたのは鮮やかなフルーツの山とナッツ類でした。ガイド本には「水には注意、生野菜や生フルーツも用心」とありましたが、今回の旅で想定外だったのが、この生野菜と生フルーツとナッツの美味しさです。水も、ガイドさんがペットボトルのミネラルウォーターをこまめに用意してくれたので、参加者でお腹をやられた人は一人も出ませんでした。
もっとも初日夜はやはり加熱処理した飲み物をと、触手したのが黒ビールかと思いきや、小麦のジュース。ノンアルビールを少し甘くしたような、なんとも微妙な味でした(笑)。(つづく)