杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

マインドフルと禅語究明

2015-08-24 14:41:03 | 駿河茶禅の会

 処暑を過ぎたというのに相変わらず蒸し暑い日が続きます。それでも早朝、お寺の仕事で門や窓を開けるとき、吹き込んだ風にほんの少し秋を感じます。季節は着実に進み、変化しているんですね。

 

 6月に開いた駿河茶禅の会で、参加者にお気に入りの禅語を持ち寄って発表してもらいました。私が選んだのは「滴水滴凍」。落ちるごとに凍る水滴。寒い冬の朝、懸樋(筧)を伝ってポトリポトリと落ちる滴を見ていると、一滴ごとに凍てついていく。そのように人間も一瞬一瞬を、引き締めつつ生きなければならない・・・そんな意味だそうです。

 季節はずれですみません、とお茶の先生に詫びたところ、茶道では「紅炉上一点雪」のような禅語をあえて夏の茶席に飾り、涼を感じてもらう、そんな趣向もあると教えていただきました。言葉で涼む感性を持っていたとは、日本人が創り出す文化とは、やはり四季の変化に富んだこの国の〈無常=常にあらず〉の風土が成すものだなあと感じ入りました。

 

 「滴水滴凍」を見つけた西村惠信著『禅語に学ぶ 生き方死に方』(禅文化研究所刊)には、この言葉の解説として

『どんなに長い人生も、一歩一歩の連続であって、ひとときも切れ目はない。白隠は「独り按摩」という健康法を説いているが、その「最後の一訣」でずばり、「長生きとは長い息なり」と書いている。九十七の長寿を生きた妙心寺の古川大航管長は人から長生きの秘訣を聞かれて、「ただ息をし続けてきただけだ」と言われた。まことに人生の根本は、この一息から始まるということだ。だから一息一息が決して疎かな一息であってはならないのだ。ベトナムの禅僧でノーベル平和賞候補のティクナット・ハーン師は、人々に「マインドフルネス」という瞑想法をさかんに勧めている。この瞑想法は二千年の昔からタイやベトナム、あるいはスリランカなどの仏僧院で実践されてきたもの。日常動作の一瞬一瞬に心を集中させる瞑想法で、いま認知療法の有効な手段として、盛んに応用されているという。』

とあり、妹がアメリカで研究しているマインドフルネス(こちらを参照)を思い出しました。2年前に知ったときは、ネットで調べてもよくわからなかったのですが、この2年ほどでずいぶん普及したみたいですね。日経サイエンスでもこんな特集を組むくらい。

 

 

 同誌でマイアミ大学のトレーニングディレクターが簡単な実践法を紹介しており、私も坐禅をするとき参考にします。

 

① 背筋を伸ばした安定した姿勢で坐り、両手を太ももの上に御気か、掌をウエにして身体の前で重ねる。

② 視線を落とすか、目を閉じる。

③ 自分の呼吸に注意をはらい、身体全体をめぐる呼吸の動きを追う。

④ 空気が鼻・口を出入りする際、腹部のあたりの感覚を意識する。

⑤ 呼吸の影響を受ける身体の部分を一つ選び、注意をそこに集中する。呼吸そのものではなく集中をコントロールする。

⑥ 注意が逸れるのに気づいたら(そうなるのが普通)、注意を自分の呼吸に戻す。

⑦ 5~10分後、フォーカスアテンション(注意集中)からオープンモニタリングに切り替える。自分の心を「大空」とみなし、思考・感情・感覚を「流れる雲」とみなす。

⑧ 呼吸とともに全身の動きを感じる。自分の感覚を受け止め、いまおきていることに気をつけ、経験の質の変化に注意を払う。音、匂い、そよ風の愛撫・・・思考。

⑨ 約5分後、視線を上げるか目を開く。

 

 フォーカスアテンション&オープンモニタリングとは、茶を点てるとき、坐禅を組むときの心の動作そのものじゃないか・・・とも思います。日本の様々な伝統文化が表層ではなく内面的にも海外の人々に理解され始めている・・・そんなことを、この2冊の読み物から実感します。

 

 

 さて、今週また駿河茶禅の会で禅語の発表を行なう予定で、現在、参加者から集まってきた禅語をレジメに編集しているところ。ここでは前回6月のレジメをご紹介します。言葉で感じる自然と心・・・いつまでも大切にしていきたいですね。

 

 

「松無古今色」
■作者/夢窓疎石  ■出典/禅林句集

■意味/『禅林句集』の五言対句に「松無古今色、竹有上下節」(松に古今の色なく、竹に上下の節あり。)とある。鎌倉・南北朝の臨済宗の禅僧、夢窓疎石の『夢窗國師語録』に「便向他道、竹有上下節、松無古今色。」(すなわち他に向っていう、竹に上下の節あり、松に古今の色なし。)とあるのが元ではないかといわれる。

■選んだ理由/今の自宅を建てたとき、茶室(もどき部屋)に掛けるために、実家から父が選んでくれて持ってきたもの。いつも忙しい日々なので、「松」という言葉で花を飾る代わりとし、普遍的なので、時季も問わないし、自分を見つめリセットするための空間にぴったりの言葉と思って掛けています。


「得意淡然 失意泰然」
■作者/崔後渠  ■出典/六然
■意味/明末の儒者、崔後渠の六然(自處超然、處人藹然、有事斬然、無事澄然、得意澹然、失意泰然)のうちの2つで、得意の時でも驕り高ぶることなく、失意の時でも悠然と構えて取り乱さないことが大切であるという意味の格言。会社の事務所に貼ってあります。

 


「放下著」

■作者/圜悟克勤    ■出典/五家正宗贊

■意味/なかなか人は、無になろうとしてもなれない生き物。しかし人生、精神的な幸せとは何か? いろいろな物、お金、人間関係に執着することではなく、自由な心を持つことではないか。しかしながら、いろいろと捨て去ることは難しい。だからこそ「すべての執着を捨て去れ!!」が大事である。

■選んだ理由/潔さを美徳としている私のひとつのあこがれです。

 

 

 「看脚下(照顧脚下)」

■作者/圜悟克勤    ■出典/五家正宗贊

■意味/ 妙心寺のHPより抜粋します。

中国の禅僧法演(ほうえん)がある晩、3人の弟子を連れて寺に帰る暗い夜道、一陣の風が吹いてきて手元の灯が吹き消され、真っ暗になった。法演は弟子達に向かって質問をした。「暗い夜に道を歩く時は明かりが必要だ。その明かりが今消えてしまった。さあお前達、この暗闇の中をどうするか言え」と。

まず弟子の仏鑑(ぶっかん)が「すべてが黒一色のこの暗闇は、逆にいえば、美しい赤い鳥が夕焼けの真っ赤な大空に舞っているようなものだ」と答えた。次に仏眼が「真っ暗の中で、この曲がりくねった道は、まるで真っ黒な大蛇が横たわっているようである」と答えた。

最後に、圜悟(えんご)が「看脚下」(かんきゃっか)と答えた。つまり「真っ暗で危ないから、つまずかないように足元をよく見て歩きましょう」と答えたのである。この言葉が師匠の心にかなった。

暗い夜道で突然明かりが消えたならば、まず今ここでなすべきことは何か。それは他の余計なことは考えずに、つまずかないように足元をよく気を付けて行くということだ。もう一歩進めて解釈をすると、自分自身をよく見なさいと。足元を見ると同時に、我が人生の至らなさを見て欲しい。未熟である自分に気づく、発見する。足元を見ると言う事の中には、そういう大事な意味がある。

 ■選んだ理由/我が家のお寺「臨済寺」の玄関にも掛札があり、高校生の頃、法事の際に何だろうと思い、お坊さんに尋ねた記憶があります。以来、ピンチの時もチャンスの時も自分の置かれているポジションを冷静に認識しようという自戒の念として心掛けています。勿論、我が家の玄関の靴の整頓にも役立っています!?

 

 

「萬法帰一」

■作者(編者)/圜悟禅師(雪竇重顕)  ■出典/碧巌録

■意味/「天地と我と同根、万物と我と一体」という禅語がある。この世の森羅万象は究極において「一」に帰るのだ。「一」とは限りなく豊かな世界、そこはすべての境界線を取り除いた妙境涯だ。あなたが今まで蓄積してきた知識、執着は「一」を見えなくしてしまうかもしれない。しかしひとたびそれらをさっぱりと捨て去れば「一」を実感できることだろう。しかもあなたが「一」を会得しても、あなたは禅の師匠から「一」にとどまってはいけない、と強く戒められる。さあ、あなたはその後どうする?

 

 

「桃李不言 下自成蹊」
■作者/司馬遷  ■出典/史記
■意味/桃も李もものを言うわけでもなく、人に訴えかけず沈黙を守っている。だが花や果実にひかれてたえず人が集まってきて、木の下にはいつの間にか小道が出来てしまう。人間も同じである。徳がそなわっている人はおのずから人が集まり、人が進むべき道というものができるのである。
■選んだ理由/ひとつは言葉(文字)の持つ意味に引かれた。桃李の動(変化・成長)と不言の静。蹊は人工的に造られた道ではなく、自然の流れの造形。競争社会を生き抜くため、各々は自己顕示欲をあらわにするが、無欲無心の感動を覚えるような、行動や振る舞いが自分にはできるだろうか。いつか足元を見て振り返った時に、そんな世界が見えたら素晴らしい。関連の語句/論語「無可無不可」

 

  

「夢」

■出典/金剛経(金剛般若波羅蜜経)

■意味/一切有為法〈いっさいのういのほう〉如夢幻泡影〈むげんほうようのごとし〉

    如露亦如電〈つゆのごとくかみなりのごとし〉 応作如是観〈まさにかくのごときかんをなすべし〉

禅では、私たちが今生きているこの現実の経験こそが‘夢’である・・とのこと。この世は諸行無常で、すべては夢、まぼろしに過ぎない。実態がない空である。とすれば、執着することのなんと虚しいことか。

■選んだ理由/亡き人を偲ぶ際によく見かける‘夢’の一字。調べてみたら・・・禅語では戒めのごとく 奥深さにガツーンときます。信長が好んだという敦盛(あつもり)「人間(じんかん)五十年、下天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻のごとくなり・・・」、豊臣秀吉の辞世の句「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速(なにわ)のことは夢のまた夢」、沢庵禅師の遺偈「夢」等。ある時代日本を動かしていたのは、 茶の湯と同じく禅や能の素養を身に着けた人々たちだったことに、改めて感じ入りました。

 

 

「本来無一物」 

■作者/慧能禅師  ■出典/六祖壇経

■意味/事物はすべて本来空(くう)であるから、執着すべきものは何一つないということ。禅の端的を見事に言い当てたこの語は、中国禅宗の第六祖となった慧能禅師の言葉。これは慧能が師の第五祖・弘忍(ぐにん)禅師から法を継ぐ契機となった詩偈(しいげ)に由来しており、禅の古典『六祖壇経』にある。慧能(えのう)(638~713)中国禅宗の第六祖、六祖大師ともいう。諡(おくりな)は大鑑禅師。

■選んだ理由/以前から気になる「禅語」の一つだったので、もう少し詳しく知りたいと思い選んだ。

 

 

「両忘」   

■作者/程明道(中国宋代の儒者)  ■出典/定性書

■意味/物事を二つに分けることを忘れてしまえという意味。生と死、貧と富、楽と苦、愛と憎、勝と負、好きと嫌い、大と小、高と低、明と暗、美と醜、善と悪、左と右、内と外など、この世界は二つの相対しているものであふれています。私たち、人間は物事の白黒をつけたがる傾向があります。自分は、世間でいうところのお金持ちなのか貧乏なのか、頭がいいのか悪いのかなど、どちらかに分類しようとするから、不安になるのかもしれません。花畑にはいろいろの花がたくさん咲いています。どれが美しくて、どれが醜いなんてだれが決められるでしょう?

■選んだ理由/今読んでいる本(感情的にならない本 和田秀樹著)に、偶然同じ内容の事が書いてあり、私の心にすんなり入ってきました。私の欠点、私を苦しめている生き方はこれだと思ったのです。このような人は幼稚で人が去ってゆき孤独になると書いてあり、豊かな人生を歩むためには自分を変えていかなくてはいけない、と思いました。また、執着やとらわれ、思い込みなどをすべて忘れることで、心が放たれ新しい道が開けるとありました。心癖なので変えるには時間が掛かりますが、心に静寂が得られるよう日々努力するつもりです。

 

 

「己事究明」

■意味/まず自分自身を知り、生かされていることに気付き、自分を活かすように行動する。ということ。他人の事は気になるが、自分自身のことには意外と疎いのが現代の私たちです。まず、「自分自身を知れ」という教えは自分探しの修行が大切であるということ。