杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

駿河史秘話~小島藩と白隠禅師と朝鮮通信使(その1)

2011-05-19 11:57:00 | 朝鮮通信使

 遅くなりましたが、5月11日に開かれた静岡県朝鮮通信使研究会2011年度第1回例会のご報告を。

 

 今回は北村欽哉先生(郷土史家・朝鮮通信使研究家)による『小島藩惣百姓一揆~白隠と朝鮮通信使の関係を中心にして』という講話です。行政組織の在り方、指導者の資質等、現代にも通じる大変興味深い内容で、歴史小説か、『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』番外編ができそうなぐらい、面白いお話でした

 いつもながら北村先生の目のつけどころの良さといい、フィールドワークの緻密さといい、歴史というのはこういうふうに探求していくんだと身をもって教えていただき、大変感激しました。以下は先生の解説に私の素人感想を加えた雑文です。なにとぞご了承ください。

 

 

 小島藩というのは、江戸中期に現在の静岡市~旧清水市を治めていた一万石の小大名です。駿府の中心は幕府直轄地ですが、隣接した地区にはちゃんと藩があったんですね。宝永元年(1704)に滝脇松平家2代目・松平信治が興津川中流の庵原郡小島に陣屋を構え、小島藩が成立しました。

 

 滝脇松平家というのは、18氏ある松平姓の一つ。藩といっても3万石以下の大名はお城が持てず、1万石というのは藩として最低ラインだとか。松平家といってもあんまり裕福じゃなかったみたいですね

 天保3年(1832)の記録によると、小島藩が治めていたのは30カ村。興津川流域(小河内、中河内、清地、小島、谷津、吉原、布沢、土)、巴川流域(瀬名川、鳥坂、長尾、平山、広瀬、上足洗、池田、柳新田、池ヶ谷、有永、南、羽高、北、東、川合、川合新田、南沼上、北沼上)、安倍川南(中島、西脇、西島、下島)です。今、自分が住んでいる北安東も領地だったんだ・・・

 

 

 さて、小島藩は行政組織として考えたら、もともと財政基盤の脆弱な自治体で、寛延3年(1750)~宝暦4年(1754)の間に、領民から7千両の借金をします。国債ならぬ“藩債”を発行したんですね。1万石の財政規模(実収入はその半分くらい)の自治体が7千両もの借金を背負うというのは、大変なリスクです。

 当然、返済の見込みは厳しく、領民からの日々ブーイングは強まりますが、小島藩も人件費削減など、それなりに行革努力をしていたよう。

 

 1万石の藩というのは、藩士の定員が200人だそうですが、藩の実収入は半分の5千石ぐらいしかなく、そのうち人件費にあてられる予算で200人も養うのは至難の業。実際には藩士(=正規の公務員)は100人、譜代足軽(=臨時雇いの派遣職員)40人ぐらいしか雇えなかったそうです。末端藩士の収入は表向き10石となっていますが、実際は5石ぐらいしかなかったもよう。1石を30万円で換算すると、年収150万円って、まさに「武士の家計簿」みたいな話です。

 

 藩のお手当では食べていけない藩士は、アルバイトで稼ぐしかありません。小島藩の倉橋格(いたる)という藩士は、恋川春町というペンネームで戯作業に精を出し、『鸚鵡返文武二道』を書きました。これ、田沼時代の放漫財政から、一気に緊縮改革をした老中松平定信の「寛政の改革」を、“世の中に蚊ほどうるさきものはなし 文武といひて夜も寝られず”と皮肉った有名な狂歌ですよね。

 彼が町人だったらお咎めがなかったかもしれませんが、小島藩士だとバレて、46歳で表向きは病死となっていますが、実は自殺に追いやられたとも・・・。

 

 

 

 そんなわけで小島藩士には同情の余地があるものの、藩債をおしつけられた領民も生活は苦しくなる一方です。そんな小島藩領地に宝暦5年(1755)、のちに臨済宗中興の祖と評される名僧・白隠禅師がやってきて、龍津寺(小島)の開山宝珠護国禅師二百年遠忌法要で維摩経を講じ、この地に3カ月ほど滞在したのです。

 

 

 時の小島藩主は28歳の松平昌信(しげのぶ)。白隠は滞在中に領内をあちこち視察したようで、原(沼津)の松蔭寺に戻った後、昌信に充てて「領主の心得」みたいな一文を書き送りました。白隠の名書『夜船閑話』巻の下に残っています。

 

 「申すまでもありませんが、家柄に応じて定められた要り用以外は、万事省略になされ、無駄の出費をひかえ、民百姓の生活を守り、藩が強固となるよう指導されることが何より大事なことと、ご覚悟されますよう、お願い申します」

 

 「まず民百姓をいつくしみ、使役をゆるめ、賦税を軽くし、仁政を施されるべきです。そのためにはどうしたらよいか。贅沢を禁じ、浮費をおさえ、酒と歌舞の宴をやめ、鷹狩りなどもやめ、讒言や追従を事とする佞臣(ねいしん)を退け、美しい側室や婢妾をおくのをやめ、夏衣の衣類もすべて質素な木綿にし、朝夕のお食事も一菜までとし、万事につけて倹約にされ、その余りをもって窮民を救い、老病の民に施されることです。いかなる名君といえども、これより他の方法はなかろうと思います」

 

 現代訳にすると丁寧な表現になりますが、原文はもっと過激な言い方で、若い殿様に頑固な禅師がキツ~イお説教をしているみたい(苦笑)。

 

 殿様にしてみれば、「自分たちだってリストラして頑張ってる、余計なお世話だ」と反発したくなるかも。分派とはいえ松平家のプライドもあっただろうし、見栄を張って贅沢してたんじゃないかなぁ・・・。

 白隠が「讒言(チクリ)や追従(イエスマン)を事とする佞臣(ねいしん=タチの悪い部下)を退けろ」と言ったのに、宝暦9年(1759)には白隠が佞臣と名指しした部下を登用して年貢を上げ、作柄の良い村を基準にした“生籾五分摺り法”という新しい年貢徴収制度を導入します。

 

 これによって領民の生活はますます苦しくなり、怒りが爆発し・・・と、まるで中東の民主化運動みたいな展開に発展していくのですが、そこに意外にも、国賓級の外交使節団である朝鮮通信使が、ある関わり方をしていきます。長くなりましたので、続きはまた。


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