杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

福岡・聖一国師の足跡と博多茶禅文化探訪(その1)

2019-11-07 20:23:41 | 駿河茶禅の会

 先の記事でお知らせしたとおり、駿河茶禅の会の研修旅行で10月13日(日)~15日(火)に福岡へ行ってきました。前夜12日に台風19号が上陸し、予定の福岡便(13日9時発)が飛ぶのかどうかヒヤヒヤしましたが、搭乗機は前日から静岡空港の格納庫で台風避けしていたとのことで、台風一過の青空のもと、バッチリ富士山を背景に無事フライトしてくれました。

 

 静岡で茶禅を学ぶ者にとって、日本に初めて茶を伝えた栄西禅師、静岡に茶を伝えた聖一国師という2大禅僧は極めて重要な存在であり、福岡は両師が中国から帰国後に最初に布教活動を始めた記念すべき地。しかも16世紀末、豊臣秀吉が九州を平定した頃、千利休もこの地で茶会を催し、その足跡が数多く残っています。

 運良く静岡商工会議所内に発足した聖一国師顕彰会が福岡と交流活動を行っていることからアドバイスをいただこうと思い、ちょうど静岡茶の取材でお世話になっていた静岡県茶業会議所の小澤専務に顕彰会事務局を紹介いただき、駿河茶禅の会メンバーにも顕彰会会員がいたことから、福岡での聖一国師ゆかりの地訪問がスムーズに決まりました。

 単なる寺社巡りで終わらないのが駿河茶禅の会の研修旅行です。今回は望月静雄座長が所属する裏千家インターナショナルアソシエーション(UIA)の九州エリア会員が、我々を歓待する茶会を開いてくださることになりました。

 行程は13日に承天寺、櫛田神社、大同庵。14日にUIAとの交流茶会。15日に筥崎宮、崇福寺、聖福寺と回りました。順を追ってご紹介します。

 

 

 

承天寺

 まず最初の訪問は、博多を代表する名刹・承天寺です。案内役を買ってくださった承天寺塔頭乳峰寺の平兮正道和尚より待ち合わせ場所としてご指示いただいたのが「博多千年門」。多くの神社仏閣が並ぶ博多旧市街のウエルカムゲートとして平成26年に新設されたのだそうです。神社の鳥居や中華街の門なんかもそうだけど、こういう門って異境空間へと誘う効果がありますよね。

 

 承天寺は仁治3年(1242)に聖一国師を開山に創建しました。国師が宋から戻ったのが1241年ですから、禅の布教の最初の一歩という記念すべき場所ですね。平兮和尚には聖一国師を祀る開山堂、庫裏、方丈、国師が中国からその製法を伝えたとされる〈饂飩蕎麦発祥ノ地〉の碑、蒙古襲来時に元の軍船に使われていたとされる〈蒙古碇石〉、博多に疫病が蔓延した時、国師が施餓鬼棚に乗って棒で担がせ、祈祷水を撒いて病魔退散させたことにちなんだ〈博多山笠発祥之地〉の碑等をご案内いただきました。

 博多在住で南宋杭州出身の商人・謝国明が伽藍建設費用を出して完成したこと、鎌倉時代の博多にはすでに数多くの中国商人が暮らしており、貿易を行って寺の伽藍を寄進するほどの巨額の富を得ていたこと、聖一国師は帰国後に修行寺である径山寺が火事で焼けた際、謝国明の勧めで博多から寺再建のための木材を大量に送るなど、800年ほど前の話がついこの前の話のように身近に感じられました。

 そうそう、個人的懸案だった饅頭発祥について、聖一国師が宋から酒饅頭の作り方を伝えたのは確かなようで、この技を継いだ虎屋に、国師が揮毫したといわれる『御饅頭所看板』が残されています。一方で、聖一国師よりも先に宋へ渡った道元が、聖一国師帰国年の1241年に著した『正法眼蔵』の中で、饅頭の食べ方について言及しているとのこと。誰が一番最初に饅頭を伝えたのかハッキリした証拠はないし、「うちが元祖」って言った者勝ちの世界だ・・・なんて思えてきます。そもそも歴史とは「言った者勝ち」「書いたモノが残ってた者勝ち」で成り立っている世界だろうし(苦笑)。

 

 平兮和尚には、国の伝統的工芸品指定・博多織と国師との関係を教えていただきました。聖一国師が渡宋した際、博多商人の満田彌三右衛門が同行し、現地で習得した織物の技法に独自の意匠を加えて制作したものが起源とのこと。文様は仏具の独鈷と華皿を結合した紋様を縞に配したもので、後世、黒田長政が徳川幕府への献上品として同柄を“献上柄”としたことで、博多織の代表的な柄となったそうです。

 

 翌14日夜には博多旧市街ライトアップウォーク〈千年煌夜〉の一環で、艶やかにライトアップした方丈枯山水庭園や開山堂を見学しました。若者や家族連れ、ラグビーワールドカップの福岡開催ゲームで来福した外国人など、ふだん禅寺を訪ねる機会がないと思われる人々で大いに賑わっており、聖一国師と一般市民との距離の近さを実感しました。

 

 

 

櫛田神社

 櫛田神社は承天寺から歩いて7~8分。乳峰寺の平兮和尚にわざわざ神社までご案内いただき、本殿にて正式参拝。その後、阿部憲之介宮司と社務所内にて懇談させていただきました。

 櫛田神社はご存知の通り、天照皇大神、大幡主大神、須佐之男大神(祇園大神)をお祀りする博多総鎮守。須佐之男大神は天慶4年(941)、藤原純友の乱鎮圧にあたった小野好古が山城(京都)祇園社より勧請したもので、鎌倉中期の仁治2年(1241)、宋から帰国した聖一国師が博多に蔓延していた疫病退散の祈祷を行い、施餓鬼棚に乗って浄水を撒いた姿にあやかり博多祇園山笠が始まったといわれます。毎年7月1日から15日まで飾り山笠が公開され、10日からは勇壮な舁き山笠が街を駆け抜けます。期間中は300万人の観客を集め、平成28年にはユネスコ無形文化遺産に登録されています。

 

 福岡市は「博多祇園山笠」という核を中心に経済発展を遂げ、東アジアのゲートウエイとして交流人口が増加するだけでなく、定住人口も毎年1万人増だそうです。承天寺建立をスポンサードした謝国明の時代から有能な商人を数多く輩出し、大陸からもたらされる新しい産業や文化を柔軟に受け入れ、地域経済に取り込み昇華させてきた都市力が脈々と受け継がれてきたんですね。その象徴が、祇園山笠を実質的に指揮する阿部宮司で、なんというのか、博多の人ってこんな熱量を持っているんだ!とビンビン圧を感じる豪快でエネルギッシュな御仁。都市を勢いづかせるにはこういう人が不可欠なんだろうと思いました。

 宮司のご配慮で境内にある博多歴史館を見学し、博多人形師が腕によりをかけて制作した武者人形・歌舞伎人形等をあしらった豪華絢爛な山笠の展示を堪能しました。今年の博多祇園山笠の動画を館内ビデオで拝見し、テレビ画面からもその迫力と勇壮さが伝わってきました。みんなで「来年7月には博多と京都の祇園祭はしごツアーをやろう」と盛り上がりました。

 

 

大同庵跡・古渓水

 前々回の記事で紹介したとおり、千利休の参禅の師・大徳寺住職の古渓宗陳が博多に配流された際、滞在していた大同庵の跡地が中洲のビル街の一角にありました。古渓が使っていたという古井戸が残っており、今も水を湛えています。

 

 秀吉の命による寺の造営を巡って石田三成と対立した古渓は、天正16年(1588)に博多に流され、彼を慕う小早川隆景や博多の豪商らの庇護のもと、茶会や散策をして心穏やかに過ごしました。栄西禅師が開いた日本で最初の禅寺・聖福寺や、当時大宰府にあった崇福寺にも足を延ばしたようです。2年後に京へ戻った古渓は、愛弟子利休が秀吉の怒りを買って切腹、大徳寺も廃寺を命ぜられる事態に遭い、死を賭して秀吉を説得。晩年は利休の菩提寺大徳寺聚光院の住持を務めました。

 雑居ビルとコインパーキングに挟まれ、うっかり通り過ぎてしまいそうな路地裏の小さな史跡でしたが、この地で臥薪嘗胆の時を待っていた古渓の心中を想像し、井戸からくみ上げた水を古渓石像にかけ、合掌しました。電信柱に史跡紹介が書かれていたのが印象的でした。

 

 

 夜は西中洲のもつ鍋店でご当地グルメに舌鼓。ラグビーワールドカップの日本×スコットランド戦の行方が気になり、ほぼ全員がスマホで速報を凝視していました。ちょうど食事が終わって店の外に出たところ、近くから歓声が聞こえ、様子を見に行った会員さんから「パブリックビューイング会場があるぞ!」と。西中州の福岡市旧公会堂貴賓館前に設置された大型スクリーン前の群衆に我々も飛び込んで、ラスト10分、スコットランドの猛攻を必死に食い止める日本代表フォワード陣のハラハラドキドキの攻防を観戦し、歓喜の瞬間を大勢のギャラリーとともに分かち合うことができました。

 中洲の夜の思い出は?と聞かれたら、当面は、この瞬間がフラッシュバックするに違いありません。(つづく)


聖一国師とは何者か

2019-09-17 21:11:33 | 駿河茶禅の会

 前回に引き続き、駿河茶禅の会の福岡研修予習編です。

 静岡と福岡をつなぐ架け橋の一人・聖一国師。鎌倉時代の建仁2年(1202)10月15日、駿河国藁科川上流の栃沢に生まれ、わずか5歳で久能山の久能寺に入門し、18歳で出家。全国各地で修行を重ね、34歳で中国(宋)へ留学。40歳で帰国し、九州博多を中心に禅の伝道に努め、54歳で京都東福寺開山に。中国から持ち帰った茶の種子を故郷栃沢と足久保に蒔き、これが静岡茶の発祥といわれます。

・・・と、ここまではなんとなく知っていても、国師ご自身の人となりがどうもよくわかりません。同じ禅僧でも聖一国師から500年後に活躍した白隠禅師のことは、さまざまな文献やご自身の著書等が数多く残っていて「若い頃は繊細でストイックで強情なところがあったけど、晩年は肝が据わっていて懐が深かった人らしい」ということまで理解しているのですが、その500年前の禅宗が日本に入ってきて間もない黎明期の人ゆえか、年譜に記録されたことから推察するしかないようです。

 

 今回参考書として通読した文献のうち、県茶業会議所1979年発行の『静岡茶の元祖 聖一国師』の序文には、「県茶業関係者の中にはこの偉大なる先哲恩人の業績を忘れ、国師の名さえ存知しない人が少なくない」「日本の茶祖といえば栄西禅師を思い浮かべるのが普通で、その法弟である聖一国師の茶業功績はその陰にかくされている」「静岡県の茶業関係者は幕末から飛躍的に急増した輸出茶という現実面に目を奪われ、それらの功績者の表彰を急ぐあまり、最も崇敬すべき茶祖聖一国師の遺徳を顕彰する企てを怠った」とありました。今から40年前に発行された本ですが、40年経った今も、顕彰活動を行う一部有識者を除き、お茶の業界の人々や一般市民の認識はあまり変わっていないような気もします。かくいう自分も、静岡茶の元祖といわれるわりには聖一国師が静岡茶の世界で存在感があるとは思えず、単に中国土産の珍しい植物の種を故郷に植えただけじゃない?なんて浅い認識しか持っていませんでした。

 

 私は毎朝、急須で淹れた緑茶を1煎目はご飯を食べ終わった後のお茶碗でガブ飲みし、2~3煎目は仕事部屋や外出先で飲むために水筒もしくは空のペットボトルに詰め、一日平均2リットル近く飲んでいます。もしも聖一国師がいなかったら、国師が茶を持ち帰らなかったら毎日こんなおいしいお茶を存分に飲める暮らしはできないだろう、そもそも茶が存在していなかったら静岡はどうなっていたのか・・・。今回研修の機会を得てIFの想像をあれこれしてみたら、聖一国師とはどんな人か、なぜ茶の種を故郷に持ち帰ったのか、そもそも禅の修行とお茶はどんな関係があるのか興味の深度がどんどん進んでいきました。やっぱりその人の行動原理とそのバックボーンが理解できれば、記号として暗記するだけでは終わらない、今の私たちにつらなる生きた歴史を学べるに違いないと思うわけです。

 

 『静岡茶の元祖 聖一国師』には聖一国師の祖父母や父母のことが詳細に紹介されていました。源平合戦で平氏の敗北が決定的となった頃、京の高倉ノ宮に仕えていた平家の娘・米沢は都落ちして東へ逃れ、駿河国安倍川辺りまで来て東からやってくる源氏の勢力を恐れ、藁科川を北上。栃沢の里で隠れ家を見つけて身を潜めます。そこに彼女を訪ねて平家方の青年武士がやってきて夫婦となり、坂本姫という娘をもうけます。青年武士というのはもともと彼女の恋人だったのかな?

 坂本姫は宮仕えの経験を持つ父母のもと、しとやかに育つものの、16歳のときに父母を同時に亡くし、天涯孤独の身に。母の形見の弁財天を朝夕拝み、墓に香を焚いて菩提を弔う日々の中、関東から逃れてきた平家の残党・上総介忠清の孫にあたる五郎親常という若者と出会い、結ばれる。2人は平家一門出身のプライドを捨て、栃沢の地で一農夫として生きる選択をする一方、当時、海外からもたらされた最先端の学問領域でもあった仏教への関心を深め、子が授かったならば僧侶にしようと心に決めます。お茶が伝わる前の栃沢は、たぶん外との交流もほとんどない静かな貧村だったことでしょう。上流階級出身の2人には諸行無常が身にしみていたことと想像します。

 そうして生まれたのが龍千丸(のちの聖一国師)。父母は龍千丸が5歳になったとき、久能寺の僧正・堯弁大徳師に預け、龍千丸は「円爾」の名を授かります。

 円爾は1を聞いて10を理解するといわれるほど智能に長け、出身地にちなんで「栃小僧」=「とんち小僧」と呼ばれていたそう。円爾13歳のとき父の親常が亡くなりますが、実家には戻らず修行に邁進し、18歳で滋賀の三井園城寺に入って剃髪。奈良東大寺戒壇院で受戒し、正規の出家となります。

 園城寺で大乗・小乗の教えをほぼ修得し、これに飽き足らなくなった円爾は、栄西禅師が伝えた禅に惹かれ、栄西の法弟として名高い栄朝がいる関東上野ノ国・長楽寺の門をたたきます。次いで久能寺に戻って真言の三密(真言宗の秘密の三業)を授かり、さらには鎌倉寿福寺の蔵経院で修行。『首楞厳経(しゅりょうごんきょう)』という経典の講義でその道の権威と言われる高僧に腑に落ちない点を質問したものの相手は答えに窮し、「日本で権威といわれる人でさえこの程度ならば、宋に留学するしかない」と実感します。

 さらに鎌倉では鶴岡八幡宮の八講会で “三井の大鏡” と尊敬されていた講師の三位僧都頼憲に詰問を繰り返し、論破してしまいます。円爾は「この鏡は鉄でなければおそらく瓦で作ったものか」と頼憲を侮蔑し、講義に参加していた僧徒たちは顔色を失う。頼憲は僧徒たちに「怪しむな。これは文殊・舎利仏の生まれ変わりの言葉であり、私の誤りを指摘されたのだ」と諭し、一同は円爾に尊敬のまなざしを向けたとか。このエピソードは聖一国師の年譜(弟子がまとめた履歴書)にあり、もちろん師匠礼賛エピになっているのですが、客観的に読めば、円爾というのは頭でっかちの礼儀知らずで、頼憲のほうが人格者だなあと思えてしまいます(苦笑)。


 円爾が念願の宋留学を果たしたのは34歳のとき。阿育王山、天童山など禅学の聖地を訪ね廻り、杭州の西北にある中国五山の一つ・径山(きんざん)萬寿寺の無準師範に師事します。

 無準師範(1177~1249)は後に鎌倉円覚寺を開いた無学祖元はじめ中国・日本の禅僧を数多く育て、日本の禅宗の父とも言われる傑僧。真の師を得た円爾は6年間みっちり修行をし、無準も彼の非凡な資質を見抜き、側に置いて直に教育し、印可(悟りの証明)を授けます。40歳で帰国した円爾は、名高い無準師範の印可を受けたことが評判を呼び、九州各地に創建された禅寺に開山として迎えられます。このとき禅道のみならず、中国から茶、陶器、織物、麺、饅頭などの製法を持ち帰ったといわれます。

 話は逸れますが、私はかつて、奈良市の林(りん)神社の例大祭(饅頭まつり)を取材したことがあります。林神社というのは貞和5年(1349)に来日し、日本で初めて餡を入れた饅頭を作った中国人・林浄因を祀る日本で唯一の饅頭神社。林浄因は龍山禅師(のちの京都建仁寺35世)が中国へ留学したとき知り合い、禅師の帰国に随従。饅頭は評判を呼び、宮中へも献上され、林家は足利義政から「日本第一本饅頭所」の看板を許されます。屋号は『塩瀬』とし、江戸時代は将軍家ご用、明治以降は宮内庁御用達の『塩瀬総本家』として発展し、毎年4月29日の例大祭には全国から菓子業者が集まって家業繁栄を祈願します。饅頭を最初に伝えたのが円爾なのか林浄因なのか、個人的には今度の福岡研修でハッキリさせたいと思っています(笑)。


 私は以前、東京の五島美術館で無準禅師が円爾に与えたとされる「茶入」という書を観て(こちらのサイトを参照)、その伸びやかで品格ある筆致にしばし時間を忘れて見入ったことがありました。

 円爾が日本に帰った翌年に萬寿寺が火事に遭い、心配した円爾が無準のもとへ材木一千本を新調して送ったその返礼状が、東京国立博物館に『与聖一国師尺牘(せきとく)』という板渡の墨跡として保管されており、板に書かれた珍しい墨跡で国宝に指定されています。

 無準はまた博多に承天寺が建つと諸堂に掲げる山額や諸碑のための文字を書いて送り「文字が小さくて寺院と釣り合いが取れなかったら書き直すから知らせておくれ」とまで書き添えたとか。円爾と無準の文物交換はこれ以外にも数多く、師弟の絆の強さを思い知らされます。5歳で父母と別れ、肉親の情愛を知らずひたすら求道に邁進してきた円爾にとって、無準は理想の師であると同時に、父性を感じる存在だったのかもしれませんね。


 ところで私が最も関心があるのは茶と禅僧の関係。栄西や円爾が学んだ中国の禅宗では、毎朝必ずご本尊に茶を供え、坐禅の最中にも喫茶タイムをもうけます。修行僧が各自の役割を言い渡される配役行茶という儀式では、参加者全員で茶菓子をいただき、意識統一を図ります。気分をすっきりさせるカフェイン効果、気分を落ち着かせるテアニン効果、体調を整えるカテキン効果等など現代科学で解明された茶の効能を、中国では唐の時代から以前このブログ記事でも紹介した『茶酒論』に著し、宋代の禅僧はその薬効性を修行に取り入れていたわけです。

 一方、後に茶礼や茶事に代表される茶の儀式は、薬効性というよりも、禅寺における修行の規律や規則遵守を目的に書かれた『禅苑清規』という教本がベースになっています。これを最初にた取り入れたのは栄西の後に入宋した道元で、その後に入宋した円爾も禅苑清規を持ち帰って東福寺の規則に取り入れました。この清規の中に喫茶喫飯儀礼が含まれていて、禅堂における共同飲食のマナーとして普及した。つまり、禅の普及に伴ってお茶が一般に浸透していったのですね。実際に戦前までは多くの禅寺が茶畑を所有し、お茶を栽培していたそうです。


 円爾は42歳のとき九条藤原道家から「聖一和尚」の名を賜り、翌年、上州長楽寺へ帰朝報告へ赴きます。帰途、故郷の栃沢に立ち寄って生母との再会を果たし、このとき栃沢と、山を隔てた隣村の足久保に茶の種子を蒔いたといわれます。藁科川上流のこの一帯は宋の径山に地形が似て茶の栽培に向いており、貧村に新たな地域資源を与えたと考えられますが、円爾には敬愛する無準師範の記憶につらなる茶の種を、生まれ故郷に植え付けたい・・・あるいは茶の普及とともに禅の教えを浸透させることで安寧の時代を拓くのだという意志を父母や祖父母に伝えたい・・・そんな思いがあったのではないでしょうか。なんだかそのほうが人間円爾らしくていいなあと想像します。

 聖一国師円爾についての予習はまだまだ途中ですが、長くなりましたので今日はこの辺で。


〈参考文献〉静岡茶の元祖聖一国師(静岡県茶業会議所編)、聖一国師年譜(石山幸喜編著)、新日本禅宗史(竹貫元勝著)、茶の文化史(村井康彦著)、栄西と日本の美(洋泉社MOOK)、しずおか聖一国師物語(自由民主党静岡市議団発行)

 

 



千利休の師・古溪宗陳

2019-09-10 08:20:57 | 駿河茶禅の会

 私が主宰する駿河茶禅の会で、今年10月に福岡博多研修を計画しています。昨年、富士山静岡空港利活用促進事業に応募し認可された静岡空港出雲線を利用しての松江出雲研修に引き続き、今回は福岡航路を利用しての茶禅研修です。

 博多と静岡とお茶といえば、なんといっても円爾弁円=聖一国師(1202~1280)。静岡市の藁科川中流の栃沢に生まれ、久能寺、園城寺(滋賀)、長楽寺(群馬)、寿福寺(鎌倉)等で修行した後、34歳のとき宋国に渡り、40歳で帰国。大宰府崇福寺、肥前万寿寺、博多承天寺の開山となって九州を拠点に禅道布教を始め、やがて関白九条道家に請われて東福寺(京都)の開山となりました。43歳のとき、かつての修行先・上州長楽寺へ帰朝の挨拶に出向いて、その帰路に故郷栃沢に立ち寄り、宋から持ち帰った茶の種子を足窪村へ播種したと伝わります。今までは単に「静岡にお茶を伝えた偉いお坊さん」というイメージしか持っていなかったので、今回を機に禅宗史における聖一国師の存在をしっかり学べたらと思い、いろいろな文献を読み漁っているところ。研修の資料作り程度の整理が出来たらこのブログでもご報告します。

 

 今回ご紹介するのは、過去に駿河茶禅の会で訪ねた京都の大徳寺、堺の南宗寺、松江藩主松平不昧に関わり深く、博多にもその足跡が残る千利休の禅の師匠・古溪宗陳(こけいそうちん 1532~1597)です。越前の生まれで、大徳寺102世住持の江隠宗顕(こういんそうけん)、107世の笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)に師事し、42歳で大徳寺117世となります。古溪の大徳寺住持就任時には千宗易(利休)が一族を挙げて出資をし、津田宗及や油屋紹佐など堺の豪商が祝儀を寄せています。住持期間は1年でしたが、退職後も茶人や豪商からの帰依者が多く、織田信長が本能寺で斃れた後、秀吉が信長の菩提寺として創建した大徳寺総見院の開山に就きました。

 天正13年(1585)千宗易は、秀吉が正親町天皇を招いて開く禁裏茶会に参加するため、利休居士の称号を賜ります。いくら名高い茶人であっても町の納屋衆(倉庫業者)が宮中に上がることはできませんが、居士(仏徒)であれば大丈夫だからです。『利休』の名付け親は大林宗套(だいりんそうとう 大徳寺90世・南宗寺開山)と言われていますが禁裏茶会開催の17年前に入寂しており、本当の名付け親は利休の参禅の師であった古溪ではないかという説もあるとか。

 そんなこんなで茶の湯の世界で広く人徳を得ていた古溪が、天正16年(1588)に突然、秀吉から博多への配流を命ぜられます。原因は古溪とソリが合わなかった石田三成の讒言だとか。なんだか政治ドラマみたいで面白いので、以下、花園大学の竹貫元勝教授の著書『古溪宗陳ー千利休参禅の師、その生涯』を参考にまとめてみました。

 

 当時、古溪は秀吉から紫野船岡に天正寺、東山に大仏殿方広寺の造営を任されていたのですが途中で中止となり、紫野には天瑞寺という別の寺がわずか2か月で建てられました。この寺は秀吉が母大政所の病気平癒を祈願して建てたもので、開山は古溪ではなく玉仲宗琇という大徳寺僧。当時の大徳寺には「北派(大仙派)」「南派(龍源派)」「龍泉派」「大模下春作禅興派」という4つの派閥が存在し、各派閥から順番にトップ住持を輩出しており、最大派閥は南派。玉仲は古溪よりも5代前の南派出身住持でした。古溪が属する北派は住持になった者は多くはありませんが、堺の豪商・茶人がバックに付いていて、住持就任に必要な経済的支援も担っていました。これに対し、最大派閥南派は堺以外の地方の戦国大名を外護者につけていて、全国の派閥寺院から弟子を多く集め、勢力を蓄えていました。そこで、茶の湯に傾倒し古溪を偏重していた秀吉に対し、母の大政所が「最大派閥を敵に回さないように」とアドバイスをしたらしいのです。

 古溪は当初指示されていた天正寺造営のため、堺の豪商たちに寄進を求めていたのですが、思うように集まらず、その過程で石田三成とギクシャクし、もたついている間に天瑞寺が創建されてしまい、ライバル南派の玉仲が開山に任命されたことで自分の立場が危うくなったと実感したでしょう。石田三成との間に何があったのか具体的にはわからないようですが、「三成の讒言は秀吉を納得させるだけのものがあったと思われる」と竹貫教授。

 天正16年(1588)、57歳で博多にやってきた古溪は、彼を慕う小早川隆景や博多の豪商らの庇護のもと、茶会や散策をして心穏やかに過ごしたようです。彼は日本に最初に茶を伝えた栄西禅師が開いた日本で最初の禅寺・聖福寺を訪ね、さらに当時大宰府にあった崇福寺にも足を延ばします。前述のとおり駿河栃沢生まれの聖一国師が開創し、駿河井宮生まれの大応国師(南浦紹明)、そして大応国師の弟子で大徳寺を開いた大燈国師(宗峰妙超)が入寺した名刹で、大徳寺住持を経験した古溪にとっては感慨深かっただろうと思います。崇福寺は後に黒田長政によって博多に移されました。

 今回の我々の博多研修では、古溪が滞在した大同庵跡をはじめ、崇福寺、聖福寺にも足を延ばす予定です。

 

 

 博多配流生活は2年。天正18年(1590)に京都へ戻った古溪は、翌天正19年1月に亡くなった秀吉の弟・豊臣秀長の葬儀の導師を秀吉たっての依頼で務めます。そして秀長の菩提寺大光院(奈良)の開山にも就任し、秀吉から金襴の大衣を賜ります。手のひら返しのような厚遇ですが、博多蟄居中も秀吉から厳しく監視されていたわけではなく、竹貫教授は「秀吉には禅的精神文化への高い関心があり、古溪は秀吉の精神的欲求を満たす上で多大の貢献をした一人」「秀吉は形の上では三成の讒言を聞き入れ配流にしたが、もともと博多に関心があり、古溪は秀吉のその意を汲んで活動していたのでは」と読み解きます。

 ところが秀長葬儀直後の2月28日、千利休が秀吉の逆鱗にふれて切腹するという一大事が起こってしまいました。大徳寺の山門「金毛閣」に千利休の木像が安置されたことが直接のきっかけと言われ、秀吉は大徳寺をつぶし、僧を磔にするとまで言い放ったとか。僧の磔は大政所や秀長未亡人がなだめて却下させたものの、大徳寺には徳川家康、前田利家、前田玄以、細川忠興の4人が秀吉の使者となり「破却」を言い渡したところ、これに対峙し「貧道は先ず死有らんのみ」と死ぬ覚悟で抗議したのが古溪でした。4人から報告を受けた秀吉は、大徳寺破却を思い留まります。愛弟子利休を救えなかった古溪としては、それこそ命がけで大徳寺を守ったんですね。

 晩年の古溪は病身をおして千利休の墓がある大徳寺聚光院の住持を務めます。そして慶長2年(1597)66歳で示寂。翌慶長3年に秀吉が亡くなります。古溪が生前残した言葉をまとめた語録『蒲庵稿』は江戸時代に出版され、古渓を敬愛する大名茶人松平不昧が序文を寄せています。

 

 茶道の歴史をかじっていくと、一度は目にする古溪宗陳の名。彼を挟んで秀吉や利休の言動を追ってみると、生々しい人間関係が見え隠れし、また一つ、歴史を学ぶ面白さを実感します。博多研修が終わったら現地レポートしますね!

 

 

 


出雲との茶文化交流と酒造起源探訪(その1)不昧流を満喫

2018-11-06 12:44:49 | 駿河茶禅の会

  駿河茶禅の会で10月12日(金)から14日(日)まで催行した2018年秋の研修旅行『出雲との茶文化交流と酒造起源探訪』について、数回に分けてレポートします。 

 12日は富士山静岡空港16時15分発のFDA185便に17名の参加者で搭乗し、出雲縁結び空港には17時35分着。宿泊先の送迎バスで約30分、玉造温泉松乃湯に18時過ぎに到着し、まずは温泉に浸かって懇親会。前日が誕生日だった私に、参加者の皆さんが勾玉のアクセサリーをプレゼントしてくれました。

 

 改めてご紹介すると、駿河茶禅の会は一般社団法人静岡県ニュービジネス協議会の専門研究部会『茶道に学ぶ経営哲学研究会』の活動(20119月~20153月)を引き継ぎ、20154月設立。望月静雄氏(茶道家・裏千家インターナショナルアソシエーション准教授(元運営理事)・日本秘書協会元理事)を座長に、茶道の奥義や禅の教えについてさらに研賛を積んでいます。会員は茶道経験の有無にかかわらず茶禅文化に関心を持つ社会人(企業経営者、会社員、自営業者等)。毎月1回、駿府城公園紅葉山庭園茶室と会員企業のオフィスを借りて、座学と実技を交互に開催中。登録会員25名。毎回15名前後参加しています。

・・・と書くと、なんだかクソ真面目で堅苦しい会のように思えますが、静岡でこれほど茶禅に造詣の深い茶道家はいないと断言できる望月先生のもと、今更聞けない和の伝統やマナーを復習できるし、会員にはしずおか地酒研究会からも(蔵元を含め)何人か流れてきているので、酒の話もばっちり。一級建築士や作庭家や環境専門家の会員さんは、茶室や寺社巡りをするとき専門家解説をしてくれるし、ふだん異分野との接点が多い編集者や地域交流事業の担い手は、時代や場所の異なる文化への関心や理解がとても深い。歴史好きで酒好きの大人が知的好奇心を刺激し合える楽しい会です。興味のある方はぜひご連絡ください。

 

 翌10月13日(土)は小型バスを借り、終日、研修プログラムをこなしました。

 まずは、望月先生の訪問希望先だった松平不昧御用窯の一つ・出雲焼「樂山窯」の12代長岡空郷氏を表敬訪問。

 出雲焼は萩・京都・備前のほぼ等距離にあり、3つの特色が混在して独自の発展をなした稀な歴史を持ち、一時衰退したものの、不昧の支援で復興し、多種多様な技法を探求した焼物です。不昧の時代に御用窯だった窯元で、現在残っているのは、ここ長岡さんの樂山窯と、布志名焼雲善窯の2つ。明治維新で松江藩が消滅した後、苦難の時代を迎えましたが、もともと量産タイプの窯元だった雲善窯はバーナード・リーチや柳宗悦の民藝運動に結びついて日用陶器として復活。一方、不昧個人の御用達窯だった樂山窯はひたすら陶工の技量を追求し続け、江戸時代に築かれた登り窯を今も稼働させながら、13代へと継承しています。

 

 今年刊行された『今に生きる不昧―没後200年記念』(山陰中央新報社刊)によると、「不昧は雲善窯には大きさ・形・色を細かく指定し、樂山窯には自身の和歌を引き合いに「花入れを作れ」など大ざっぱだった」そう。不昧公は2つの窯元を「普及系」「革新系」に使い分けていたんですね。

 当日は樂山窯の長岡家の客間で歴代窯元の名品をじっくり鑑賞しながら、12代・13代の作品で抹茶をいただきました。茶道初心者の私には茶器の良し悪しはトンと解りませんが、不昧公にお題だけ示され、さあ作ってみろ、とプレッシャーを受け、応えてきた5代長岡住右衛門の陶工としての矜持を継いだ器であるならば、器を通して不昧公と対話ができるんじゃないか、なんて妄想を巡らせました。

 茶器はさすがに素人には触手しづらい高価格でしたが、せっかくなので、お小遣いで買えそうな三島柄のぐい吞みを一つ購入しました。これで出雲の地酒をじっくり味わいながら、私なりに不昧公との語らいを楽しんでみたいと思います。

 

 

 次いで、松江城下の茶室『明々庵』敷地内の百草亭に於いて、松江市内に拠点を置く「不昧流大円会」の山﨑清幹事長と会員3名、明々庵支配人で島根県茶道連盟の森山俊男事務局長との交流茶会に臨みました。山崎氏より不昧流の作法の解説と呈茶、松平不昧の茶道との関わりについて、森山氏より明々庵の構造並びに意匠についての解説をいただきました。以下は富士山静岡空港利用促進協議会へ提出した事業報告書に若干加筆したものです。

 

不昧流大円会(ふまいりゅうだいえんかい)について

 同会は松平不昧公の茶道精神に則り、茶の湯の本旨を体得すると共に、不昧流の作法の修練によって人格の形成を図り、併せて茶道文化の普及に寄与することを目的に昭和8年(1933)に設立。会員324名。島根県を代表する茶道流派です。毎年開催される松江城大茶会をはじめ、各季節の茶会や各種イベントボランティア等を通じ、不昧流茶道の普及に努めています。

 不昧流とは松江藩松平第7代藩主松平治郷(不昧)によって確立された武家茶道の一派。地元松江では「お流儀」「お国流」と呼ばれ、家老の有澤能登、茶頭の藤井長古に伝えられ、地元での流儀は初代~2代の藤井長古によって広く武士町人に伝えられました。藤井長古の流れをベースに、昭和8年、5名の先達によって不昧流大円会(当初の名称は「雲州大円会」、昭和63年に現在名に変更)として統一されたということです。

 ちなみに今回の交流茶会に参加された大円会会員に、奇遇にも松江出身の漆畑多恵子さんの高校の同窓生‶じゅんこちゃん″がいて、数十年ぶりの再会に感激の環が広がりました。

 

松平治郷(不昧)の茶道

 山崎幹事長により、不昧の茶道について懇切丁寧な解説をいただきました。

 松平治郷は明和4年(1767)、先代の急死を受け、17歳で松江藩7代藩主となりました。少年時代は豪放磊落な性格だったそうですが、18歳頃から本格的に茶道に取り組みます。徳川将軍家の茶道だった石州流をベースに、利休伝来の「侘び・寂び」、優雅さを伝える遠州流等を独自に取り入れるほか、19歳のとき、江戸天真寺の大巓和尚に禅学を学び、21歳で「不昧」の号を授かりました。

 不昧自身の茶道観は「江戸後期の遊芸化した茶道に対し利休の茶に還ることを唱え、茶禅一味(禅の教えと一体となった茶の境地)を究めようとしたもの」とのこと。駿河茶禅の会では昨年、利休の故郷・大阪堺に研修旅行へ出かけたので、利休が禅の修行をした堺の南宗寺の風情が甦って来ました。

 

 不昧流の所作で最も印象的だったのが、お辞儀でした。両手を広げず、握りこぶしでお辞儀をするのです。手のひらを畳に付けるのは不浄であり、親指を保護するため握りこぶしで隠すというのが不昧流。袱紗さばきに始まる一連の所作も、簡素で合理的な動きです。一般にイメージするお茶会の雅やかな雰囲気とは、あきらかに一線を画すものでした。明治以降、お茶は婦女子の習いごとの代名詞みたいになっていますが、そもそもは武家の社交あるいは精神修養の目的だということを想起させてくれました。

 

「会の習いは、客の心に叶うように叶いたるは悪し、夏はすずしく、冬は暖かに、炭は湯の沸くように、花はその花のようにと利休伝来にて候」

「茶の湯は雨にしおれたる竹の如く、雪をかかげたる松の如し」

「稲葉に置ける朝露のごとく、枯野に咲けるなでしこのやうにありたく候」

というのが不昧の教え。侘び寂びを恣意的につくろうのではなく、亭主の心の働きを第一に、自然に客の心に叶うのを良しということだろうと思います。これは広義のホスピタリティをとらえる上で学ぶべき視座ではないかと実感しました。

 

 

茶室明々庵の意匠

 明々庵支配人の森山俊男氏より明々庵について詳細にご案内いただきました。安永8年(1779)に松江市殿町の家老有澤家本邸に建てられた茅葺入母屋造りの茶室。松江市殿町から赤山下、東京の原宿、四谷と移築が繰り返され、昭和3年に松江に里帰り。戦時中に荒廃したものの、戦後、不昧流茶道振興に尽力した人々の手によって昭和41年(1966)の不昧公没後150年記念事業として現在地に移築されたということです。昭和44年(1969)には島根県指定有形文化財に指定されました。

 まず目を引いたのは待合に敷設された砂雪隠(トイレ)。飾雪隠ともいわれ、実際には使用しないようですが、客が最初に足を踏み入れる待合に雪隠を置くことで、東司(トイレ)の清浄を重んじる禅の修行を想起させます。まさに茶禅一味の世界に迎えられた、と感じます。

 茶室内は中柱のない二畳台目で点前畳に炉を切る「向切」、床の間は五枚半の杉柾の小幅板を削ぎ合わせた浅床にするなど、常識にとらわれない不昧スタイルが表現されています。『明々庵』の額は不昧の直筆によるものです。

 

 

利休直伝、白隠禅師ゆかりの三斎流

 森山支配人のお勧めにより、明々庵に隣接する赤山茶道会館で開催中の不昧公200年祭記念の三斎流九曜会茶会に、当会を代表し、座長の望月静雄先生と幹事の漆畑多恵子さんが参加しました。

 三斎流とは肥後熊本の藩主であった細川忠興(三斎)を祖とする流派です。三斎は"千利休七哲"と称される利休直弟子の一人で、ご存知明智光秀の娘(洗礼名ガラシャ)を妻とした戦国武将。三斎は利休の教えに一切手を加えず、現在の点前にもその原点が残るといわれます。江戸中期、三斎流を継承した江戸の茶人荒井一掌に松江藩士(侍医)林久嘉が茶を学び、不昧は林を通じて荒井一掌に心酔し、三斎流を重用したということです。紆余曲折の後、一掌以来の三斎流は出雲の地に根を下ろすことになりました。

 

 茶会の後、望月先生と漆畑さんが感動を抑えきれない、といった表情で、ことこまかに説明してくれました。

 まず三斎流の茶席では、喜寿近くかと思しき品のあるご婦人が席主として出座されたとのこと。ご挨拶の言葉の端々に、今日では耳にすることの少ない美しい日本語の響きがあって、床に掛けた一行書『独坐大雄峰』について、多弁を費やさず「今、ここにお座りのお客様方こそが大雄峰」と説かれました。

 用意された道具類にも「名品のお道具は博物館でご覧頂くこととして」とご謙遜。ちなみに主茶碗は十字の文様が施された古八代焼で、茶道とキリスト教との接点を暗示するもの。"利休七哲"(利休の7人の高弟)には三斎をはじめ、蒲生氏郷、古田織部、高山右近等キリシタン大名が名を連ねることから、歴史を知っている者にとっては「なるほど」「さすが」と手応えのあるご用意だったそうです。茶席で濃茶を一つの椀で回し飲むのは、キリスト教のワインの回し飲みに由来しているのでは、とも言われているんですね。

 

 望月先生が絶賛された品格ある席主とは、ほかならぬ、三斎流前家元の森山宗育宗匠でした。正客との絶妙のやりとりの後、「小規模の流派ではあるが、伝統を守り続けてゆきたい。皆様お流儀は様々なれど〝独坐大雄峰″で」と淡淡と語られ、二服目を供されたその佇まいには、茶道歴50年超の望月先生をして「これぞ茶道の神髄」と目頭を熱くさせたそうです。

 お話を聞いて、とかく道具自慢や華美なしつらえに偏りがちな昨今の茶道とは一線を画すこのような流派が、京都でも熊本でもなくこの地で「家元」を置いて細々と継承されているのは、出雲に茶禅一味の精神が浸透した証なんだな、と感じました。

 

茶禅がつむぐ地域間交流

 不昧流大円会ならびに三斎流九曜会との交流を通して実感したのは、茶禅の道には道を伝え継承した人々の歴史があり、人の歴史には、その人が生きた地域の歴史があるということ。地域の歴史を知ることは、他の地域とのつながりを発掘することになります。

 もともと松江藩は初代堀尾吉晴が家康の命で遠江国浜松からこの地に入国し、後に家康の孫松平直政が藩主を継ぐ等、静岡とは浅からぬ縁があります。東海道島田宿の名物清水屋の小饅頭は、参勤交代のときに島田宿に立ち寄った不昧公が「一口サイズにするといいよ」と進言されたものです。このことを、今回の研修を企画するまで知らず、山陰中央新報社文化事業局の方から教えてもらい、ビックリでした。清水屋の小饅頭は賞味期限は製造日当日限定なので手土産には黒奴にし、小饅頭は別途冷凍パックをクール便でお送りしました。

 

 さらに嬉しい驚きは、三斎流を出雲に根付かせた功労者である荒井一掌は、白隠禅師に禅の教えを受けており、「一掌」という名も白隠さんから賜ったとのこと。出雲の茶禅文化に白隠禅が投影されていたのです。

 三斎流九曜会HPによると、三斎流は細川忠興(三斎) ─ 一尾一庵 ─ 稲葉正喬 ─ 中井祐甫 ─ 志村三休 ─ 荒井一掌と継承され、宝歴年間に松江藩士林久嘉(医師)・高井長太夫・矢島半兵衛の3人が荒井一掌に師事し、 出雲地方に伝来。荒井一掌はもともと江戸で味噌屋を営む商人で、麹町に閑市庵を営み、古帆宗音と号した当時の超一級茶人。武士の血筋を持ち、武道修行後、 原の白隠禅師のもとで禅を9年間にわたって修養し、「一掌」の号を授かったそうです。

 一掌に師事した3人の松江藩士のうち、林久嘉は宝歴13年(1764)、13歳の不昧公の侍医となります。不昧公は藩主になった翌年、18歳で石州流に入門して茶道を始めた、と言われていますが、それ以前から林久嘉を通じて三斎流に親しんでいたようです。久嘉から紹介された荒井一掌のことを不昧公は大先生と尊敬したと、公の書簡等によって確認できるようです。

 

 出雲地方の寺院には白隠さんの書画がかなり残っていて、以前、花園大学国際禅学研究所でも出雲で白隠フォーラムを開催したことは知っていましたが、茶道とこのような関わりがあったことは、今回、三斎流のことを調べて初めて知りました。明治時代、白隠禅師の書画を発掘・収集した細川護立が三斎の末裔であることを顧みると、駿河と出雲と肥後(熊本)の不思議なつながりも見えてきます。まずは、白隠さんの下で修行していた荒井一掌のことをきちんと調べなきゃ、と思いました。

 

 

出雲松江の人々を静岡へ招聘するとしたら

 茶道文化が発達した出雲松江では、お茶をどれくらい消費しているのか、平成27~29年の総務省家計調査を調べてみたら、県庁所在地および政令都市における一世帯あたりの緑茶購入額は松江市が年間3,820円で全国33位。静岡市は9,491円で堂々第1位。全国平均は4,118円でした。松江出身の漆畑さんによると「松江の人にとって、茶葉をたっぷり使う煎茶は小さな茶器で丁寧に淹れて飲むぜいたくな味わい方。静岡へ嫁いできて急須でガブガブ淹れて飲むのにビックリした」そうです。これも静岡が家康公以来の御用茶産地だっだという利点でしょうか。

 松江藩では茶の生産について政策として他藩からの移入を厳しく制限し、藩内での生産を奨励していたようですが、他藩へ輸出し外貨を稼ぐほどの量は取れなかったよう。その代わり、不昧によって茶道文化が浸透し、生活の中で抹茶を気軽に点てたり客人に振る舞う喫茶習慣が今も残っているそうです。とくに農村部では今でも農作業の合間に縁側でお抹茶を点てて味わっているそうですが、こういう習慣って若い世代に継がれているのかなあ・・・。出雲松江の人々を静岡へ招くとしたら、まずは生産地静岡ならではの茶畑風景を堪能していただき、縁側カフェで急須の煎茶を味わっていただいて、地域の宝である喫茶習慣をどうやって次世代につなげるか、語り合いたいなと思いました。(つづく)

 


 


千利休の故郷とゆかりの国宝探訪(その2)堺の歴史ウォーキング

2017-07-09 19:01:55 | 駿河茶禅の会

 前回の続きです。2日目(6月11日)は千利休の生まれ故郷堺市の史跡巡りを楽しみました。歴代大河ドラマで一番好きな『黄金の日々』の舞台にもなったまち。日本中世史上、重要な交易都市として、長年脳内トリップし続けてきましたが、実際に訪ねるのは今回初めてです。

 

 歴史教科書では、まずは仁徳天皇陵古墳のある町として登場し、遣明船が出港した1469年から、大坂夏の陣で焼失する1615年までの約150年の間、町人による自治都市、国際貿易都市として栄えた堺。1550年にはフランシスコ・ザビエル、1564年にはルイス・フロイス、1577年には織田信長がやってきて栄華を極め、堺の納屋衆(倉庫業者)出身の利休によって、“究極のおもてなし”である茶道が大成しました。

 利休が秀吉によって切腹させられ、さらに秀吉も亡くなると町衆の権力は失速し、大坂夏の陣で壊滅的な被害をこうむり、徳川幕府により商人の位置づけが「士農工商」と社会秩序の中で最低の格付けに据え置かれた・・・ということで、江戸時代は商人の町から職人の町へと変貌し、今の堺に残る史跡といえば鉄砲、包丁、織物等の職人屋敷が中心です。
 

 我々は、観光案内に載っていた約10㎞の散策モデルコースを参考に、9時に南海本線七道駅を出発。駅からすぐの清学院(江戸時代の寺子屋/国登録有形文化財)を訪ねたら10時開館で中に入れず。外観写真だけ撮っていたら清学院の観光ボランティアガイドさんがやってきて、建物の解説や周辺の見どころを即興案内してくれました。さすが究極のおもてなしを生んだ町のガイドさん!と一同感激でした。

 

 ガイドさんのレコメンドに従って、地図を片手に鉄砲鍛冶屋敷→江戸前期の町家・山口家住宅を外から眺め、寺院が軒を連ねる紀州街道界隈を30分ほど進むと、日蓮宗の名刹・妙國寺に到着。境内の大ソテツ(国天然記念物)で知られる名刹です。このソテツ、なんでも信長が気に入って安土城に移植したものの、ソテツが夜な夜な「堺へ帰りたい」と泣いたので激怒した信長が「切り倒してしまえ」と命じたところ、切り口から鮮血を流し、大蛇のごとく悶絶し、恐れをなした信長は、妙国寺に返したそうな。

 この寺には本能寺の変のときに徳川家康が滞在し、僧の機転で家康は難を逃れ、筒井一族の手引きで伊賀越えをして三河に戻りました。その後、家康に仕えていた小堀遠州が見事なソテツに心惹かれ、茶の師匠古田織部と妙國寺貫首の許しを得て枯山水の庭を創り上げました。石組みの中央に富士山、右側に富士川、左側に大井川が流れて遠州灘に注いでいる景観を取り入れて、ソテツの庭で駿府の国を再現し、大坂冬の陣でこの寺に滞在することになった家康を癒し、悦ばせたそうです。

 この寺はまた、幕末には堺を警護していた土佐藩士とフランス軍艦兵が衝突し、国際問題に。土佐藩はフランスに賠償金を払い、藩士20名に切腹が命じられました。切腹の光景があまりにも壮絶だったためフランス側が12人目で止めさせ、残り9名は流罪となったという『堺事件』の舞台にもなりました。

 そんなこんなで静岡人がビックリ感激するようなトリビアをご住職が丁寧に説明してくださって、土佐十一烈士の遺品、呂宋助左衛門がルソンから持ち帰って信長に献上した壺、本阿弥光悦が奉納した法華経等々のお宝が展示された宝物資料館もしっかり見せていただきました(寺院内部や庭は撮影不可)。


 堺の名産品がそろった堺伝統産業会館、望月先生ご所望の御干菓子『利休古印』を製造販売する丸市菓子舗で土産物をひとそろえした後、ランチで訪ねたのは創業元禄8年というトンデモ老舗の蕎麦店『ちく満』。メニューはせいろそば一斤、一斤半(1.5人前)のみ。生卵と熱い蕎麦つゆが添えられ、すき焼きのように生卵をつゆと混ぜ合わせます。せいろそばは、本当にセイロで蒸した、コシがまったくないうどんに近い柔らか~い蕎麦。コシのある麺をスルッとすすってのど越しを楽しむいつもの蕎麦とはあきらかに別モノですが、せいろそばって言うぐらいだから、もともとは茹でるんじゃなくて、蒸してこんなふうにモチモチしていたんだろうなあと想像します。

 望月先生が「やっぱりこしのある蕎麦で口直ししたい」と、帰りの新大阪駅構内でうどんすきの名店「美々卯」のそばを食べて帰るとおっしゃるのでおつきあいしました。うどん屋さんの蕎麦だけど、静岡人が食べ慣れたコシのある蕎麦でホッとしました(笑)。

 

 午後はちく満からほど近い場所に、2015年3月にオープンした文化ミュージアム『さかい利晶の杜を訪ねました。利晶というのは千利休と与謝野晶子の頭文字。与謝野晶子も堺生まれなんですね。ここで立礼呈茶をいただき、茶の湯の歴史展示資料を拝見。待庵を模した『さかい待庵』もしっかり復元されていました。ミュージアムが建てられた場所は、もともと千利休の屋敷があった場所。利休が使っていたと伝わる井戸が残っています。


 さらに15分ほど歩いて、本日のクライマックス・南宗寺に到着。武野紹鴎、千利休が禅を学んだ臨済宗大徳寺派の名刹です。

 こちらも内部は写真撮影不可につき、文字説明だけで恐縮ですが、境内には利休一門の墓があり、古田織部が作ったと伝わる枯山水庭園(国名勝)も。とくにコアな歴史ファンの間では、境内に徳川家康の墓があることでも有名です。

 静岡人にしてみればエッ⁉と思いますが、寺史には「大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れた徳川家康は、駕籠で逃げる途中で後藤又兵衛の槍に突かれ、辛くも堺まで落ち延びるも、駕籠を開けると既に事切れていた。ひとまず遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した」とあり、2代将軍秀忠、3代家光がそろって参詣した事実も。墓標近くには山岡鉄舟筆「この無名塔を家康の墓と認める」の碑文もあります。延宝7年(1679)には山内に東照宮が建てられ、水戸徳川家家老裔の三木啓次郎によって昭和42年に東照宮跡碑が建立されました。碑石の銘は「東照宮 徳川家康墓」と記され、賛同者名の中には、松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助の名前もありました。

 家康の墓の謎には興味が尽きませんが、わが駿河茶禅の会としては、やはりこの寺が「茶禅一味」の精神を育んだ場所であることに思いが深まります。寺はもともと大徳寺90世の大林宗套(1480~1568)が開き、当時堺を治めていた三好長慶や堺の町衆に禅を教化。利休は南宗寺開山大林宗套と2世笑嶺宗訢に参禅し、極限まで無駄を省くわび茶を大成させたのでした。境内には利休の師武野紹鴎ゆかりの六地蔵石灯籠、利休が使ったといわれる袈裟型手水鉢、利休好みの茶室・実相庵等が残っています。

 山内の塔頭天慶院(非公開)の門前には、山上宗二(1544-1590)の供養塔が建っていました。

 現在、駿河茶禅の会では「茶禅一味」という概念を初めて記した山上宗二記を勉強しています。山上宗二も堺の町衆出身の茶人で、権力者にも物怖じしない性格で、秀吉の逆鱗に触れ、利休より1年早く処刑された人物。師である利休の“茶の湯革命”について、刑死直前に必死に書き留めたのが山上宗二記でした。わび茶の始祖といわれる村田珠光の一紙目録(秘伝書)を武野紹鴎が書き写し、そこに「紹鷗末期の言」として出てくるのが〈料知茶味同禅味 汲尽松風意未塵〉という言葉。大林宗套が紹鷗の肖像画の賛として送った言葉で、さらにこれを山上宗二が書き伝えました。

 「一味」はもともと仏教語で、仏の教えは説き方がさまざまあっても、その本旨はただひとつという意味。茶の道は禅の修行と本質が同じということです。その本質が何たるかを究めるのに50の手習いでは遅すぎる気もしますが、こうして心を同じくする仲間と紹鴎や利休が参禅したという寺を訪ね、山上宗二の供養塔に手を合わせる機会を得たことは大きな前進でした。

 


 旅の最後にお詣りしたのは、南海本線の途中駅にある住吉大社。大阪を代表する初詣スポットとして名前は知っていましたが、お詣りするのは初めてです。第一本宮から第三本宮までが直列、第四本宮と第三本宮は並列に配置されるという全国的にも珍しい本殿の配置で、20年に一度の式年遷宮が平成20~21年に行なわれ、平成23年には鎮座1800年祭が執り行われました。本殿(国宝)は住吉造りといわれる特殊なスタイルで、①柱・垂木・破風板は丹塗り、 羽目板壁は白胡粉塗り、②屋根は桧皮葺で切妻の力強い直線、③出入り口が直線型妻入式という特徴があるそうです。どうりで、荘厳で美しいけど、どこか見慣れぬ不思議な佇まいを感じました。

 

 住吉大社のご祭神は水都のお社らしく海の神様。お祓い・航海安全・和歌の道・産業育成の神として信仰されています。堺の町が最も輝いたのは戦国~安土桃山時代の150年間でしたが、その前もその後も、20年を節目に伝統を継承しながらこの地の歩みを見守り続けてこられたんですね。本質を変えないために更新するという二面的な強靭さ・・・禅の精神が憑依したわび茶にもそれを感じます。これぞ日本文化の特異性だなと改めて思い知ることのできた旅でした。