まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

『おもひでぽろぽろ』 の自然観

2013-04-28 19:04:00 | 人間文化論


『おもひでぽろぽろ』 の気に入ったところについても書いておく必要があるでしょう。
主人公のタエ子は東京生まれの東京育ちで、田舎というものがありません。
なので子どもの頃から田舎への憧れがありました。
たまたま姉の嫁ぎ先の実家が山形県山形市高瀬地区だったため、
休みを取ってはそこを訪れ、紅花の収穫やら有機農業を手伝わせてもらっています。
ある日、義兄の又従兄弟のトシオに蔵王までドライブに連れて行ってもらいますが、
蔵王は開発され尽くしていてタエ子の思う田舎とは異なり、
高瀬地区に戻ってきて2人はこんな会話を交わします。

タエ子 「あああー、やっぱりこれが田舎なのね。本物の田舎。蔵王はちがう。」
トシオ 「うーん、田舎かぁ。」
タエ子 「あ、ごめんなさい、田舎、田舎って。」
トシオ 「いや、それって大事なことなんですよ。」
タエ子 「え?」
トシオ 「うん、都会の人は森や林や水の流れなんか見て、すぐ自然だ自然だってありがたがるでしょ。でも、ま山奥はともかく、田舎の景色ってやつはみんな人間が作ったものなんですよ。」
タエ子 「人間が?」
トシオ 「そう、百姓が。」
タエ子 「あの森も?」
トシオ 「そう。」
タエ子 「あの林も?」
トシオ 「そう。」
タエ子 「この小川も?」
トシオ 「そう。田んぼや畑だけじゃないんです。みんなちゃーんと歴史があってね。どこそこの曾祖父さんが植えたとか開いたとか、大昔から薪や落ち葉や茸を採っていたとか。」
タエ子 「はあ、そうっかあ。」
トシオ 「うん。人間が自然と闘ったり、自然からいろんなものをもらったりして暮らしているうちにうまいこと出来上がってきた景色なんですよ、これは。」
タエ子 「じゃ、人間がいなかったらこんな景色にならなかった。」
トシオ 「うん。百姓は絶えず自然からもらい続けなきゃ生きていかれないでしょ。だから、自然にもねずーっと生きててもらえるように、百姓のほうもいろいろやってきたんです。ま、自然と人間の共同作業っていうかな。そんなのがたぶん田舎なんですよ。」
タエ子 「そっかあ。それで懐かしいんだあ。生まれて育ったわけでもないのに、どうしてここがふるさとって気がするのか、ずーっと考えてたの。はぁ、そうだったんだ。」

このシーンが私のお気に入りです。
私の 「人間文化論」 とも合致しています。
私たちのまわりには本物の自然というものはもはやほとんど存在しない。
田舎の自然というものも実は人間たちが長い時間をかけて手を入れて作り上げてきた、
「文化」 にほかならない。
誰も足を踏み入れない山奥とかジャングルの奥地でもないかぎり、
私たちが 「自然」 と思って見ているものはすべて人間が生み出した 「文化」 なのです。

タエ子はこのあと、いろいろな農業体験をさせてもらい、
すっかり田舎を知ったつもりになって得意になっていますが、
東京へ帰る直前になって自分の甘さを思い知らされることになります。
そして、小学校時代のあべくんのことを思い出しています。
あべくんは田舎から転校してきた子で、すべてが田舎くさく汚らしいので、
みんなから嫌われています。
隣に座ることになったタエ子は、そんな同級生たちを軽蔑していますが、
心の底ではタエ子自身もあべくんのことを嫌悪していて、
あべくんにもそのことを見透かされていました。
都会の人が懐く田舎や自然への憧れというものの実体を、
ひじょうに客観的に捉えたエピソードだと思いました。
完全に自然ギライの方向に突き進んだ私と、
田舎への憧れを懐き続けたタエ子とは最終的に別々の道を歩むことになりましたが、
田舎や自然への憧れというものの両義性を描き出したところが、
この作品の大きなポイントだったと言えるのではないでしょうか。

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4 コメント

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世代なのかな (仙人)
2013-04-29 05:20:09
僕もそこのところが気に入っていて、しばしば、生徒の、あるいは自分の安易な二元論的思考に揺さぶりをかけています。さらに言えば、人間もまた自然の一部ですよね。
僕は田舎に生まれ田舎で勉強し田舎で働いて木曽の田舎者の妻と結婚しましたが、それでも遊びに行きたいのは田舎です。憧れ、ではない。憧れ、古語あくがる、に起源があり、心が身体を離れ遠くに出て行くこと、ですからね。
あの山形駅から山寺までの風景は、かつて僕があそこで暮らした頃、まだJRが国鉄だったころの山形駅からして懐かしい風景でした。
あの映画は友人と見たのですが、彼女は全く評価してませんでした。タエ子のような主人公を造型する自意識過剰男がキライとか言って。
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人間 VS 自然 (まさおさま)
2013-04-30 17:37:40
仙人さん、コメントありがとうございました。
ぼくの場合は逆かな。
「人間もまた自然の一部」 というのは確かにそういう捉え方もあるとは思いますが、
私の立論はあくまでも自然と人間、あるいは自然と文化を二元対立させておいて、
私たちが身近で触れていると思っている自然は、実はナマの自然ではなく、
人間が作り出した文化にすぎないんだよと主張しています。
つまり、「自然と思っているものも人間が作りだした文化の一部」 という主張なわけで、
仙人さんとはベクトルの向きが逆ですよね。
それにしても仙人さんの友人さんは痛快な方のようですね。
私とも気が合うかもしれません。
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Unknown (Unknown)
2013-11-30 23:19:14
あべ君は田舎の子だから汚かったんではないです。父子家庭で、しかも親父さんが粗暴な人だから子どもの衛生や躾にまで気が回らない、そういう家庭に育ったからです。あべ君はそういう自分が周囲から浮いていることを知っていて恥じる面があると同時に、やっぱり親父さんが好きで、周囲の目に対しては親父さんと同じ様な仕草で対抗しようとします。あれは都会と田舎という対比の問題ではありません。

また「人間もまた自然の一部」ではなく、それは当然その通りなんですが、この箇所が言いたいのは逆に「自然もまた人間の一部」だということです。
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父子家庭問題? (まさおさま)
2013-12-30 11:16:47
Unknownさん、コメントありがとうございました。
コメントバックするのが遅くなってしまい申しわけありません。
「家庭教育」 のほうの記事にレスするのが精一杯だったもので…。

> あべ君は田舎の子だから汚かったんではないんです。父子家庭で、しかも親父さんが粗暴な人だから子どもの衛生や躾にまで気が回らない、そういう家庭に育ったからです。

とのご指摘ですが、これってフツーに映画を見ていて誰でも読み取れることでしょうか、
それとも、原作があるらしいので、原作を読んでいる人にはわかることなのでしょうか?
私は映画しか見ていないので (しかも1回きり)、そこまでは理解できませんでした。
父子家庭っぽい感じだけは別れのシーンから感じられましたが…。
ただ、このエピソードが物語のエンディングに近いところに入れられていて、
タエ子が田舎暮らしを選ぶかどうかという葛藤とともに思い出されていたことを考えると、
あべ君の話が都会と田舎の対比という問題と無関係であるとすると、
何のためにこのエピソードが出てきたのか私にはまったく理解できなくなってしまいます。
というわけで最初のご指摘の点は、映画を見ただけの私にはよくわかりませんでした。

「自然もまた人間の一部」(=自然も人間が生み出した文化) は完全に同意です。
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