まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.自殺をどう思いますか?

2010-04-19 20:30:46 | 哲学・倫理学ファック
A.もったいないと思います。

「どう思いますか」 第2弾です。
答えも簡潔にまとめてみました。
まず最初にお断りしておかなければならないのは、
私は自殺したいと思ったことがありません。
したがって、この質問にお答えする資格があるかどうかもよくわかりません。
自殺してしまう人は、本当に追いつめられて、
自殺するしかないという状況に陥って自殺してしまうのだろうと思います。
私はそういう状況に陥ったことがないので、
自殺してしまう人や自殺しようかどうか悩んでいる人に、
本当の意味で共感したり、理解してあげたりすることはできていないのではないかと思います。
ですので、以下は一度も自殺しようと思ったことがない人間の言い分にすぎないということを、
ご理解の上お読みください。

そういう私から見ると、自殺はもったいないとしか言いようがありません。
人間はいずれ死ぬことができます。
どんなに生きるのが楽しくて、ずっと生き続けていたいと願ったとしても、
必ず死ななければならないのです。
逆に生きるのが辛くてしようがなくて、苦しみ続けている人にも死は必ず訪れます。
どうせ死ぬことができるのに、なぜわざわざ自ら死期を早めなければならないのか、
と私は考えてしまうのです。
逆の見方も可能なことは知っています。
どうせ死んじゃうのに、なんで私たちは生まれてきて、生きているのでしょうか。
特に生きているのが辛かったり苦しかったりした場合、
なぜわざわざ生きていなければならないのでしょうか。
しかし、私の場合は、どうもそういうふうには考えられなくって、
どうせいずれ死ねるんだから、それまでは生きることを十分堪能してやろう、
と考えてしまうのです。

今回、次のような質問も頂戴しました。
「先生は生きるということをどう思いますか?」
「どう思いますか」 第3弾ですが、これも答えにくい質問ですね。
以前に、「人間として一番大切なことは何ですか?」 という質問にお答えしたことがあるので、
そこに書いてあることもぜひ読んでみてください。
私は、生きているということは、人間のさまざまな可能性の源泉だと思っています。
いろいろなことを感じたり経験したりすることができるのは生きているからだと思います。
楽しいこともあるでしょうし、辛いこともあるかもしれませんが、
それらを経験できるのは生きている限りのことです。
そういう可能性の源泉を放棄してしまうのはもったいないことだなあと思うのです。

こんなふうに考えられるのは、本当の苦しみを知らないからかもしれません。
日々の暮らしの毎分毎秒が、生きていることそのものが、
ただひたすら苦しみだけでしかないような状況に置かれたことがないので、
そう考えるのかもしれません。
たしかにそういう状況に置かれたことはないのですが、
もしもそうなってしまったら私だったらどうするでしょうか。
これも仮定の話なので、今の段階でただ想像しているだけなんですが、
私だったら、すべてを捨て去って、どこかに逃げ出して、
ゼロからやり直すだろうなあと思います。
アメリカの映画でよく 「証人保護プログラム」 を扱う映画がありますね。
マフィアなどから身を守るため、全然知らない土地に行き、名前も仕事も全部変えて、
まったく別人として生きていくというやつです。
あれはあれでたいへんだろうなあと思いますが、
でも何となく一度はやってみたいなあとも思うのです。
たまたま今はこの人生のレールに乗ってしまっていますが、
別の人生を送る可能性もありえたわけで、
万が一こちらのルートが行きづまってしまった場合には、
別のルートに乗り換えられるもんなら乗り換えてみたいなあと思うのです。
ひょっとすると新しい人生でなにか楽しい目に会えるかもしれないではないですか。

生きてさえいれば、そういう可能性がゼロではないのです。
生きているというのは、そういう可能性の源泉です。
ですから、自殺してそういう可能性をすべて捨て去ってしまうというのは、
とてももったいないことであるように私には思えるのです。
それと、前回の授業のときに私たちの周りにあるものはほとんどすべて 「文化」 だと話しました。
筆記用具もイスも机も建物も洋服もすべては人間が作り出したもの (=文化) ですが、
学校や家族や友情や恋愛や生きがいなどもすべて文化にすぎません。
文化は人間が生きていくために人間が作り出したものですが、
しかし、時として文化が一人歩きしてしまい、
文化のために人間が苦しめられてしまうということが起こります。
それってバカバカしいことだなあと思うのです。
文化が、人間が快適に生きていくのを妨げるようになってしまったら、
そんな文化はとっとと放り出して、
もっと居心地のいい文化を創り出したほうがいいじゃないかと思ってしまうのです。
ふだんからそんなふうに考えているので、
文化に苦しめられるよりは、文化を取り替えてしまおう、という発想になるのかもしれません。
とにかく、自殺するというのは究極の選択だと思いますが、
そんな究極の選択をしてしまう前に、
人間にはもっともっといろいろな選択肢が残されているように思うのです。
ですから、そういう選択の可能性をすべて捨て去って自殺してしまうというのは、
とてももったいないことであると思うのでした。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
幸せ (わたし)
2010-04-20 03:03:38
人間にとって一番大事なのは愛することと愛されていると感じることだと思います。

わたしは『生きていることそのものがただひたすら苦しみだけでしかない状況』になったことがあり、さらにその時は『どこかに逃げ出してゼロからやり直す』という力も湧かなかったので悲惨でした。
こういう時に普通は自殺するんだろうって思いました。
だけど死にたくなかったので、たくさんもがきました。
そうすると人は、意外にあっけなく思いもよらないところから寄せられた愛情に助けられたりできます。
自殺は確かにもったいないことです。
もったいないって思えることが愛されている証拠です。

生きることに対する執着や情熱も『知への愛』の一部だと思います。
答えが出ないものを考え続けてしまうことが哲学なら
それを放棄したら自殺になると思います。

悩みの深さは人それぞれで100%の理解はできないけれど
死ぬことをもったいないって思えることは恵まれているって感じてほしいです。

幸せの定義ってあると思いますか?
返信する
愛されている証拠 (まさおさま)
2010-04-20 12:12:31
コメントありがとうございました。
「もったいないって思えることが愛されている証拠」
たしかにその通りですね。
あるいは逆に言うならば、
「どんなに苦しくても生きてさえいれば、
自分が愛されていたことに気づくことができるかもしれない、
それに気づかないまま死んでしまうのはもったいないことである」
と言ってもいいかもしれませんね。

幸せの中身は人それぞれだと思いますが、
定義は可能ではないかと思っています。
「幸せの倫理学」 というカテゴリーのなかの、
ごく初期の頃http://blog.goo.ne.jp/masaoonohara/c/2fb8c7039b323367f28e159e2ec29fb4/4にいろいろ書きましたので、
ご覧ください。
私が今採用している定義は 「幸福になる方法」http://blog.goo.ne.jp/masaoonohara/e/484101873bb62156e6bc7ea9bf78b339 のなかに書いてあります。
返信する

コメントを投稿