インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

2015年、あすなろ戦士たちよ、いざ

2015-01-08 19:44:46 | 身の回り
  雅太は実家が雪で動けず、初詣はしていなかった。厄年であるため、厄払いをしなければならぬのだが、それどころではない。車が動かず、バッテリー交換したり、米を売りに走ったり、果てまた一人暮らしのため、買い物やら食事作りをしたりせねばならぬ。最近では、雅太は英語で呪術師たちの本を読まんとしたり、一方でライフワークの小説の構想を練ったり、あれやこれやと神経を消耗させていく。

 夢見の一方で、反復もしているのだが、やはり努力の割には結果が出ないという、要領の悪い方向に行きかけているような気もする。2014年はまさに、そんな感じだったかもしれぬ。反復にしろ、夢見にしろ、時間がかかるとはいえ、「時間をかければ呪術が身につくというものではない」わけで、やっぱし、雑事にエネルギーを奪われているのが根本問題なのかもしれぬ。

 全てをコンパクトでシンプルにする必要がある。
 夢にしろ、英語にしろ、小説にしろ、音楽にしろ、インターネットにしろ、全てを呪術に結びつける必要があるわけだ。
 音楽はヘミシング系を聴き、英語は呪術師の書いた英文を読む。眼球を動かす。ブログの内容は、無論、これまで以上に、呪術の色に染める。

 その姿は、受験生が鉢巻をして片手参考書に、入試に合格しようとしているのと似ているのかもしれない。
 
 だが、「小学生が、高校の教科書を読んで、東大に合格するだろうか?」と考えたとき、無謀なことをしようとしているのかもしれぬと思ったりする。確かに8年前は、教科書に何が書いているか皆目わからなかった。さすがに最近は分かるようにはなったが、自由自在に応用が利くようになるには、教科書を見下ろすレベルでないとダメなのだ。

「今さらこんなことが書いてあるの? そんなの当たり前じゃない」と読みこなす生徒こそが、難関を突破する戦士なのだろう。

 つまり幼少から刷り込まされているのが即なる戦士で、今さら本を読んで頑張ろうとするのは「あすなろ戦士」で、いつなるかわからない部類の戦士なのだ(なる=見るもの)。

 こう考えてみると、雅太はやる前に全てが決まっているのではないかと思ったりするのであった。