新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

3月19日 その2 バイデン政権の外交政策と我が国の姿勢

2021-03-19 11:38:39 | コラム
未だ手放しで安心するのは早計だと思う:

確かに、ブリンケン国務長官とオーステイン国防長官はこの度のバイデン政権下の初のアジア巡回訪問で、我が国を最初に訪れたのは我が国との同盟関係を重視する事の表れであると喜ぶべきだろう。だが、捻った見方をすれば、バイデン大統領が最初の首脳会談に選ばれたのが4月に予定されている菅首相だった事も、両長官がアメリカが韓国や中国を最初の訪問国に選ぶかという問題だと思う。我が国とアメリカの同盟関係を飽くまでも尊重したと考えるのは早計だと、ふと不安に思ってしまう。

アメリカ連邦政府はこれまでに何度か尖閣諸島に安保が適用されると保証してきた。その度にマスコミは欣喜雀躍していた。だが、この私ですらその度に「そんな単純な考え方で良いのだろうか。憲法第九条の下では我が国には先に発砲する事すら制限されているではないか」と感じてきた。俗な言われ方では「アメリカの兵士が我が国の防衛の為に血を流してくれるのか」というのがあった。しかし、私が知る限りのアメリカの知識階級に属する人たちの中には「日米安全保障条約」の存在すら知らない者など幾らでもいた。

私は某大学教授がいみじくも指摘されたように「感性だけで論じている愛国者」に過ぎないのかも知れない。だが、「如何に占領軍が押しつけていったとされている憲法の下でも、これほど頼りない國の儘で良いのか。憲法を放置しておくような状態で、アメリカ国民がアメリカ軍の犠牲においてまで同盟関係を尊重しようと言うだろうか」と不安に感じてきた。いや、こんな理屈を言う前に、「何か中国との間に事が生じた場合に、アメリカと共に戦う事が出来ない國との同盟に、どれほどの意義があるか」と言われるだろうと危惧している。

しかも、習近平が独裁者の如くに君臨する中国は、着々とその(魔の)手を我が国に向けて伸ばしてきている。私が河添恵子さんが「中国は我が国の属国化を目指している」との講演を聴いて心胆を寒からしめられてから10年近くも経った気がする。だが、我が国は未だにアメリカとの間に挟まって身動きが出来ない状態から脱出出来ない、いや脱出したくても出来ない状態の儘だと思う。その状態にあった事が、この度の新型コロナウイルス禍で中国とのサプライチェーン関係など切れる訳がない事が明白になった始末だ。

そこで、初めて重大な関心事になる事が「バイデン政権がこれまでの所ではトランプ政権の強硬姿勢を崩してはいないが、何時までその態度を維持するか」であろうと思うのだ。両長官は我が国では中国に対する姿勢を明確にされたが、韓国での声明は対中国問題には触れられていなかった。ブリンケン国務長官はアラスカで中国と会談されるのだが、その結果は未だ聞いていない。何れにせよ、民主党政権である以上、今回の歴訪の結果でバイデン大統領に変化が出てくるか否かを注視する事だと思う。また英語かと言われそうだが“It remains to be seen.”というのを思い出した。


何故我が国では個人種目の勇者ばかりなのだろう

2021-03-19 08:43:13 | コラム
共同作業派対個人の能力依存派を比較すれば:

このような見出しにしたが、もしかすると「文化比較論」としても良かったかも知れない。そうなるのかどうか、以下に考えていこうと思う。また、カタカナ語排斥論者として敢えて「共同作業」としたのは「チームワーク」というカタカナ語を、ジーニアス英和に基づいて漢字で表したのである。

私が常に指摘してきた事だが、組織委員会にせよJOCにせよ、何年か前の東京オリンピックの招致を勝ち取った委員の方々も、皆というか殆どが個人種目でオリンピックで優勝乃至は3位以内に入賞された優秀な選手の方だった。例えば、山下泰裕JOC会長、橋本聖子組織委員会長、室伏広治スポーツ庁長官、太田雄喜氏という具合である。団体競技出身者は組織委員会にバレーボールの荒木田裕子さん(お名前には確信がないが)が一人入っておられただけのような気がする。サッカー界の英雄・川淵三郎氏は菅首相の鶴の一声で外されてしまった。

我が国ではこれほど世界に誇る優れた選手が数多く出ているのだし、企業の社会でも何処でも「皆で一丸となってやって行こう」との精神の下に立派な業績を挙げ、嘗ては「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」と称えられた時期があったし、アメリカのNBCが「日本に出来て何故アメリカで出来ないのか」という我が国を褒め称えた番組を作って大当たりした事があった。我が国の美風である「和」は“wa“として英語で通じるようにすらなったし、余談だが”kaizen“という専門語まで使われた例すらあった。要するに「集団の力を尊重する文化の國」と言って良いと思う。

一方、アメリカを中心に所謂西欧の文化圏に目を転じると、そこには「集団の力」であるとか「皆で一丸のなって事に当たろう」というような我が国で重んじられている「チームワーク」の精神は希薄である。私が常に指摘した来たように「彼らは個人の能力を基調にして組織を形成し、各個人が勉強と実務経験を基にして築き上げた能力を、思うが儘に遺憾なく発揮させて全体として効果を挙げている」のである。私だけの経験でも、上司から業務の遂行に「教育的指導」を受けた記憶はない。即ち、個人の力量に任せていると言って良いだろう。

そこで、目を再びスポーツに戻してみよう。意外な事ではないかも知れないのだが、あれほど個人競技の種目で優れた成績を残していて、個人の能力と実力が優れているはずの我が国の団体競技の種目では、世界を圧倒するほどの強力なテイームは余り出てきていなかったのだ。嘗ては東洋の魔女がオリンピックを制覇されたし、サッカーでも3位入賞があった。だが、何故かJOCにも組織委員会の委員にも理事にも団体競技出身者は珍しい存在のようなのだ。

ところがである、個人の能力に依存して団体としての力には重きを置いていないかのようなアメリカやヨーロッパの諸国はサッカー、ラグビー、野球、バスケットボール、バレーボール等々では圧倒的に強力なのである。どうやら個人的に優れた能力の者たちを寄せ集めても「団体」として纏まって、オリンピックや世界選手権のような場では最高の能力を発揮できるようになるのだ。「皆で一丸となってやろう」と言ったような精神的な教育を受けてこなかった者たちでも、「いざ」となると一丸となってしまうようなのだ。

私は20年以上もの間、個人の能力を基調にした集団に属していた。各人は「職務内容記述書」に従って、各人のやり方で業務を遂行して、事業部全体としての目標は達成できていた。上司である副社長兼事業部長とは綿密に連絡していたが、他の営業担当のマネージャーとの協調には重きを置いていなかった。後になって振り返れば、それでも事業部として成り立っていたのは不思議だなという事だった。副社長は“team work”という我が国で尊ばれている概念を尊重せず「“team effort”で行こう」と言っていた。

終わりに一言で総括すれば「矢張り、文化の違いかな」という辺りになるのかと思う。