新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

大塚家具関連の報道は過剰だ

2015-02-28 09:29:01 | コラム
創業者の意地と同族経営を考える:

本筋を離れて一寸迂遠なところから入っていくので、暫くお付き合いのほどを。ここを言っておかないと、大塚会長のあれほどの執着振りの説明がつかないので。彼は時代に置いて行かれたのかと少しは思っているだろうが、それを認めてしまうと自分の歴史が崩壊するとでも危惧しているのではないのかな。

私の出発点は1955年から我が国の紙流通機構、即ち、当時の名称が府県商で現在の卸商であり、具体的に言えば紙と板紙の二次販売店を一販売店(=代理店)で担当することから始まった。これでも未だ話しの具体性がないだろうから、もう少し解りやすくすれば、街に今でも見かける「~洋紙店」か「~紙商事」というような看板を掲げている販売店のことである。

これらの卸商さんたちは紙類の末端(即ち、印刷や加工等の需要者)にメーカーの代理店(=一次販売店)から仕入れて小口で販売していくのであって、言うなれば商事行為を担当する機構の最終需要家に隣接する組織である。

これらの卸商さんたちの多くは「個人経営」、「同族経営」、「丁稚奉公から初めて独立を果たしたオヤジの店」、「立志伝中のやり手の店」であり、悪い表現かも知れないが所謂「お店」が多く、創業者、即ち「オヤジ」が絶対の権限を持って、彼が今日自らの店をここまで育ててきた手法での経営を、努力を、我慢を、辛さに耐えることを社員(店員)に求めて、昼夜を分かたず懸命に働かせるような傾向するあった。

そして、こういう辛さや苦しさに耐えて、一人前の営業マン(古き業界用語では「外交」などと呼ばれた)に育っていくし、その先には暖簾分けもあれば長年好い関係を維持した得意先の支持を得て独立していく者なども出てきた。こういう風習が戦前は言うにも及ばず、大正時代からの歴史がある世界だったのである。その伝統は昭和までは残っていた。

かく申す私が、そういう世界を1972年に離れてアメリカの会社(何度もお断りしたが所謂外資系ではない)に転身し、1994年1月末でリタイヤーした後は、その日米両方の仕事の世界で過ごした経験を踏まえて、各方面から色々な仕事をさせて頂いてきた。有り難いことだったと未だに感謝あるのみだ。「日米企業社会における文化と思考体系の違い」などは何度も繰り返し語る場を与えられただけではなく、書いて発表の機会も得た。

それと大塚家具と何の関係があるのかとお尋ねか。私は大いにあると思っているから導入部にしたのだ。私はこれまでに何度も「ICT化が進みたいだけ進んだこの世の変化は、余りにも大きくて早い。我々如き高齢者がついていけない時代だ」と指摘してしてきた。今や「何でもありの時代」で「如何なるもので作ろうと思えば出来る時代」なのだ。昭和一桁の常識では計りきれない時代だと知るべき時なのだ。

だが、高齢化すればするほど「そういう世の中の大きくて早い変化見えなくなるし、また理解する幅がなくなってくるもの」なのだ。さらに、自分の経験からも言えるのだが、自分が唱えている理論(とは言っても大半は時代遅れの経験談か経験した例に過ぎないのだが)を「俺は時代を超越する何と言う素晴らしいことを言っているのだろう」という、現代人から見れば単なる時代遅れの自己陶酔に過ぎないことを「金科玉条」の如くに言いたくなるものなのだ。

一旦この老化現象の迷路に踏み込むと、余程の何か驚天動地のような出来事に出会って自分の時代遅れに気付かない限り、「自己陶酔」が続き「今時の若者に何が解る」という頑迷さから抜けきれなくなるのだ。自分がこれまでに70年以上もかけて築いてきたものが40歳やそこらの若者に否定されてなるものかと思い込むのは普通だろう。だが、そこから「時代に負けた」と悟れるまでには大変な苦労が必要だろう。必要だったがね。

私はPCを玩具のように使い回す愚息たちの様子を見て「そんなことまで出来るのか」と知った時に「時代の変化に敗れ去った」と痛感した。時代は明らかに彼等とそれ以下の世代に移ったのだと知った。私には家具業界のことを語る知識はない。だが、長年の経験に固執する大塚会長の気持ちは解る。また、長女の大塚社長の主張もそうだろうかなとは思わせてくれる。だが、「関係ないよ。どうぞご勝手に」と言いたい。

問題は例によってマスコミにあり、内紛を面白かしく報じているだけで、時代とこの世の変化と同族会社とはそも如何なるものかであるとか、創業者の信じる経験が絶対という心理状態と、時代と客観情勢の変化を受け入れたくないかのように固まってしまっている考え方の分析の一つも出来ていないのでは、単なる騒がしいゴシップ報道である。もう好い加減にして欲しいと言ってやりたい。
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Koreatownは巻き返すのか

2015-02-28 09:24:48 | コラム
Koreatownに集う人たちに思う:

思い起こせば、昨年12月30日から今年の2月18日まで大久保通りに出ていく機会がなかったのだ。そして、18日には雨と寒空を顧みずに長い列を作っている若い女性の群れに驚かされたのだった。25日にも車窓から眺めると、矢張り長蛇の列が出来ているだけではなく、何と「最後尾」の札を持たされた女性が立っていたのまで見えた。列はそれほど長いのだった。家内も26日の列の長さに驚いて帰ってきた。

タクシーの運転手さんは「どうやら東方神起の握手かサイン会のようなものがある模様」と言っていたが、押し寄せている老若の女性は大久保通りの両側を埋め尽くしているかの感があり、入院前の「この街も最早末期的か」と思わせてくれた衰退振りが嘘のような人出だった。2ヶ月近くの余裕を与えれば?韓国側にここまで立て直されてしまったのかと思わずにはいられなかった。

現在の当方の脚力の問題からすれば、Koreatownの商店街の賑わいの実態を確認することは当分の間お預けなのが残念だ。しかしながら、韓国の不安定な政局を眺めている限りでは、これから先もかの国から諸外国に流出する人の数が減るとは思えない。取りあえず最も手近で最も治安が良く、同胞も数多く暮らす我が国が標的にされてしまうのではないかと危惧するものだ。

マスコミは春節の機会を捉えて中国・台湾・香港からの買い物団の来訪を我が事のように喜んで報じている。私が知る限りでは韓国も旧暦の正月を祝う国だ。ここには何故韓国からの訪日買い出し団が話題にならないのだろう。何故、我が国のマスコミはnaiveに観光客(=買い出し団)が増えることのみを採り上げて、その背景とその裏に潜む危険性を全く話題にしないのだろう。

彼らとて、観光客のお国では子供から大人までに、如何なる反日且つ抗日の教育を施しているかを散々報じてきたではないか。それが円安に転じて買い出しにお出で頂けば、恰も救世主の如くに扱う自己矛盾を何で押し隠すのだろうか。押し寄せた買い物団は、果たして一人残らず帰国したのだろうか。そういう追跡調査は人手が少ない出入国管理局任せなのだろうか。
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中国からの観光客の考察

2015-02-26 09:03:33 | コラム
中国観光客の「爆買い」を考えると:

ここ数日間はテレビ各局は躍起になって中国からの買い出し旅行団(観光客と言ってはいるようだが)の特集を採り上げている。彼等は実質的な買い出し旅行を「爆買い」と表現しても、先ず批判的な報道の仕方はしない。寧ろ、低迷する我が国の第・小・中の小売業の救いの神の如くに捉えた報道姿勢を採り続けざるを得ないのだろう。その背景も気持ちも解るがね。

一説によれば、昨年の中国人の買い出し額は2兆円を超え、1人平均のお買い上げ高は25万円に達したとあった。今や小売業界にとっては国内の個人諸費が低迷する時期にあっては、欠くべからざる存在だと礼賛している。報道姿勢には「有難味」のみが一方的に強調され、コインの裏側を採り上げたマスコミは一社すらないのが不思議のようであるし、当然のようでもある。

しかし、今週辺りから彼等の報道姿勢には幾らかの変化の兆しが見え始めてきた。即ち、個人で同一の家電製品を複数買い漁っているお客様に問い掛けて「土産にする」とか「頼まれたので」等と言わせるようになった。マスコミの連中だって個人で温水便座を2個も3個も買えば「何かがあるだろう」と思うのは当たり前ではないのか。

私は世界屈指の駆け引き上手の中国人の商売人が、単に知り合いに依頼されたからというだけで、わざわざ日本まで来て重くて高額で信頼度の高い高品質の家電製品を手数料も取らずに国に持って帰るとは考えられないのだ。私はもっと素直に転売目的だってあり得るのではないかとすら考えたのだが、如何なものだろう。

そこで私は中国人の平均的な収入は何処まで上がってきたかも検索してみた。当たり障りのない数字は月収¥25,000で年収にすれば¥300,000見当だ。この収入で我が国まで来て25万円も買っていくためには余程の蓄えがなければなるまいと思う。彼等の貯蓄性向は短期間にかなり上がってきたいのかと思わせられたが・・・・。

また、テレビの報道で私が見た限りではバスで大挙して銀座や秋葉原に押しかけてくる観光客は、どうしても「富裕層」には見えず、ごく普通の一般人ばかりなのだ。嘗て90年代末に上海の高級ホテルのバーで悠々と寛いでいた富裕層(だったのだろう)はあのような雑な服装(なり)をしていなかった。報道する側はこれくらいの背景を承知しているはずだと思う。それを知らぬ顔で「爆買い」と騒ぎ立てる狙いは何なのか。

直ぐに裏側を見たがる私は、中国の観光客の爆買いの決済が現金かかの「銀聯カード」(Union Pay)か気懸かりだ。テレビではそこまでは詳しく映さないので実態は解らない。私が知る限りでは銀聯カードはそもそも「デビットカード」であって、クレディットカードではなかったはずだ。だが、そこはそれ中国のことで、既にクレディットカードのように使われ始めていると風の便りに聞いている。

何が言いたいのかといえば「カードの決済で何らかの問題が生じていなかったのか」という辺りだ。このような点には一切報道がないし、また採り上げにくいのだろう。年収30万円の人が何年か貯蓄をして海外旅行に出掛け、しかも年収とほぼ同額の買い物するというのはかなり準備期間と、それ相応の覚悟を要するのではないかと思う。

世界第二の経済大国にのし上がった中国では一般人にそこまでの余裕が生じてくるほど発展を遂げたろうか。私はそこまで掘り下げた報道姿勢が欲しいのだ。かく申す私は、1970年から海外に出張と個人の旅行で80~90回は出掛けてきた。だが、一度として25万円も買い物に出費した経験はない。中国と我が国との生活水準と経済発展の違いがあったとしても、考えたこともない金額だ。

コインの裏側をもう一つ探ってみよう。テレビ局は観光客の中に香港や台湾からの人たちもいるので一視同仁に扱っている。だが、私はこれは誤った姿勢であり、特に台湾と中国は別けておくべきだと思う。更に言えば、彼等の中には我が国の不動産(物件という言葉もあった)を物色しているお金持ちがいると得々として報じていた。これは危険な兆候であり、何らかの警告的な解説があって然るべきだと思う。カタカナ語でいえば「ミスリーディング」になりかねないと危惧する。

結論めいたことを最後に言えば「中国等の観光客の出費に依存せねばならないような景気の状態に持っていったのは誰の責任か」と問いたいのだ。私は政治を責めるのは正当(フェアー)ではないと信じている。反省すべきは経済界であり、何ら景気改善というか自社の経営改善に持って行けず、総理に言われなければ昇給にも踏み切れなかった経営者の方々に反省を求めたいのだ。
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国語を乱すのはテレビだ

2015-02-24 09:51:17 | コラム
入院中に国語を乱しているのがテレビであると再認識した:

私自身は筋金入りのカタカナ語排斥論者だと自負してきたが、昨年12月30日の第三次心筋梗塞入院以降、僅か3日間の中断があっただけで2月11日まで世間から隔離されテレビだけを情報源とする入院生活を続けいた。結果的に、あらためてそこに登場するタレントとやらいう連中は仕方がないとしても、国会議員でも所謂専門家という敬称で呼ばれる方々でも、その語り口で日本語を思いのままに乱している現状には、怒り心頭に発するまでにも至らず「情けないこと」と嘆くだけだったのは非常に遺憾だった。

先ずはカタカナ語の濫用だ。念のために先ずお断りして置くが「99.9%のカタカナ語は英語にすると不正確な表現であり外国人に通じないものであるが、それを日常的に使うのはあなた方の勝手である」のだ。とは言え、テレビに登場する連中の濫用振りは目に(耳?)に余り、最早「これが果たしてまともな教育を受けた日本人が使う言葉か」と言いたいほど手当たり次第英語擬きを使いまくっている。

先程もテレ朝で聞こえたが、何とか言うアメリカのロックバンドが来日して「モモクロ」と「コラボ」するのだそうだ。広辞苑には「コラボレーション」【Collaboration】とあり「共同作業、共同制作、共演」となっている。カタカナ語にしないで素直に漢字を使って言えばどうだ。”collaboration”には確かにそういう意味があるが、Oxfordには”group of people working together”という表現もある。

実は私の英語力を以てしては「共同作業」ないしは「共演」と言いたい時に到底「コラボ」等という難しい単語など思い付くとは思えないし、精一杯で”group of people working together”辺りが限度だろう。何故にかかる言葉を採用して、しかも短くして言うのだろう。不思議な英語力だと思う。矢張り「単語帳的知識」の賜物かと思ってしまう。誤った英語の学習法を正していくべきだとあらためて主張する。

実例を挙げよう。「スタッフ」も最早完全に戸籍を得た日本語の熟語となってしまった。「従業員」、「係員」、「担当者」等の言葉を何の根拠があって死語の如くにしたのだろう。漢字で表現したのでは格好が悪いとでも思うのだろうか。我が国立国際医療研究センターでも医師や看護師等の専用の通路には「スタッフ」と表記されている。私には胸が悪くなりそうなカタカナ語だ。

面白いのはOxfordにある解釈で、アメリカでは”the people who work at a school, college or university, but who do not teach students”とあることだ。何れにせよ、そんなに漢字を使うことが嫌いでカタカタ語を有り難がる性根を私は嫌うのだ。飲食店などで「ホール・スタッフ」などと呼んでいるのは、何を勘違いしているのかと嘆かわしくなるだけだ。カタカナ語にするとそんなに格好が良いのか。応募者が来るのか。

「シンプル」や「コンパクト」もものの見事に濫用されている。「簡単に」か「単純に」か「略式に」と言いたい時は「シンプル」を使っている輩が多い。断って置くが”simple”は一義的には形容詞だ。しかし、カタカナ語で使われている場合には「単純化する」という動詞”simplify”の意味である場合が多いように聞こえる。即ち、形容詞の「シンプル」を動詞のように使っていると思っている。こういう使い方を許していて「英語を小学校ら教えよう」もないものだ。

「コンパクト」も恣意的に使われている。大体からし浅学非才の私には”compact”という単語を使いこなした記憶もない。でも、TOEICを有り難がる我が国では平気で「コンパクト」を使う。広辞苑に「コンパクト」は「小さくして中身の充実しているさま」。「-にまとめる」とある。だが、テレビに登場する輩は何でもかんでも「本来の形よりも小さくする」か「縮小する」と言いたい時に濫用する。おかしくないか。

Oxfordには”smaller than is usually for things of the same kind”とある。ジーニアスには「家、車、道具などがコンパクトな、無駄なスペースがない、こぢんまりとした;小さくて安い」とある。矢張り単語帳的な言葉の濫用だと言いたい。これは「シンプル」と共にスポーツ中継で濫用されている傾向がある。”captainship”=「キャプテンの統率の力」を屡々「キャプテンシー」の如くに間違った言葉を使っているよりは罪が浅いかも知れないが。

カタカナ語を離れよう。私が聞き辛いのが「私の中では」という妙な言い方だ。「私が思うには」か「私の考えでは」辺りが普通な日本語だと思うのだが、誰が言い出したのか「私の中では」が大流行で、国会議員までもお使いだ。彼等がタレントを真似るとは世も末だと思わないか。彼等が濫用する「今、現在」も重複でおかしいとは思わないのかな。

「お会いする」も奇妙だ。Atokでは「お目にかかる」を推薦されてしまう。私はこちらを採りたい。敬語としては「お目にかかる」の方が自然だと思うからだ。また、「おいしい」は「美味であること」だが、テレビでは「うまい」は何故か消滅した模様で、男女とも「おいしい」しか言わない。私は「美味い」が男性語で「おいしい」は女性語かとすら思っていたのだが。

「最高」もイヤだ。食べ物の味でも、何か素晴らしいものに出会った時でも、最善の結果が出た時にでも、テレビに出てくる漫才崩れだの何のは「最高」としか表現しない(あるいは出来ないのか)のだ。この言葉では「具体的に何がどのように素晴らしいのか、最も優れていたのか」が特定されていないのだ。要するに「何を言いたいのか」が伝わってこないのだ。要するに「国語による表現力の欠如」だ。

これらの妙な言葉群の問題点は、私が常に言っている「耳から入ってくる言葉の影響は、読むか読んだものよりも遙かに効果を発揮するものである」点にあるのだ。即ち、私は良い言葉か変な言葉か、誤ったカタカナ語かどうの判断が出来ない連中は、「テレビにお出になるタレントやアイドル様がお使いになるのならばそれで良いのだろう」と思い込んでしまっていると見なしている。だからテレビは恐ろしいのだ。

こんな連中の跳梁跋扈をを許しておく一方で、小学校ら英語教育もないもので、国語を正しく学ばせることを第一義に置くべきではないのか。英語なんてその後からの中学校からで十分だ。この私がそう言うのだから間違いない。
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2月22日に思う

2015-02-23 09:11:58 | コラム
雑感-2月22日に思ったこと:

昨22日は生憎の雨模様と寒さで、じっと室内に籠もって静養に努めていた。午後には病院で教えられたリハビリテーションの一環であるストレッチを試みて、身体を幾らかでも解そうとしてみた。それ以外には結局テレビでスポーツの中継を見ている他に時間の有効な過ごし方が見つからなかった残念な日だった。

男子マラソンの不甲斐なさ:
先ずは世界的に有名となったと聞く「東京マラソン」を散発的に見た。この種目は年来の持論である「読売と日テレが箱根駅伝を懸命に後援し支援する限り、我が国の男子のマラソンに未来はない」との説を悲しいまでに立証する結果となっていた。換言すれば「アフリカ系の走者たちの素質と実力の前にあっては、20 kmを走ることしか出来ないように育ってしまった我が国の走者は敵ではない」のである。

私にはアナウンサーが懸命になって今井某を「日本人一位」と叫び続けていたのが何とも情けなく、且つ余りにも贔屓の引き倒しの如くに聞こえて虚しかった。陸連だってマスコミだってはこれくらいの冷酷で冷厳な事実(我が国男子の弱体)に気付いていないはずがあるまい。私には今更「何とかしたら」等と言う気もないほど無残な負け方だった。

議員の素質:
次ぎに気になったのが西川農水大臣。この大臣の「違法ではない」と主張される献金と返金した一件は安倍総理も頭を悩ましておられるだろうとは思うが、私はそれ以前にこの人物の見識というか知能の程度を疑ってきていた。それは国会の委員会だったか何処だったか記憶は定かではないが、公共の場で「西日本の豪雨による水害で家屋が破壊された方々への補償問題を論じた際」の西川議員(委員?)の答えだった。

それは「国からは全壊ならば300万円の補償が出るが、半壊と認定されたならば無補償」と答えた時に野党側から「冷酷無残である。何とかして上げられないものか」と質問が出た。それに対する西川議員の答えは「法律がそう規定しいる以上仕方がない。改正案でも出してみれば」と誠に木で鼻を括ったような素っ気ないもので、そこで議論を打ち切ってしまった。

私にはとても責任ある与党側側の議員(委員?)が言うこととは思えず、この程度の者を選んでしまうのが我が国の民度かとあらためて認識し、この議員を議員不適格と認定したのだった。それが何とTPP担当を経て農水大臣とは自民党の人材不足に呆れるだけだ。彼には農水族として党内を纏める力があるとか言われているが、私には理解出来ない人物だ。

刺青の文化:
ラグビーの日本選手権が準決勝の段階に来て、それなりに白熱した二試合がNHKの第一チャンネルで実況中継された。大学最強と評判が高かった帝京大学に辛うじて勝った東芝は、嘗て早稲田を日本一に育てた名将清宮克幸率いるヤマハにトライを奪えず敗れ、パナソニックは中心選手を三人も海外に出してしまったせいか、サントリーに敢えなく負けてしまった。

私はラグビー界の取り決めだからとは聞くが、大洋州その他の国々から言わば助っ人を採用する方式を採っているのが不思議に思えてならない。何故ならば、外国人選手は三年だったかの期間我が国で選手生活を続ければ、我が国の代表選手になれるのだ。それが世界での取り決めだと言われれば「そうですか」と言うが、その連中の多くは腕や他の身体の部分にこれ見よがしの刺青を入れているのだ。我が国にはない文化である。

欧州の各国の著名なサッカーのリーグを見ても、刺青入りの名手は掃いて捨てるほどいる。これが彼等の文化だと言われれば敢えて異論は唱える気もない。それに欧州での出来事だから。だが、我が国の中でのラグビーでもサッカーのJリーグにも刺青入り外国人は多く見かける。私は「異文化」を受け入れるには吝かではないが、この現象には何としても違和感が残る。

心の底では、あれは何と出来ない(規制する)ものかと思ってしまう。外国であの連中が本当の日本代表だと思って貰いたくない気もする。これ所謂「グローバリゼーション」とでもいうものなのかと思うと、何となくやるせない思いが残るのは私だけだろうか。
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