新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

3月12日 その2 トーマス・バッハ会長と習近平主席に思う

2021-03-12 12:01:31 | コラム
Untouchableにして良いのか:

報道によれば、中国はIOCに東京オリンピックに参加する選手たちの為にCOVID-19用のワクチンを提供すると申し入れ、再任が決まったバッハ会長は受け入れて代金はIOCが負担するとなったようだ。バッハ会長は参加する者たちにワクチンは義務づけないと発表してあったにも拘わらず、アッサリと方針を変更されたように受け止められる。習近平帝王の独裁下にある中国は、既にワクチン外交を手広く展開していたかと思えば、今度はIOCにも影響力の行使を目論んでいるように見える。怖い、怖い。

中国は広く知られているようにWHOのテドロス事務局長を自家薬籠中のものとしただけではなく、UNそのものにも影響力を行使できる地位を着々と抑えに出ている。その力の行使を何処まで拡大するのかと思えば、今度はIOCと来たのだった。油断も隙もあったものではない。こういう面だけではなく、海警法も改悪したし、香港の議会も民主派追い出しの決議もしたし、残るは台湾であり、バイデン政権の懐柔くらいものかと思っていた。私は迂闊にもIOCとまでは考えていなかった。

我が国の報道機関は産経の先例もあるので、迂闊に中国の批判は出来ないように抑え込まれているので、このワクチンの件も何ら批判的な注釈も付けずに淡々と報じた。私から見れば中国もそうだが、彼らマスメディアにとってはIOCもバッハ会長も“the untouchable”な存在として扱っているとしか見えない。おかしな事ではないのか。彼らマスメディアには親中派や媚中派が多いのは解っているが、それにしても腰抜けだ。言うべき事を言っているのは産経新聞だけでは如何ともし難い。

その untouchableだが、ジーニアス英和には「(人が)有力者であるために批判されない;影響されない、罰せられない」とある。その範疇に彼らが祭り上げているだけではなく、組織委員会も何となくIOC様々扱いのようであり、何かにつけて反論も抗議もせずに従順にお付き合いさせて頂いているよう。バッハ会長は専門家やジャーナリストたちがあけすけに指摘するように、経済的というか資金的な事情があるので、オリンピックは是が非でも開催せねばならないようだ。つい先頃も「やる、やる」と力強く述べておられた。我が国内の世論調査の結果など何処吹く風の様子だ。

私は常日頃、言いにくいと言うか危険な表現ではあると承知で「ヨーロッパやアメリカ人たちを崇拝する時代はとっくの終わっている。彼らに対しては言うべき事を恐れる事なく、正々堂々と真っ向から主張すべきだ」と言ってきた。彼らは時と場合によっては「これを言う事で失うものはない」的な駄目で元々の主張をぶつける手法に出てくるのだ。それを聞いてビビっているようでは何時まで経っても彼らに甘く見られてしまう。IOCの場合に典型的だったのが、突如としてマラソンの会場を札幌に移すと宣告してきた事だ。受けるにしても、一言二言の反論があっても良かったと思う。

私が偉そうにこんな事を言うのは、自分自身が20年以上も我が国を相手の輸出交渉をして来た経験から、一般論として、彼らに対して余りにも紳士的で口角泡を飛ばして議論をするというような姿勢に出てこられないのが、正直に言って歯痒かった思いがあったからだ。そこには民族性と文化の違いがあるのだと解っているが、私には決して一流の支配階層にあるとはとても思えないバッハ会長をあそこまで丁重に扱う姿勢を疑問に感じるのだ。彼は私が日頃から批判的な個人競技の出身者だ。川淵三郎氏のような団体競技の経験者ではない。これだけ言えば十分だろう。

結論的な事を言えば「何も交渉相手というか、交渉する相手の外国、団体、組織等々を恰も“untouchable”であるかの如くに敬う必要があるのか」と言う事だ。交渉事では相手を尊敬して丁重に扱うべきだが、腫れ物に触れるような扱いをするまで謙る必要などないと思う。交渉は対等であるべきだ。それは、国際的な話し合いや交渉事は馴れるまでは、正直に言って怖いのだ。だが、何時まで経っても恐れ畏まっていては、事は前に進まない。恐れなくなる為には外国語の習得も必須だが、場慣れも大いに必要だ。私は英会話の上達の鍵は「慣れと度胸だ」と永年唱えてきた。


我が国における民主主義の考察

2021-03-12 08:42:36 | コラム
何処で誰が日本式解釈を普及させたのだろうか:

先日、「民主主義とは」と題して「もしかしたら、我が国では諸外国で言う民主主義を、例えは悪いかも知れないが、カタカナ語のように恣意的に解釈してしまったのではないか」を論じたつもりだったが、そこには反省すべき点があったのではないかと思うに至った。それは、英語の辞書の解釈を英語のままにしておいた事だった。OxfordとWebster’s の解釈を引用した狙いは、「我が国における民主主義はかなり我が国独得の拡大解釈が施されているのではないか」と言いたい点にあった。

そこで、今回はあらためて先日の一文を引用して英語の辞書の原文の部分を日本語にして、アメリカと英連合王国における「民主主義とは」の考え方の違いを明確に表してみようと思う。下記は言わば前回の訂正版である。

戦後最早76年も経ってしまったのだが、我が国では何かと言えば「民主的ではない」と批判すれば、「憲法違反だ」か「人権無視だ」となじるのと同様にというか、恰も黄門様の印籠のように無敵なような時期さえあった。そして、アメリカを民主主義の模範というか、お手本の國のように崇め奉る学識経験者や政治家が幅を利かせて来ていた。

そこで、21世紀のこの期に及んであらためて、その定義を調べてみようと思うに至った次第だ。先ずチャーチルが「民主主義」を批判的に述べたと聞く英連合王国の権威ある辞書のOxfordを引いてみた。そこには、“a system of government in which all the people of a country can volte to elect their representatives”と至極アッサリと定義されていた。即ち「一国において人々が選挙で代表者を選んで政治を行う仕組みである」としてあるのだ。

次は模範国とされているアメリカのWebster’sだ。そこには、“1. Government by the people; rule of the majority, 2. Government in which the supreme power is vested in the people and exercised by them directly and indirectly through representation(以下略)”とあった。これは「1。人民による政治、即ち多数決が原則。2。政府は人民により最高権力(至上権)与えられ、その権限は直接的か間接的に投票で選ばれた者によって行使される」となるだろうか。

我が国の解釈は如何にと広辞苑を見れば、要約すると「基本的人権、自由権、平等権あるいは多数決原理、法治主義などが主たる属性」とあった。率直に言って「英語版と比較すると、拡大解釈というか悪く言えば曲解かな」と思わせられた。いや、我が国独自の解釈だと思う。即ち、英語版には何処にも自由だの平等だのという表現はなかったのだが、この広辞苑版が紛う事なき我が国における「民主主義」だと見えた。上記の2ヶ国における考え方とかなり異なっているではないか。

広辞苑のように「自由と平等」が民主主義の骨子であれば、アメリカのように貧富の格差が大きく、人種差別があり、少数民族の社会的地位が低いとしか見えないのが「民主主義的」なのだろうかと考えさせられた。また、Webster‘sのように多数決が原則であれば、自民党と公明党が多数を占める国会で立憲民主党他の野党が自公内閣の手法を「強行採決」を「非民主的」などと非難する根拠などはないのではと考え込まされてしまう。それを支持するマスコミなども見当違いではないのかと言いたくなる。

何かと言えば自公政権に反対して「非民主的だ」と政権を批判して喚く立憲民主党の安積国会対策委員長などを、各テレビ局は必ずこれ見よがしに画面に出すのも、マスメデイアが広辞苑(岩波書店)的な解釈に立脚しているからではないかと疑いたくなる。私はそれ故に「カタカナ語が元の英語の意味を曲解してしまったが為に、おかしな言葉が粗製濫造されたのと似たような現象では」と考えている。また、安積氏には失礼かも知れないが、彼の顔を見る度に、古き言い慣わしの「一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う」を想起させられてしまうのだ。。

ここで纏めてみれば「彼ら野党とマスコミの連合軍は民主主義を恣意的に解釈して、政権を批判し非難する材料にしているだけではないのか」という点なのだ。更に言えば、私には広辞苑の定義のような理想郷がこの世界にあるとは思えないのだ。私は永年アメリカを経験してきて、我が国の方が遙かに平等であり、機会均等であり、男女同権という点でも、決してメデイアが自虐的に罵るほど劣悪ではないと感じて来た。理想的には広辞苑風を目指して邁進する事だろうが、その目的地はDemocracyとは異なる何かではないのかと考えてしまう。

要するに、広辞苑が掲げている要素のどれか一つか二つだけでも完全に達成出来ていれば、万々歳ではないのだろうか。立憲民主党が唱えているのは民主主義ではなく、社会主義の一種ではないのか。何方か、正解が何処にあるのかをご教示願いたいものだ。