新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

3月4日 その3 女性登用の考察

2021-03-04 16:15:54 | コラム
女性を数多く登用し活躍を期待しよう:

如何に展開するのは言わば「女性論」なので、世に言う「炎上」の危険性がなければ良いのだがと念じつつ、キーボードを叩いていくところだ。

私には森喜朗氏の女性蔑視とマスコミにとられてしまい、IOCのバッハ会長に「後任は女性が云々」などと言われてしまった後からは、特に目立つ地位に女性が選ばれる傾向が出てきたという気がする。私はドイツとアメリカに長い間留学していたと聞かされていた昭和12年に亡くなった父親から、かなり徹底した「レイデイースファースト」を仕込まれたようだった母親と、戦後間もなくから英語を教えられたGHQの秘書だった方にもその文化の下に幼少の頃から厳しく仕付けられたので、女性を敬うのはごく普通の事だと思って育ってきた。

だが、そういう育ちであっても昨日だったかのバッハ会長と、4人の我が国の代表者がリモートで会議をするとのニュースを見ていると、橋本会長、小池都知事、丸川担当大臣の3人の写真がズラリと並んでいたのには正直圧倒されたと同時に、男社会でも働いてきた感覚が「上手く行けば良いのだが」と感じさせていたのだった。と言うのも、私は我が国では官・マスコミ挙って、あのバッハ会長なる者を崇め奉っている感覚を正常だとは思っていないので、彼如きに言いくるめられないかと恐れたのだ。

より具体的にバッハ氏を貶せば「教養あるヨーロッパ人は先ずクイーンズ・イングリッシュのnative speakerかと思わせられるほど見事な正調の英語で話されるのだが、あの会長の英語は余りにも拙いのだ。ズバリと言えば「教養あるアメリカで言うアッパーミドル以上の階層に属しておられるお方でしょうか」という疑問なのだ。3人の強力な女性たちがバッハ如きを屈服して欲しいものだという願望でもある。言葉だけに拘って言えば、あのコーツ委員長のオーストラリア訛り丸出しの語り口にも辟易となる。

話を女性論に戻そう。私はアメリカの大手メーカーの会社で合計22年ほど働いてきたので、「かの国における女性とは如何なる存在か」を恐らく一般の我が国の方々よりも心得ていると思う。一言にすれば「女性と男性のそもそもの能力には差などない」と言って誤りではないと思ったほど、アメリカの女性たちと非常に多くの場面と長い時間にわたって共に仕事をしてきた。だからこそ「基本的に能力に差などない」と言えるのだし、更に「適材を適所に当て嵌めれば、愚かな男どもでは及びもつかないほど、その能力は発揮されている」とも固く信じている。

これまでに何度も解説してきたように、嘗ては我が国の女性たちよりも虐げられていたアメリカの女性たちは、立ち上がって奮闘して「男女同一労働・同一賃金」や「男女同権」を勝ち得たのである。その歴史を知らずにアメリかでは建国以来あのようになっていたなどと思っているのだったら誤解であり、アメリカを見誤る事になる。私は一緒に仕事をしたから解るのだが、彼女たちの中には未だに男性何するものぞと言うような激しい対抗意識を以て当たってくる怖い人たちはごく普通のようにいるのだ。そういう女性と仕事をすれば痛い目に遭うのは良くある事だ。

男性にも同じ事が言えるのだが、上司に人を見る目があって適材適所で使ってくれれば良いのだが、一担当者として抜群であったからと言って管理職の昇進させた途端に無残な「無能レベル」に到達して、上からも下からも見限られた例は幾らでもあっただろう。女性だって同じ事で特定の集団の長となって力を発揮するMBAもいるだろうし、秘書としてボスを支えるだけではなく彼(としておこう)の長所も欠点も見抜いて、掌の上で巧みに転がして、上手に出世される類い希なる才能を持った女性もまた多いのだ。ここにも「適材適所論」が当て嵌まると思う。

何が言いたいのかという事だが、組織の上に立つ者が配下にある男性でも女性でも、その適性を確実に見抜いてjobなりrank(階級)なりを与えないと、あたらその貴重な人財の才能を活かし切れないことになるのだ。もしもだ、組織の指導者に適した才能を持つ女性を見抜けずに、秘書にさせてしまったらどうなるかという話た。秘書向きの女性を秘書として抜群だったからと言って部長職に就けて成功するか否かは別の話ではないのか。これまでに我が国で女性の指導者や管理職が少なかったのは「才能を見抜けなかった経営者か上に立つ者の眼力不足」ではなかったか。

私はウエアーハウザーの19年間で数多くの女性たちと仕事をした。その中で組織の長だった女性は他の事業部の一部長に過ぎなかったが、専門職としての能力は高かったが管理職向きではないと判定していた。我が事業部の「受注、生産計画、輸送、在庫管理と言う事業部の心臓部の仕事をしていた2人の女性たちは極めて優秀で勤勉であり、大変な負担である事務量の仕事を文字通り昼夜を分かたずに立派にこなしていた。その中でマネージャーのtitleを与えられていた女性は秘書からの転進で、将にピッタリの天職の如き働きぶりだった。

難しい点は「誰にどの仕事(job)が最適であるかどうかなどは、極端に言えば『やらせてみるまで解らない』事だ」と思っている。世界に女性重視の動きがあるからとか、バッハ会長が示唆されたからと言って思い切って登用するのではなく、上に立つ者がチャンとした眼力を備えるべく努力をしてから、これと思う女性を順当にに昇進させるとか、抜擢するとか、この仕事で実績を残したからここでもやらせてみるかというように、思い切った使い方をいない限り、女性の活用など進まないと思う。

因みに、社員6万人のW社でも女性の副社長兼事業部長はいなかった。でも、我が国には女性経営者はDeNAの南場智子さん、寺田千代乃さん、桂由美さん、太田光代さん、元谷芙美子さん等々が綺羅星の如くにおられるではないか。この他にも検索すると無数におられると解る。だが、所謂大企業では未だ狭き門のようだ。そうであれば「経営者の力量と眼力の問題」かも知れない。時代が変わりつつあると認識すべき時代のようだ。


「マスハラ」とは将に"Well put!”

2021-03-04 12:39:30 | コラム
「マスハラ」に大いに感銘を覚えました:

北村維康様の「頂門の一針」へのご投稿、興味深く拝読。誠にご尤もな指摘でした。

私は10年以上は前からマスコミ批判を繰り返して、渡部亮次郎氏には「無駄であり無益な事。彼らは自分たちの満足の為に存在しているのだから、何を言っても効果はない」と諭されました。でも、懲りずに繰り返しております。それは誰かが言わない事には、罪なき一般の視聴者と読者は「彼らの権威か権力を信頼し続け、惑わされるでしょうから」なのです。

尤も、私自身が1990年から実質的に2013年まで紙パルプ業界の専門出版社に定期的に寄稿し続けていただけではなく、1996年から12年間もSBSラジオのコメンテーターであったのでマスコミの一員だったのですから、彼らを批判する資格はないのかも知れません。但し、彼らに同情すべき点はあります。それは経験上も言える事で「彼らは常にスポンサー様の方を見続けていなければならない」のです。その束縛がある為に詰まらない事を言うのですが、それだけではなく、意外なほど不勉強であり無知な点が多過ぎます。

先日も菅首相がバイデン大統領と最初の電話会談を行って「ジョーとヨシの関係を樹立」などと言う無知蒙昧な事を、さも菅氏の功績の如くに報じていたのも、彼らの「文化の違いを未だに弁えていない欠点」の悲しいまでの表れでした。彼らはアメリカやヨーロッパの諸国の文化では「ファーストネーム・ファースト・ベイシス」である事が未だに認識出来ていないようです。

古くは「ロン・ヤス関係」と囃し立てた故中曽根総理の外交能力の如くに持ち上げた件がありました。彼らアメリカ/ヨーロッパ人たちの中で過ごせば、ファーストネームで呼び合う事が親密さを表すものではないと解るはずですし、彼らとても海外に特派員を出しているではありませんか。

私は子供頃から彼等アメリカ人と付き合いがあって、この程度の文化の相違点は承知しておりましたから、1972年に思いがけずにアメリカの会社に転進しても、その点では困惑もしませんでしたし、自分は如何なるニックネームするかと考えていました。現に最初に転進したM社の事業部の社長(他社ではvice president and general managerですが)は初対面の私の名刺を何度も見ながら名前で呼びかけていました。決して名字とはならないのは当たり前でしょう。そこで暫くしてから社内ではMasと呼んで欲しいと言うようにしていました。念の為に言えば「下の名前」というのも奇妙な事。日本式は「名字に名前」で構成されているのです。

この程度の「文化の相違点である常識」を未だに弁えていない彼らは、平然としてMichael Jacksonを「マイケルさん」(理屈を言えばマイクルが正しいのですが)と呼び、Paul McCartneyを「ポールさん」としてしまうのです。テレビ局では出てくる外国人を躊躇う事なくファーストネームに「さん」を付けて呼んでしまう不見識振り。もう、ここまで来れば怒る前に笑うしかありません。私は一流大学出身のアナウンサーたちがこの程度の初歩的文化の違いを本当に弁えていないのかと、不思議に思っています。デイレクターなりプロデでユーサーに訂正を進言出来ないのでしょうか。

我が社では私が何度か採り上げた笑えない誤解がありました。本部の技術サービスマネージャーの名刺の裏側にはローマ字表記で「ジョージ某」と印刷されていました。その彼と名刺交換をした得意先の工場の新任の課長さんは躊躇う事なく「ジョージさん」と呼びかけ続けました。ジョージはそれを善意に誤解して、会談が終わってから私に言いました「今日は本当に嬉しかった。日本に何年も来ているが、初めて堅苦しい名字で呼ばれる事なくファーストネーム・ファースト・ベイシスだった」のように。私は「残念ながら誤解である」と解説して、ジョージを落胆させました。

この程度の基本的な文化の相違点が未だに理解出来ていないのは何故でしょうか。それは後難を恐れずに言えば「誰も相互の文化の違いを教えていないからだ」だと認識しております。同時に、これが私の持論である「我が国の学校教育の英語における至らなさと、教師たちの程度の問題」を、遺憾なく表していると思うのです。

蛇足かも知れませんが、「マスハラ」とは「マスコミ・ハラスメント」のこと。



カタカナ語の問題点と困った点

2021-03-04 08:43:49 | コラム
ピッタリはまるカタカナ語:

これは本3月4日の産経新聞の「談話室」欄に載っていた投稿の題名である。正直に言って「やれやれ」と思った。投稿された方(62歳とあった)は日本語で言い尽くせない意味をカタカナ語にしたら「ぴったりとはまった」と言っておられるのだった。

このご指摘は私が永年指摘し続けてきた「我々日本人の思考体系だと含蓄に富んだ漢字の熟語があるので、英語ならば長い文章かclause(主語と動詞で構成される文節)にしないと表現しきれないような内容を2文字で表してしまう事に馴れてきたので、英語の単語にもそういう含蓄があると錯覚を起こしている」との問題点の典型的な例なのである。言い換えれば、「なるほど、多くの方はこのような錯覚(誤解でも良いが)を起こされて、カタカナ語の多用に走られるのか」と非常に残念且つ恐ろしい事だと、あらためて認識出来た。

投稿には「ベネフィットとリスク」を適切な日本語に直せずに、お孫さんに上手く説明出来なかったと嘆いておられたのだ。ベネフィットは確かにジーニアス英和には「・・・にとっての利益、たすけ、有利さ、利点、《商》利得(advantage)」と出ている。これを簡単に言えば「有利性と危険性の両方がある」とでもなるのだと思うが、それではお孫さんに通じないかと思われたと言われたいようだった。要するに「漢字を使った一個の熟語にならない」と指摘されたいようなのだ。

さらに「マンパワーで対応」もそのカタカナ語の儘の方が理解されやすいと言われたいようだった。投稿者は「人手だと弱い、人海戦術では物々しい云々」としておられた。私はそもそもmanpowerとは「人手」とは思っていなかったので、Oxfordを見ると“the number of workers needed or available to do particular job”とあった。ジーニアス英和には真っ先に「(産業・軍隊などで)動員可能な人手[兵力]、有効総人員」と出ていた。これらの解釈から考えれば、投稿者のカタカナ語の認識が誤っていたのが明らかではないか。

私が指摘したい問題点は二つある。第一は単語偏重の我が国の英語教育で育ってこられたにも拘わらず、単語の解釈が誤っていた事。第二は漢字の熟語の含蓄と同じ意味を英語の単語に求めてしまった事である。私の持論は「英語の単語には漢字の熟語のような含蓄はない」という点だ。それを知らずに漢字の熟語が表す意味をカタカナ語で置き換えるのは、困った現象なのだ。だが、今や当たり前のようにまかり通ってしまっている。

英語という言語は理屈っぽくてしつこいのである。だから、上記のmanpowerのような意味を2文字の漢字の熟語では表現しきれないのだ。即ち「ある特定の仕事に必要なだけの人数の働き手を揃えない事には」というような文章にする必要があるのだ。この肝腎な相違点を知らないで英語で話すから「通じなかった」という嘆きになるのだ。だから、[世の英語教師よ、その至らなさを反省せよ]と言うのだ。

念の為に「含蓄」を英語にすれば、“full of implications and or meanings”のようになると思う。「彼の発言には常に含蓄がある」というのを英語にしようとして、英語の単語を探そうと等しない事だ。結論だが、「思考体系の何もまるで異なる言語の単語か熟語を、そのまま異なる言語に当て嵌めて使っては通じない」と、学校で教えておくべきなのだ。等と言えば、結局は「単語重視と偏重の英語教育を止めなさい」と言っている事になる。恐らく、残念ながら私の主張をお解り頂ける方は少ないと思っている。