新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

3月31日 その2 小学生に英語を教えようとする愚かさ

2019-03-31 15:10:37 | コラム
優先すべき順序を誤っている:

私は小学校までは国語教育を何はさておいても優先すべきだとの強硬な論者です。

その議論を裏打ちする為こ、こにあらためてこれまでに何度も採り上げた私の日本の会社時代の2期上と同期入社だった秀才の名言を再録してみます。

一橋出身のXX氏は「日本語で満足に自己の思うところを言えない者が英語が出来るようになる訳がない」と指摘しました。

東大出身で後年に親会社の専務となられた○○氏は、英語での話し合いでは非常に交渉が難しくなると私が進言した東南アジアの某国で発生したクレームの処理に単身で出向かれる前に「英語での会話による交渉は心配していない。要するに基本的に英語とは何かが解っているかいないかの問題だから」と断言されました。これも至言だと思って聞きました。そして、交渉は無事成立しました。

英語で思うように意思表示が出来るか否かは、基本的にこの両氏が言われたような点に尽きると思うのです。日本語で自分の意志が的確に表現できない、あるいは物事が良く理解できない年齢の頃に、外国語を教えても無意味だと言うことだし、その外国語が基本的に如何なるものか、即ち日本語と何処がどう違うかが解っていれば、難しいビジネスの交渉でも出来ると言うことでしょう。

アメリカとアメリカ人の社会の恐ろしさ

2019-03-31 14:47:55 | コラム
100人に1人の優れ者たちが支配する世界:

私はこれまでに何度もアメリカとアメリカ人と論じてきた。そこで、この際あらためて主張しておきたいことは「私が語るアメリカ及びアメリカ人論は飽くまでも言わば『内側から見たアメリカ論』であって、彼らの会社の中で彼らと共に、会社の為は二の次にして、自分の為に身を粉にして彼らの思想信条と哲学で働き、彼らの言葉で語り合いながら喜怒哀楽を共にして来て会得したアメリカ論」なのである。

従って、我が国の多くの専門家、諸先生、評論家の方々のアメリカ論とは些か異なる経験論が基調となっている点があるというのが特徴であると自負している。極論を言えば、私は彼らの一員であったのであるし、アメリカの会社のために努力する事が最善の“job security”である世界で22年半を過ごしてきた、珍しい経験に基づいているのだとご承知置き願いたいのだ。何故か、私のような経験をして来た多くの方は、私のような「内側から見たアメリカとアメリカ人論」を発表された例が極めて少ないのだ。

私は以前から「アメリカ人という者たちは精々100人に1人が例えようもなく抜群に優れており、残る凡庸な99人を率いている。故に、その指導者である極めて優秀な者が一歩誤れば、その集団全体が危機に陥るか倒れてしまうのだ。これこそがアメリカという世界の恐ろしさであり、集団というか『皆でやろう』という精神の下で動いている我が国では先ずあり得ないこと」と説いてきた。この説も長い間の経験によって解ってきたから言えたことで、失礼を顧みずに言えば「駐在や留学されただけでは感じ取れない事だ」と思っている。

そして、22年以上も実務の世界で「100人の(あるいは1,000人の)中の1人の凄さをイヤというほど実地で経験したし、見聞もしてきたのだった。しかも、その99人を率いる指導者となる者たちは最初からそのような地位に就くべく名家か良家か資産家に生まれ、その資産を活かしてそういう地位に到達すべき教育をIvy Leagueのような、今では年間の学費が年間700万円以上にも達する大学でMBA(経営学修士)やPh.D.(博士号)を取得してビジネスの世界や学問の分野に入って行くのだ。

しかも、近年では大手企業で生き長らえようと思えば、能力だけではなくMBAのような学歴が必須になってきたとも聞かされている。これは、以前にも指摘したことが「家柄も良くなく、資産もない家に生まれた者は、余程のことがない限り学歴が一層ものを言うようになったアメリかでは成功するというか立身出世の機会が閉ざされてきた」という意味でもあるのだ。これぞ格差社会であり、機会均等な世界ではない社会だと示していることになるのだ。

そういう100人に1人という優秀な連中は出会ってみれば解ることで、彼らは誠に頭脳明晰というか賢明というか“sharp”という言葉で形容される極めて高い能力がある者たちなのである。「何だ、そういう者ならば我が国にも高級官僚や優れたビジネスマンにいくらでもいるではないか」と言われそうだ。だが、アメリカには我が国と異なる点がある。それはその100人に1人の者たちは幼少期からそうなるべき教育を家庭でも学校でも受けて来ているし、家族全体がそういう雰囲気にあるのである点が違っているのだ。イヤな言い方だが、家柄の問題となってくるのだ。

考えてみるまでもないことで、4年制の大学を卒業した後で4年間の実務経験を経て入学するビジネススクールの2年間に要する学費は(4年間の実務経験の間を除けば)今や総計では約5,000万円に達するのだ。奨学金や学生ローンを利用しなければ、これだけの負担に軽々と耐える家庭に生まれない限り、ビジネスの世界で生き残り且つ経営者や指導者の地位には上がっていける機会が訪れないのが現代のアメリカなのである。後難を恐れて極端な表現をすれば「社会の低層に生まれれば立身出世は極めて難しい」とでも言えるかと思う世界なのだ。

経験上も言えることだが、そこまで昇進してきた者たちは確かに何事においても「頭が良いな」と嘆息させられた経験があった。それは忌憚のないところを言えば「何という狡さに裏打ちされた賢さだ」というか「そこまで作戦を立てるとは悪辣な」と驚かされるほど悪知恵までもが発達している者もいるということ。私流に表現すれば「流石にCIAがある国だ」とでも言いたくなるほど巧妙且つ抜け目がない作戦を色々な場面で展開してみせる頭脳があるのだ。我が国のような性善説を信奉している国ては考えられないような恐ろしさがあるのだ。

別な見方をすれば、あの熾烈な生存競争が展開されている組織の中で順調に階段を上がるというか、俗に言う予め用意されている「スピードトラック」を順当に突き進んでいく為には、尋常な頭脳と知恵だけでは、アッという間に蹴落とされてしまう危険性が秘められているのだという例までを見てきた。更に視点を変えれば、MBAやPh.D.は出世の為には必須だが、それだけでは生き残れるかどうかを保証されている訳ではないのがアメリカという国の社会なのである。そこにあっては、余程知恵をは働かせないことには容易に生き残って昇進できないないものだと言えると思う。

そのような世界で何度か倒産の憂き目に遭っても起き上がって、不動産業界で確固たる地位を築き上げて名を為してこられたドナルド・トランプ大統領は、一筋縄ではいかぬ人物だと思って付き合っていく必要があると思っている。現に就任以来何名の閣僚を含めた重要な側近というか補佐官を切ってきた辺りを見れば、ホワイトハウスの主になられても如何にして生き残っていくかは十分に心得ておられる方のようだとといえるのではないか。

より解りやすく言えば、トランプ大統領は「安倍総理が自分のアメリカ大統領としての職責を果たし且つ守っていく為には必要な人物であると認識されたので、フロリダの別荘に招待し、ともにゴルフを楽しむような歓待をして見せたのだろうと私は見ている。自分の役に立つと見える間は徹底的に活用するのが、彼らアメリカで高い地位に就いた者たちの行動様式であると、経験的にも考えている。逆に言えば「役に立たない」と思えば容赦なく切り捨てていくのが彼らの行動様式である。詳細は避けるが、私自身も危うく切り捨てられかけたこともあったのだから言っているのだ。

そうであれば、トランプ対金正恩との首脳会談や、アメリカと中国やロシアとの関係改善に安倍総理が介在する余地が余りないと思えば、昨年の金正恩との会談の事前の告知が真っ先に安倍総理に来なかったのも不思議ではないように思えるのだ。嘗ては、ニクソンの頭越しの中国訪問があったではないか。このようなアメリカの指導者のやり方を「義理人情がない」と見るか、「自分の都合を優先する手前勝手」と見るかは、意見が分かれるだろう。だが、彼らの中に入ってその行動様式を長年見ていれば「そういう者たちなのだ」と見えて来ると思っている。要するに、アメリカ人というか白人との付き合い方には十分に注意した方が良いのではないかということ。

なお、この一文は約1年前にそも骨子となるものをご覧に入れていたが、ここにあらためて加筆訂正してお目にかける次第だ。


3月30日 その2 新元号を弄ぶな

2019-03-30 14:25:32 | コラム
新元号を弄ぶマスコミの不謹慎さを糾弾する:

元号とは畏れ多くも天皇陛下の称号になるものです。先ほど書き漏らしてしまいましたが、それを恰も競馬や競輪の予想の如くに扱うマスメデイアは不敬であり不謹慎の極まりであると思うのです。畏メル友の某氏のように真摯で熱心に皇室を敬っておられる方とは違って、私は未だ未だ遠く及ばないかも知れませんが、現在のテレビや新聞の軽々しい姿勢は到底容認できません。「ふざけるな」と一喝したい思いです。

新元号、内田裕也、萩原健一

2019-03-30 11:43:54 | コラム
テレビ局のうるさいこと:

私は顎関節症を何とかしてこの苦境から脱出しようと、昭和大学の菅沼教授から指示された顎の運動を続けて毎日懸命の努力を続けている。それで、偶には気分を転換しようと試みてテレビを見れば、何処の局を見ても新元号狂想曲と内田裕也というロックンロールの歌手の追悼の話題と、演技力と不品行で話題を賑わしてきた歌手兼役者の萩原の訃報関連のことばかり。彼らを失ったことがあれほど重大事だとは不覚にも全く知らなかった。

内田も萩原も彼らテレビ局に取っては重要な部分を占めていた仲間内のことだったのだろうから、彼らを失ったことと追悼したい気持ちが解らないのでもない。だが、新元号がどうなるかという話題と同様乃至はそれ以上に集中して報じるべき事柄かと思って、苦々しく思っている。特に元号の予測関連の取り上げ方は如何にも行きすぎだと思っていたところ、政府は彼らが候補も第1位に挙げた「安久」は俗に使われていたという範疇に入るので、外されたそうである。兎に角、度が過ぎた騒ぎ過ぎで、あれでは「何とか48」の総選挙と変わらない芸能ネタの如きだ。将にテレビ局の軽佻浮薄振り、ここに極まれるという所だ。

私は1972年にアメリカの会社に転進して以降は、仕事上の報告書でも社内での誰との会話でも、西暦で行くしかない環境にあった。従って西暦の方が便利だったのは確かだったが、昭和の場合は25を足し、平成では西暦に12を足せば換算できると解ったので、特に不自由はなかった。今回は今上天皇のご退位があって、事前に新元号を公開するという安倍内閣の方針が打ち出されたのだが、政府はここまでのテレビを始めとするマスメディアの馬鹿騒ぎを予測できなかったのだろうか。彼らの下らなさは今に始まったことではないが、ウンザリさせられている毎日だ。


春の選抜高校野球に思う

2019-03-29 07:52:35 | コラム
矢張り全国大会は止めた方が良くはないか:

私はそもそも40年ほど前から甲子園の野球は止めた方が良いのではと意見だったので、今開催中の選抜高校野球も気が付いた時だけ見ている程度だ。しかも、今回は新潟県の高野連が投手の球数制限を言い出した後だったので、その点には多少の興味もあった。というのも、私は甲子園の野球では球数の制限どころか連投を禁止すべきだというのが持論であるから、出場する高校の監督たちがどのように反応しているかにも関心があった。だが、恐らくこれまで通りに連投また連投で、それをテレビや新聞が持ち上げるだろうと予想していた。

何試合か見た限りではほとんどの一線級の投手は140~160球を投げていたし、エースとやら言われている投手は秋の地方大会でも「1人で投げきってきた」と賞賛されていた。「何を考えているのだろうか」と言いたくもなるのだ。私は事前の予想など見ても聞いてもいなかったので、偶々見た星陵高校の投手が妙に纏まっていたし(高校生でありながらプロの投手のように多くの球種を投げ別けているという意味)制球力もあるので、「矢張りこの種の全国大会で勝てるような水準に向けて育ててきたのか」と半ば落胆し、半ば中々の素材だなと感心していた。

ところが、アナウンサーが言うことを聞けば「大会屈指の好投手で今年のドラフトでは上位指名間違い無しの逸材であり、全国にその投手ありと知られた奥川恭伸君」だったのである。私は野球という競技では、高校辺りまでは「投手は力の限り速い球を投げられるように訓練し、それが出来るようになれば制球力の心配をすべきであり、打者は如何にして遠くまで打てるかを懸命に練習しておくべきだ」というのが持論なので「プロ並みに変化球だの何のの習得に専念すべきではない」と考えているが、そこには悲しいかな春と夏の甲子園での全国大会があり、そこに出て勝つことが最優先されてしまうのだ。

と、ここまで言えば私が野球だけを目の敵にしているが如くだが、この持論はサッカーでもバスケットボールでもヴァレーボールでも何でも当て嵌まると思っている。現にサッカーなどはこれという素材は皆Jリーグの下部組織に入って鍛え上げられているので、高校でサッカー部にいる生徒たちはJリーグから誘われていない者たちが残っているのだと、そういう事情に詳しい筋から聞かされて「なるほど」と納得したものだった。

所で、奥川君である。昨日は習志野高校との試合を最初の頃だけ見たが、前の試合の時とは違っていて状態が立ったままだったし、投球も高めに外れることが多かったので「これでは習志野に勝てないのかも知れない」と思わせてくれた。その不調(なのだろう)が連投の所為かあるいは未完成なのかは知らないが、そこまで見てからチャンネルを変えてしまった。習志野に負けたと知ったのは今朝のニュースだった。それほど多くの試合を見た訳ではないが、全般的に抑えが効かずに高めの球を投げる投手が多く、その高いボール球を空振りする打者が多いのも目立った現象だった。

ここで、サッカー出身者として締めくくりに一言。それは「未だ未だこれという素材は野球に流れているようだし、ラグビーにも体格が良い子供たちが取られているようだ。これではサッカー界には体格も良く身体能力が優れた素材が来ない訳だ」という泣き言である。尤も、往年の松井秀喜や鈴木一朗のような人材がテニス部に入っていたら、我が国のテニス界の歴史は変わっていたかも知れないと思うのだ。