新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

3月10日 その3 本日の驚愕

2021-03-10 15:54:54 | コラム
「驚愕」とは大袈裟かも知れないが:

先ほど、何気なくフジテレビのバイキングMoreというのを流していたら、カンニング竹山が凄い勢いで「小池都知事が全く何もしないのがいけないのだ。何もしないのが怪しからん」と堂々と小池批判を展開していたのには「テレビ放映でタレントがあそこまで言って良いのか」と、大袈裟に言えば驚愕させられたのだった。しかし、正直に言えば「よくぞ言ってくれた」となるだろう。

竹山にそこまで言わせた事の次第は「東京都が飲食業者に補償を約束した資金の1月分でも未だに50%以下の入金状態で、業者が赤字と資金難に苦しんでいる」というものだった。入金の遅延の原因には「書類の記載の不備」との名目で申請後1ヶ月も経てから一件書類が戻ってくるという事が最も多いからだそうだ。その間の事情については女性のジャーナリストが「然るべき助言者がいれば誤りなく記入出来る程度の簡単の事だが、不慣れな業者には難しいので」と解説していた。要するに所定の書式を満たしていないと「不備」で戻されるらしいのだ。

番組では「3ヶ月も前の件が未だに滞っているとは酷い」という話になっていた。そこを竹山が衝いて「小池さんは口先で格好良い事は言うが、現実には彼ら飲食業者の為には何もしていない」と口を極めて非難攻撃したのだった。小池都知事批判派の私としては「後難を恐れずに、よくぞ言ったものだ」と、寧ろその度胸に感心してしまった。このような声が小池都知事にまで聞こえても、彼女は意に介すまいが、それでは宜しくないと思う。尤も、ジャーナリストさんは「途中から中小業者だけではなく、大手も対象となったので事務手続きが煩雑になった」と解説はしたが。

私も在職中に「我が国における公共機関への申請では、書類に記載する項目が役所側の求める複雑な規定に完璧に沿っているかいないであり、要求された通りであるかないかが絶対的に重要であり、申請の内容が必ずしも問題とはならない事がある」という経験をしていたので、この東京都の場合でも不慣れな者には申請書類の記入で引っかかる事は容易に想像出来る。東京都か小池都知事が真剣に補償していこうと思うのだったら、可能な限り申請書類の煩雑さを避けようとするのが本当の親切というものではないだろうか。そうではないと「禁止的だ」の非難を免れないと思う。

それとも、東京都は「大義親を滅す」で、新型コロナウイルスの制圧策の為には、飲食業界を犠牲にするのも止む得ないとでも割り切っているのだろうか。まさか。


3月10日 その2 民主主義とは

2021-03-10 11:54:10 | コラム
ふとした動機で「民主主義とは」と考えて見た:

浅学非才の私は、未だ以て「民主主義」なるものが良く理解出来ていない。戦後直ちに「我が国は民主主義を掲げる國になった」と発表され、確か我々は何が何だか解らないままに(解らなかったのは中学1年生の私だけか?)拍手喝采して「軍国主義」(帝国主義)からの脱却を喜び合ったのだった。私は子供心でも「これほど簡単且つ急に変われるものなのか」と、狐につままれたように感じていた記憶がある。それが進駐軍のお仕着せか、自発的に採用したかなどは解るはずもなかった。

あれから76年も経ってしまったのだが、我が国では何かと言えば「民主的ではない」と批判すれば、「憲法違反だ」か「人権無視だ」となじるのと同様にというか、恰も黄門様の印籠のように無敵なような時期さえあった。そして、アメリカを民主主義の模範というか、お手本の國のように崇める学識経験者や政治家が幅を利かせて来ていた。

そこで、21世紀のこの期に及んであらためて、その定義を調べてみようと思い立った次第だ。先ずチャーチルが「民主主義」を批判的に述べたと聞く英連合王国の権威ある辞書のOxfordを引いてみた。そこには、“a system of government in which all the people of a country can volte to elect their representatives”と至極アッサリと定義されていた。

次は模範国とされているアメリカのWebsterだ。そこには、“1. Government by the people; rule of the majority, 2. Government in which the supreme power is vested in the people and exercised by them directly and indirectly through representation(以下略)”とあった。「なるほど」と思った。

さて、我が国の解釈は如何にと広辞苑を見れば、長いのだったが要約すると「基本的人権、自由権、平等権あるいは多数決原理、法治主義などが主たる属性」とあった。率直に言って「英語版と比較すると、拡大解釈というか悪く言えば曲解かな」と思わせられた。即ち、英語版には何処にも自由だの平等だのという表現はなかったのだが、この広辞苑版が紛う事なき我が国における「民主主義」であるのだと思った。

このように「自由と平等」が民主主義の骨子であれば、アメリカのように貧富の格差が大きく、人種差別があり、少数民族の社会的地位が低いとしか見えないのは、広辞苑の定義とは矛盾しているとしか思えないのだ。また、Websterのように多数決としているのであれば、立憲民主党他の野党が「強行採決」を「非民主的」などと自公内閣の手法を非難する根拠などはないのではと考え込まされてしまう。それを支持するマスコミなども見当違いだと言いたくなる。

何かと言えば自公政権に反対して「非民主的だ」と政権を批判して喚く立憲民主党の安積国会対策委員長などを、各テレビ局は必ずこれ見よがしに画面に出すのも、広辞苑(岩波書店)に振り回されているだけではないかと言いたくなってしまう。私は安積委員長の顔を見る度に、古き言い慣わしの「一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う」を想起させられてしまうのだ。。

ここまでで言いたい事は「彼ら野党とマスコミの連合軍は民主主義を恣意的に解釈して、政権を批判し非難する材料にしているだけではないのか」という点なのだ。更に言えば、私には広辞苑の定義のような理想郷がこの世界にあるとは到底考えられないのだ。私は永年アメリカを経験してきて、我が国の方が遙かに平等であり、機会均等であり、男女同権という点でも決してメデイアが自虐的に罵るほど劣悪ではないと感じている。理想的には広辞苑風を目指して邁進する事だろうが、その目的地はDemocracyとは異なる何かではないのかと考えてしまう。

要するに、広辞苑が掲げている要素のどれか一つか二つだけでも完全に達成出来ていれば、万々歳ではないのだろうか。立憲民主党が唱えているのは民主主義ではなく、社会主義の一種ではないのか。何方か、どれが正解が何処にあるのかをご教示願いたいのだ。


シーズン突入前の内外のプロ野球について

2021-03-10 09:58:38 | コラム
この時期の出来不出来は気にしないが:

NPB:

昨9日の夜にはソフトバンク対読売の一見して因縁試合かのようなオープン戦(プログレッシブ和英には a preseason exhibition gameとあった)を、少しだけの興味と関心で途中まで見ていた。報道によれば、読売はソフトバンクに公式戦も含めて11連敗していたのだそうだ。先ず驚いた事は「この変異株の感染を防ぎ切れていない時期に、読売は福岡まで遠征していた点」だった。福岡県は宣言から抜けていたにもせよ、危険ではないのかと考えた。

試合内容には期待していなかったが、矢張り未だ出来上がっていない状態の選手が多く大味だった。最早、私は余りNPBの野球に関心がなかったので事情を知らなかったのだが、デスパイネとグラシアルという打つ方の中心選手であるキューバの2人が未調整でメンバーから外れていて、言わば飛車角落ちとでも言いたいような布陣になったとは知らなかった。それでも読売は勝てなかったのだが、それは現時点ではそれほど大騒ぎするほどの事ではないと思った。

ソフトバンクは昨年の日本シリーズでも1回だけ投げさせた体格に優れた発展途上の速球派・杉山を先発させた。確かに1回などは150 km半ばの速球で読売の打者を寄せ付けなかった。読売は昨年も速い球に対応出来ていなかったので、この時期ではあれだけ速ければ、仮令杉山に制球力が整っていなくても、打ち崩せなかったのは当然だだろう。折角大枚を叩いて買ってきたDeNAの梶谷も打てていなかった。原監督は桑田をコーチに入れたりしたが、体幹を鍛えて速球に対応する力を養っていなければ、今年も泣きを見るかも知れないと思わせられた。

試合の流れは昨年の失策ばかりしていた足が速いだけだったかのような周東が読売の期待の新人投手・平内からホームランを打って5対3とリードしたところで「勝負あった」と決めつけて、観戦を中止した。原監督は2 mを超える身長の高卒の秋広を一軍に帯同させているが、現状では仕入れ商品のFA選手たちに叶う訳がない。首尾一貫していない方針に見える。テレビ局は他の球団の試合は見せてくれないので、NPBについてはここまでにする。

MLB:
次は各テレビ局が毎日のように消息を伝えてくれる大谷翔平君に行こう。念の為お断りしておくが、私は「二刀流」という間抜けな表現を否定しているし、この攻守両面で使う方式にも不賛成である。Angelsは今年は投手を主にするとの報道があった気もするので、その点を見ていこう。いきなり161 kmとやらが出たそうだが、一目見て「投球フォームが変わった」と思わせられた。どうなったかと言えば「腕の振りの振幅が小さくなって、言うなれば『担ぎ投げ』とするか『捕手のように投げる』ような形に見えた」のである。

表現を変えれば「手術した肘を気にしているのか、恐る恐る投げていたようだし、身体全体の動きにも腕の振りにもスピード感がなくなっていたように見えた」という事なのだ。あるフットボールのオフェンスコーチの目にも「あの投げ方では不安である」と映ったようだった。しかしながら、MLBのシーズン開幕はNPBよりも遅いので、修正の期間はあると思う。だが、アメリカの指導法は、我が国のようにコーチがいじり回すのではなく、選手が助けを求めて初めて指導が入るので、大谷君がそう願い出るか否かなどは解らないのだ。

打つ方ではTBSの「喝」の時間で張本勲が既に問題点を指摘していたので、テレビ局が何百メートルのホームランを練習試合で打ったと騒いでも、未だ未だ信用するのは早過ぎるのではないかと恐れている。毎度同じ事を言うが「マスコミが持ち上げるか騒ぎ立てられた選手が、本当の意味で活躍する確率は低い」が、大谷君に当てはならなければ良いがと念じている。