新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

3月20日 その2 英語使いの負け惜しみ

2021-03-20 11:23:19 | コラム
カタカナ語は凄いな:

「リバウンド」は何処の何方が最初に使い始められたのか知らないが、「感染者の再度の増加」という意味で総理大臣まで国会で使われるまでに、瞬く間に普及してしまったのには、ただひたすら恐れ入っている。お断りしておくが、今回この言葉を採り上げた目的はカタカナ語排斥論者が、こういう種類の言葉の広がりを貶そうというのではないのだ。正直に言って参っているのだ。自分には出来ないな、負けるなと思っているのだ。言ってみれば負け惜しみの弁かも知れない。

私はこの“rebound”という単語の存在は承知していたが、それはバスケットボールにおけるシュートが外れた場合に跳ね返ったボールを捕るという行為を言うと知っていたのと、もう一つは業績が回復した事を指す言葉として知っていたという程度だった。アメリカ人たちが日常の会話の中で使ったとか、自分で使えた事はなかった。そういう単語を「感染者の再度の増加」の意味で使ってきた単語の知識に、皮肉でも何でもなく恐れ入っているのだ。

即ち、普通に日本語で「感染者の再度の増加」と表現すべき所を、「リバウンド」という英語の単語を持ってきて充当してしまった事が凄いと言いたいのだ。私にはとても思いも及ばない事だ。もしも、英語で言って見ろと言われてもreboundは出てこないで“number of infected persons to rise again”のようにreboundを言い換えたように、細かく説明するしか出来ないと思う。即ち、このような口語体で考える事しか出来ずにreboundという文語的な単語は使えないと思うのだ。ここでは「感染者の再拡大」であれば「リーバウンド」という名詞形の発音になる事は措いておく。

私が思うには「カタカナ語が多用されるのはこのように漢字乃至は漢字の2~4文字の熟語と、同じような意味になりそうな英単語を充てて表現しよう」というような考え方があるのだと思う。そこに、単語重視の英語教育を受けてきた結果で、その単語が日常的に使われているのか、それとも文語的で固いのかとの判断力は備わっていないので「英単語を重宝に使おうとなるのだ」と見ている。見方を変えれば、単語という部品を覚えようとしなかった私よりも、「語彙が豊富」になっている方が多いのだろう、例えば小池都知事のように。

そのような豊富な単語の知識があればこそ“cluster”(「クラスター」)と言うだけで「集団感染」の意味でまかり通ってしまう事になるのだと思う。「クラスター」と聞いて、私が直ぐに思い浮かべたのは「ブドウの房のような一塊」か「クラスター爆弾」であって「集団感染」はあり得なかった。この場合は厳しく言えば、言葉の拡大解釈であって、難しい漢字の熟語を排除して、事もあろうに英単語を充ててしまったのだ。これは不正確な単語の知識の範疇に入るだろう。

「コラボレーション」即ちcollaborationにも驚かされた。素直に私には「誰かと共同で作業をする」と言いたい場合に、この単語の存在は承知していても、先ず思い浮かぶまいと言うか口からは出てこないと感じたからだ。何処かの何方かと共同で作業するならば、どうしても“to work together with 何処かの誰それ”しか思い浮かばないだろうと思う。要するに口語ではないというか、日常の業務の報告書で読んだ事も、自分から使った事がなかったのである。それでは「君の語彙は貧弱だな」と批判されそうだが、我々は文学作品を書こうとは思っていないのだった。

そこで、何故そうなったのかを色々と考えてみると、我が国の英語教育ではどうやら英語を科学的に分析して数学のようにキチンと割り切れるように考える事が基調にあるのではないかと思うのだ。故に、文法、単語、英文解釈、英作文、ヒアリングのように生き物である言葉を分類して教えておられるのだと思う。そして、口語も文語も分けてはなかったし、俗語も汚い言葉もその存在を教えていなかった為に、カタカナ語で置き換えるような発想が出てきたのかと疑うに至ったのだ。

私は日常の仕事における意志疎通の道具だとして英語を話し、書き、且つ聞いてきたのだった。そして、アメリカ人たちの表現を聞いて「この場合はこう言えば良いのか」と覚えて、彼らの真似をして使ってきた表現が非常に沢山あった。真似をしてその表現が適切であれば解って貰えたし、有り難い事におかしかった場合には間違いが指摘されて正しい言い方を教えて貰った事が何度もあった。また、正解が解らない場合には外国人だから躊躇わずに誰にでも彼にでも教えを乞う事が出来たのだった。言って置くが、彼らには日本人が如何なる場合に困っているかなどは解らないのだ。

矢張り、我が国の英語教育の問題点を指摘するところに来てしまったが、単語を覚えさせる事が誤りであるとまでは言わない。だが、重視する教育の結果としてカタカナ語の多用と濫用が生じている気がしてならないのだ。一例として「トラブル」を何度も採り上げてきた。私は混乱させられ、事改めて“trouble”を英和と英々の辞書で見直してみたほどだ。先日もボーイングの787のエンジンが故障して空港に引き返した事故を「エンジン・トラブル」と言っていたが、アメリカのメデイアは“engine failure”としていた。私は矢張りfailureが正解だと思う。

カタカナ語を好きなように使うのは貴方たちの自由であり、私が阻止しようとまでは考えてもいないし、感心させられるような凄い使い方もある。だが、悪い事は言わないないから、単語の意味は正しく覚えておかしなカタカナ語を製造しないようお願いしておこう。


外交交渉では主張すべき事は真正面から主張すべきだ

2021-03-20 08:48:25 | コラム
アラスカにおけるアメリカと中国の外交担当者の会談に思う:

非常に興味深い会談となったようだった。いきなり余談だが、私は18日に会談というのを日本時間で考えていたが、時差を失念していた。昨19日にテレビのニュースで部分的にだけブリンケン国務長官と揚潔篪共産党政治局員(実質的には外務大臣だそうだが)との遣り取りは、将に(私がこれまでに繰り返して指摘して来た)「主張すべき事(言っておきたい事)を腹蔵なく主張する」というアメリカまたは西欧式な討論の進め方をそのまま実行した典型的な例だった」と思って聞いていた。

私には中国語というか、揚局員の語り方にどれほど感情が出ていたかは解らなかったが、感情的な表情が現れていたので、そこだけを捉えても中国側には分がなかったと受け止めていた。何れにせよ、あの冒頭のテレビカメラを呼び戻したと報道されていた、言わば「激論」の応酬はそれほど驚くべき性質ではなかったと思う。ブリンケン国務長官はアメリカ人である以上、二進法的に物事を判断するので、揚局員の20分にも及んだ主張を聞いて「看過すべきではない」と即断して反撃に出られただけの事だと思うのだが、その内容は中国の痛いところを突かれたのではなかったか。

アメリカ人たちの思考体系では、討論をする際にかなり激論となり、如何にして相手を論破するかという状況になっても、先ず感情を抑えて主張すべき点を腹蔵なく「論争と対立」を怖れずに述べてくるのだ。そこには相手と対立して気まずくなりはしないかとか、言い負かすのは失礼ではないかとか、相手の立場を尊重はするが自分の主張を曲げるべきではないという配慮はぜず、言うべきか否かの二者択一の考え方で論戦を挑んでいく。議論は白熱する。

相手も同じような思考体系であるから、当然のように激論となる。そういう人たちだと知らずにアメリカ人同士の議論を聞いていれば「あそこまで主張が真っ向から対立しては、彼らの間柄はどうなってしまうのだろうか」とハラハラさせられるのである。実際には、討論が終われば握手を交わして「今日は良い議論が出来て結構な事だった。これから夕食でもどうか」などと言う決着となってしまううのが普通である。

私は中国人とやり合った経験がないので、彼らの議論の進め方が解らないが、中国語の英語と同じような言葉の配列からして、アメリカ人にも似たような二進法的な思考体系で討論するのかと解釈していた。それに中国政府の報道官たちの「先手必勝」的に相手国を罵る声明の出し方からも、二進法的な思考体系かと考えていた。だが、あの揚局員の反論は自制心を失った感情的な悪口雑言に近いようにしか聞こえなかった。恐らく、アメリカ政府の高官だけではなく、何処の国からもあそこまであからさまに自国の問題点を衝かれて、我を失ったものと解釈していた。

そこで思いが至った事は、我が国の討論の進め方の奥床しさだった。それは、西欧式な二進法的にはならない(なれない)で、ともすれば遠慮がちに先方の顔を立て立場を尊重する、言い過ぎないよう考慮する、激論を避けて戦法の感情を害さないよう配慮する、落とし所を探る等々の、丁寧であり奥床しい論法で臨まれるのだ。いきなり核心に触れずに「言外の意味を察して頂きたい」とばかりに「腹芸」のような議論を展開するので、余程巧みに言外の意味を察して通訳しないと「問題の核心の周りを回っているだけで、論点が不明だ」となってしまうのだった。

このような相違点を、私は文化と思考体系の違いと認識してきたので、言わば中間に立つ日本駐在員の務めてとして、相互の理解を促進するように努めてきたし、何とか問題が生じないように進めてきた。民間ではそれで良いのだろうが、事が国家間の案件となればそうは行かないのだ。それこそ、今回のアメリカ対中国の会談のように「自国の利益の為に主張すべき事は腹蔵なく真っ向からぶつけるべきである。論争と対立を怖れず、結果を怖れているべきではない」との精神で臨むべきだろう。

私がここまで引っ張ってきて言いたかった事は「その点では我が国の外交姿勢と海外向けの情報発信力が弱すぎる。自国の為に自国の立場を真っ向から主張するか、言い渡して何も失うものなどないのである。妙な遠慮は無用だ」という、極めて単純な問題なのである。相手国は我が国の政治家や官庁の優しさや奥床しさや論争と対立を怖れる事など知らないだろう。また、承知していれば尚更の事で、「これでもか」と突っ込んで来るだろう。重ねて言うが、遠慮は無用だし論争と対立を怖れては国際場裏では勝てない恐れがあるのだ。ブリンケン国務長官に学んでは如何か。