新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月31日 その3 私の本音

2018-08-31 17:21:03 | コラム
こういうことを言っても良いかな?

私は実は28歳まで大学のコーチを非公式に続けてきたが、それはOB会の最長老に「何れは現在の他の大学の出身の監督を君に替えるから」との口約束というか暗黙の了解の下でのことだった。それが実現しなかったのは、その前に私が会社の仕事にも励まねばならない時期で無理が祟ってウイルス性肝炎に冒されて倒れたからだった。

何を言いたいのかといえば「私にも監督含みのコーチ業の経験がある」ということ。私はA型である為か極めて几帳面で細かいことまで指導する(関東大学4部リーグ所属の)母校のサッカー部の学生たちにとっては厳しすぎるコーチだったようだった。故に一度は学生たちがOB会長にコーチ忌避を訴えられたほどだった。だが、それでも中学から高校の全国優勝を目指していた蹴球部の練習から見れば「ほんの軽い練習であり指導法だった」に過ぎなかった。勿論、殴ったり蹴ったりすることなど夢にも考えたことなどなかった。

後年、私は故篠竹監督の指揮の下に日本大学フェニックスが甲子園ボウル6連覇を果たし損なった時や、ライスボウル(日本選手権)3連覇した頃の練習を具に見ている。そのピーンと張り詰めた緊張感で張り詰めた雰囲気は見ている方ですら緊張させられるほどの厳しさとでもいうか、仮令練習中でも些細な失敗や気が抜けた行為が許されない凄みがあった。

その中で失敗でもしたら如何なることになるかをここで述べる必要などあるまい。その雰囲気を知らない方々に何故そういう事態になったかを解説する意味はないと思う。あの雰囲気にはもう一度触れてみたいと願っても、もう不可能なのだから。社会人までを倒して全国を3年も連続して制覇する為にはそういうこともあるということだが、そういうことを是認するとかしないとかいう議論をする気はない。そこまでのことを取材に来た記者に出会ったことがなかった。それで何が解るのかという気がする。


そういう時代もあったのだが、それは1990年辺りまでのことであり、今日のように何かというと「暴力は絶対駄目だ」という何か当時とは非常に世間の見方やマスコミの論調が変わってきて時代になったようである。先ほど森末慎二が言っていたが「体操の指導中にここが悪いと言って選手の体に触れても駄目な時代」となってしまったのだそうだから、幾ら言わば被害者の側にある宮川沙江さんが是認しても、コーチが抹殺される時代なのだと解る。

今や私が知っている監督やコーチたちの多くは50歳以上であり「旧世代?の手を上げる指導法を是とするか、必要悪である」とする年齢層に属している。実際にコーチをしてみれば解ることだが、夢中になって一所懸命に教えている最中に「こうしろ」と強調し、厳しく言ったことが実行されなかった時に「感情を抑えること」がどれほど難しいかは解るはずだ。その経験がない方々が寄って集って「暴力はいけない。許されない」と声を大にして言われても如何ともしがたいと思わずにはいられない。

それに加えるに、監督だのコーチなどは自分の経歴と指導法に揺るぎない誇りと自信がなければやっていられない仕事である。それだけではない、今や「監督と選手のコミュニケーションが云々」などと言われる時代になったようだから、選手が「コーチでも監督にでも自分から異議や不服の申し立てをしても良いのだ」と思っても不思議はないのかも知れないとすら考える。偶然の一致だろうが、そういう意志を表現すべく記者会見を開いたのは男女ともに宮川姓だった。

そういう意見の発表の仕方が良いか悪いかは別にして、指導者側に思い上がりというか「我こそは」と思い込ませるだけの実績があったのは確かだ。恐らく、レスリングの栄和人にしても塚原夫妻にしても自分たちが(世間の常識から見れば)思い上がっていた世間知らずだという自意識など欠片もなかったのだろう。でなければ「全部嘘」などと言える訳がないのだ。同時にきついことを言えば周囲に彼らに忠告できる者がいなかったのも遺憾だし、放置した協会も無能だった。

だからという訳でもないが、私は選手上がりが協会の運営に携わるのは考え物だと言うのだ。「またアメリカの話か」と言われても良いから、運営の責任者には選手系経験者でもMBAを持つ者(日本の大学院にもそういうコースはあったと思うが)を当てるべきだと思う。「名選手必ずしも名コーチたり得ず」とは言うが、名選手か名コーチが名経営者乃至は統治能力が備わっている訳ではないという実例が多過ぎはしないか。マスコミはその辺りが解っているのかいないのかが知りたい。彼らはそこまで論じるべきではないのか。


8月31日 その2 アメリカの新聞社が悲鳴を

2018-08-31 14:41:01 | コラム
トランプ大統領の関税攻勢の影響:

何処が発信したニュースかは失念したが、アメリカの新聞社がトランプ大統領がカナダからの輸入の新聞用紙に課した高率の関税で悲鳴を上げていると知った。ごく自然な成り行きであると思った。アメリカは嘗ては世界第1位の紙生産国だったが、その頃でも新聞用紙などはカナダからの輸入に依存していた。またカナダは人口も少ないので、こと紙の輸出に関してはアメリカが最大の相手国だった。

だが、悲しいかな長年カナダドルがアメリカドルに対してカナダドルが強すぎた時期が長く続き、多くのカナダの製紙会社は多額の赤字に苦しめられ続けてきた。だが、近年はこの形勢が逆転してカナダの製紙会社は漸く黒字決算が出来るようになっていた。考え方によっては結構な変化だと思って見ていた。

だが、そこに現れたトランプ大統領は「アメリカファースト」の旗印の下にNAFTAのみならず、中国を最大の標的とする高率の関税の賦課によってアメリカの貿易赤字の削減策に打って出られた。それ自体にはというか有識者が指摘する「ここで中国を叩いて対アメリカの貿易黒字を軍備に回させない」という大目的があるのならばそれで結構だとは思っていた。

だが、25%などという関税を掛ければ国内の物価に反映するのは自明の理だが、トランプ大統領がその点を何処まで意識されて始められた作戦かなどは、私如きに解るはずもない。だが、カナダから輸入している紙類がどうなるのかくらいは頭の片隅では気になっていた。現にアメリカでは大手の新聞用紙メーカーは軒並み所謂 Chapter 11 で青息吐息なのだから、そこにカナダから輸入に依存する紙のコストが関税分跳ね上がれば、それでなくてもネットに押されて弱っている新聞社が困るのは明らかだと思っている。

恐らく、輸入品に課される関税でアメリカで国内価格が上昇するのは、何も新聞用紙だけと限られてはおるまい。まさかトランプ大統領はご自身の味方ではない新聞社が悩まされても None of my business. と割り切っておられる訳でもあるまい。ではあっても、彼の岩盤の支持層であるラストベルトの労働者やプーアホワイト以下の層にも「これは中国を叩く為の重要な政策であるから暫時辛抱を」と納得させていおく必要があるのではないだろうか。

そうでもして置かれないと、当初に懸念されエコノミストや評論家がいう「関税の賦課は諸刃の剣」が現実のものになりつつあって、巷間指摘されている「中間選挙対策としてはマイナスではないのか」という問題になりはしないかということだ。私はトランプ大統領は何処まで関税賦課政策の影響を計算し尽くされたのかが微妙なところかと思って見ているのだ。


体育会(運動部)とマスコミの介入

2018-08-31 13:55:15 | コラム
マスコミが深入りすべき分野ではないと思う:

この度は女子の体操選手・宮川沙江さんの件で一悶着起きているようだ。私は「およそ関東でも関西でも大学の一部リーグ校か、高校ならば本格的に全国優勝を狙っているような運動部でレギュラーを張った経験がない人たちが介入しない方が良い問題だ」と認識している。例え話としては適切ではないかも知れないが、そういう介入は一般人の常識の世界に住んでいる人たちが「相撲の世界の文化はおかしい。改革すべきだ」と主張し介入するのにも似た議論だと思っているのだ。

言い方を変えれば、「異なる原語・風俗・習慣・思考体系、即ち文化の中で暮らしてきた人たちが、一般人の世界とはかけ離れた文化を持つ相撲の世界を批判するのは無意味だ」というのが私が長年指摘したことで、体育会乃至は運動部にはそれぞれそこにその部の独特の「文化」と「伝統」が厳然として存在するので、それに触れたことがない方々がどうのこうのと仰ること自体に、何処まで意義があるのかと指摘したいのである。

先ほどもスポーツジャーナリストやら言う小林信也がフジテレビのバイキングで「今でも指導する時に手を出すこと(私はそれを暴力行為の如くにいうのは不適切であると信じているが)を是とする指導者が50%はいる」と述べていた。私の知り合いの複数の監督・コーチの中には「それは必要悪である」と言っていた人たちがいるのも事実だ。しかし、看過してはならないことは「そういう運動部は全国的にも高い水準にある実力を維持している」という事実だ。

ここで誤解を避ける為に言っておくと、私は必ずしも殴ったりけったりする指導法を是認しているのではなく、そういう現実もあると伝えたいだけだ。私自身が旧制中学から新制高校卒業までの6年間は常に全国優勝を目指している運動部に在籍していたし、現実に昭和21年には全国優勝したし、23年は悲しいかな決勝戦で敗退していた歴とした強豪校のサッカー部の一員だったが、戦後間もなくの頃には監督も指導に来ていたOBたちの中にも手を出すような指導法は採る人は皆無だった。

私は強豪の高校や大学の運動部ともなれば、それぞれに独特の歴史と文化があって指導法も独自のものがあると思っている。その指導法の中には練習中につまらない失敗(英語では unforced error と言うのが面白いと思ったが)や、試合中のあってはならない間違ったプレーに対して「何をやっているのだ」と手を挙げることはあると思っている。私はそう言う行為を「愛の鞭」などとお為ごかしを言いたいとは思っていない。その指導者の感情の赴くままにやったことで、その運動部では認められた行為ではないかと見做している。

私はそのようなやり方というか指導法を見聞きして「全国制覇を目指した経験もない方々が、指導法の結果としての事実だけを見て云々するのが良いことだとは思えないし、寧ろ要らざる介入ではないのか」とすら思って聞いて(見て)来た。今後そのような指導をしてきた監督さんやコーチが今後どのように指導を変えていくかは、現場を離れて半世紀も経ってしまった私には予測できないが、運動部内における監督やコーチの在り方や部員に対する権威は変わることはないと思っている。

換言すれば、50歳台以上の強豪の運動部に在籍したか、指導者の地位にあった方々ならば「監督やコーチという絶対的な存在に対して一部員がその指導法やテイームの運営方針に逆らうとか苦情や異議を申し立てることなど考えても見なかったと思うのだ。それほどの厳然たる存在であり続ければ、心なき指導者は「天上天下唯我独尊」と錯覚を起こすこともあって、山根明か栄和人の如くに増長することもあると思っている。ということは宮川沙江さんはやり過ぎたとも言えるのだ。

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<strong>今回も塚原光男が宮川沙江さんの発言を「嘘ばかり」とこき下ろしたのを見て、もしかすると困ったことに彼は「自分が偉いのだ」と思い込んでしまったのか、あるいは狭い狭い世界で過ごしてきた為に言葉の使い方も弁えずに、あのような心なき表現をした哀れな存在なのかと思っている。私は彼の語彙が狭くて、本来ならば「彼女の発言には誤解と誤認識が多いようだ。それらの問題点を我々夫婦で是正する」と言うべきだったのだ。語彙の問題でなければ「思い上がり」から来る妄言だったと言いたい。

何れにせよ、体操の協会は又ぞろ「第三者委員会」を言い出した。それはそれであの夫妻の思い上がりから離れられるだろうが、運動部か体育会の実態を経験していない方が「世間一般の常識とは異なる原語・風俗・習慣・思考体系」の世界で過ごしてきた人たちから聴取しようとした場合に、如何なることが起きるかには私の想像を超越したものがあるような気がする。それが宮川沙江さんに吉と出るか凶と出るかなどは予測も出来ない気がする。マスコミ(≠素人)はこの辺りまででこれ以上の介入を避けるべきだ。


宮川沙江さんの問題

2018-08-30 09:19:53 | コラム
彼女の主張が全面的に正しいとして:

私は何度か我が国の多くの(敢えて全部とまでは言わないが)スポーツの協会というか上部団体の役員たちはほぼ無能か使い物にならない(簡単に言えば世間知らずのアホばかり)だと決めつけてきた。それは「彼らは嘗ては名選手だったかも知れないが、その後はその極々狭い世界に閉じこもって、まともな社会か世間の風にも当たらず社会常識を備える間もなく頑迷な老人の如くになってしまった連中ばかりだ」という意味である。

最近ではレスリング協会の栄和人元本部長にボクシング連盟だかの山根明が悪い意味での典型的な例として挙げられるだろう。そこにまた彼らに輪をかけたといっても良いだろう間抜けなマスコミが加わっておかしな報道の仕方をするのだから、事態が改善される訳がない。しかもマスコミも協会もあるいは選手たちも何を血迷ったのか、少し英語が解る私には意味不明な「パワー・ハラスメント」(略して「パワハラ」)というカタカナ語を使うのだから、益々救いようがなくなっていくのだ。

今回の宮川さんの件が報じられてから(恐らく我が国の大学の運動部でも最もきつかったと思うところだが)体育会出身者が「パワハラはおかしい。俺に言わせれば理不尽な圧力をかけることだと思う」と言っていた。確かに、栄和人もその範疇に入るだろうし、山根明も同様だろう。私には何でもかんでもカタカナ語にしてしまう意味も目的もが解らないし、大体からして power harassment などと言う英語の表現は存在しないし、そういう犯罪があって警察が取り締まる訳でもないだろう。即刻使用を止めて「理不尽な圧力をかけられた宮川沙江さん」のように具体的に報道すべきだ。

掲題のように「彼女の主張が全面的に正しい」とすれば、塚原夫妻が宮川さんに対して言ったことは不当で理不尽な圧力以外の何物でもないと思う。だが、マスコミが言う「パワハラ」では具体的に何を言いたいのかサッパリ解らない。私は彼らマスメディアは体操界における朝日生命と塚原夫妻の強烈な存在を承知しているからこそ、18歳の少女を擁護する姿勢は示さず、協会と塚原夫妻の代弁者に徹しているのかと読んでいるのだが、如何なものだろう。

私には当然だが、宮川さんをあのコーチから引き離して朝日生命の傘下に入れれば「もっと伸びてオリンピックの代表になれるのか否か」など解る訳がない。だが、どう考えても18歳の将来有望なのだろう少女を慣れ親しんだコーチから引き離すことが理不尽ではないとは思えないのだ。また、宮川沙江さんは暴力を振るわれたのは1年ほど前だったと言っているが、そのことを捉えてそのコーチの登録を抹消することが正常な感覚というか神経の下での判断とは思えない気がする。

私は以前にアメリカのビジネススクールではその教科にMBAと一口に言っても「学校運営のマスター」や「病院経営のマスター」があると指摘したことがあった。私はこの考え方を応用すれば「各種の競技の上部団体の幹部か会長か責任ある役員には何処かのビジネススクールで経営を学んできた経営の専門家を当てて、競技そのものの運営や進行には狭い世界だけで育ってきた非常識な連中にやらせれば良いのでは」と考えている。

最後に矢張り英語の講釈をしておこう。“harass”とはジーニアス英和には「(人)を厄介なこと・心配なので絶えず困らせる、繰り返し悩ます」とある。さらに「敵を(繰り返し)攻撃する」ともある。Oxfordには (often passive) to annoy or worry ~ by putting pressure on them saying or doing things to them とある。これを「誰かが誰かに理不尽な圧力をかける」という犯罪のような意味でカタカナ語にしたのはおかしいと思う。

以前にも述べたが、W社で副社長兼事業本部長たちが集められて sexual harassment の注意があった時には「今日の服装は良いね」とか「今日の貴女は何時もより美しい」とか「今日の化粧では一層映えるね」というような言い方は駄目だと教えられたそうだった。それが我が国に入るや本家本元にはない「パワハラ」だの「マタハラ」などという奇怪なカタカナ語が出来てしまうのが恐ろしいのだ。曲解だ。こういうカタカナ語を産み出すのは何処の不勉強な奴かと何時も不思議に思っている



私の英会話の勉強法

2018-08-29 14:16:40 | コラム
英会話は易しい言葉で出来る:

一口に英会話などと言うが、私にはこれだけでは何のことを言っているのか不明確だと思えてならない。雑談なのか世間話なのか、何か主題(「テーマ」とも言うがこれはドイツ語で、英語を強いてカタカナ書きすれば「スイ―ム」とでもすれば良いかも知れない)が決められていて、その範囲内で語り合うのかすらハッキリしていないと思う。私は要するに何かを知っている限りの言葉を使って自然に話し合うのが会話だと思っている。であるから、如何なる話題が飛び出してくるかなどは事前に分からないのが普通だろう。

しかし、英会話など言えば、何かよほど格好が良い言葉を散りばめて語らねばならないのだと思う人もいるのかも知れない。または、何時如何なる話題になって淀みなく語らねばならないと緊張しておられる方がおられるかも知れない。だが、雑談や世間話ならば中学校(現代では、もしかして小学校のか?)1~2年の教科書に出てくるような易しい言葉(口語的表現か慣用句にもなっているような解りやすい単語)だけで出来るものなのだ。要するに、難しく考えるとか、気取る必要などないということだ。

経験上も思うことは、このような簡単な言葉を使って出来る雑談か世間話または日常会話では「これを使えば何とか話を繋いでいける」というような例文を沢山覚えておくこと辺りから出発したら良いだろうと思っている。その為には支配階層とまでは言わないが、可能ならばまともな教養があるアメリカ人乃至は英語を母国語とする人と会話をする機会を求めることが良いと思っている。それは「なるほど、こういうことを言う時にはこういう風に表現するのか」が学べるからである。

もっと解りやすく言えば「真似しやすい良いお手本になるような英語を話す人と会話をすることが良い勉強になるし、上達への早道になる」という意味なのだ。だが、この方式の難点は「貴方にその外国人が話している英語が果たし程度が高くて真似をする価値があるかないかが容易に判断できないだろう」ということであろう。即ち、無闇矢鱈にnative speakerを有り難がるなということだ。極言すれば「彼らが何処の馬の骨か」を判定できるだけの英語力を備えている人は極めて希だという意味でもある。

強調して置きたいことはそういう優れたお手本から会話を学べる機会などはそう滅多には訪れないと思う。私は嘗て某商社のシアトル支店で最高の使い手という人から聞いた苦労話で「赴任してきた当初に最も苦しんだことは、アメリカ人が余り早く話すので、一つの文章が何処から始まって何処で終わったかというか、何処で切れたのかが全く聞き取れず、何処で相槌を打ったら良いのか、何処で『済みません、もう一度行って下さい』と中断すれば良いかのタイミングが計れず、結局何の話かが掴めないうちに終わってしまったことだった」と聞かされたことがあった。

彼はまた、「アメリカ人と話し合っている時に慣用句のような耳慣れない表現に出会った時に『今何と言われましたか』と尋ねては不躾だろうと思って悩んでいる間に話がドンドン流れていって何の件だったかすらも解らずに終わるのが辛かった」とも述懐していた。こういう話を纏めてみると「学習法としては結局は経験を積んでいくしかないのだが、その間にこれと思う言い方を沢山覚えて表現の小引き出しを増やしていくしかない」というような結論になってしまうのだ。

私はそういう意味では、幸いにもアメリカ人の会社に転じていたので、品格というか教養があると思う同胞が使う表現を覚えて真似する機会があったのだった。詳細に解説すれば長くなるので別の機会に譲るが、一見良いことのようである native speakerに学ぶことの問題点は「彼らは日本人がどういうことで悩むのか、どういうことが解らなくて苦しんでいるのか」などほとんど解っていないので、痒いところにまで手が届くように教えてくれることは出来ないと思っていて誤りではないと思う。故に、私はnative speakerから学ぶことを積極的には勧めないのだ。

それだけではなく、我々我が国の至らざる学校教育の英語で育ってきた者たちにとっては、そのアメリカ人か外国人が話している英語の品位の判定することや、おかしな訛りがあるか否かなどは解る訳がないのである。更に、後難を恐れずに言えば「ましてや、そのアメリカ人か外国人の教養の程度や出自をどうやって判断するのかも問題だろう。いや、一般の方には解る訳がないと言って誤りではない」と断言する。後難を恐れずに言えば、米国の南部やオーストラリアやニュージーランドの訛りなどを聞き分けられる訳がないのだ。

その点では、私は支配階層のアメリカ人の中にあっては外国人(“gaijin”?)だったので、寧ろ気楽に「それって何のこと」と「こういう言い方を聞いたが、これはどういう意味か」などと遠慮なく尋ねることが出来た。いきなり余談かも知れないが、我が国では普通に「もう一度言って下さい」を “I beg your pardon.” と教えているようだが、私は寡聞にして彼らnative speakerたちがこういう表現を使ったのを聞いた記憶がない。私はこの表現は日本語英語(和製語)だと思っている。

「もう一度言って下さい」は仲間内では“What’s that?” と簡単に言うか “Excuse me.” の語尾を上げて言えば十分だ。または“What did you say now?” か“I'm sorry.”の”sorry”にアクセントを置いて語尾を上げるかでも通じる。時には“Say that again?”とズバリと来る場合もあるが、ここでは前に“Could you”と付ければ、より丁寧になる。一寸ひねった言い方では、“Would you please rephrase rain check for me?”のように解説を求める言い方をすることもある。

以上、難しい単語など一つも出てきていない点に注目されたい。ここで更に強調しておきたいことは、こういう文例を黙読するだけでは覚えきれないので、何回も音読して覚えてしまおうとする姿勢が必要なのだという点だ。換言すれば、英語の表現を効率良く覚える為には、読んで目から入れようとせずに耳から入れようとことが肝腎なのだ。これこそが私が主張する音読・暗記・暗唱による学習法である。

1970年代前半に、あるカナダ人の青年とどうしても面談してフランス語と英語の日本語への通訳を依頼せねばならないことがあって、知り合いのカナダ大使館の商務官に彼の連絡先を教えていただきたいと電話でお願いした。その時に電話の向こうで聞こえたのが彼が誰かに向かって言った“Do you know his whereabouts?” だった。「彼の所在を知っているか?」をこう言うのかと知った。

更に “Can you get hold of him?” も聞こえた。「彼に連絡がつくかい」はこのように言えば良いのかと学べた。私はすでに“Can you reach him?”は承知していたが、カナダ大使館との電話連絡のお陰で「どのように知れ連絡するか」の表現の引き出しが一つ増えた次第だった。問題は、こういう場合に「これは使えそうだ」と覚える気があるかないかだと思うのだ。

これらの表現は言わば口語体での会話にはごく普通に出てくるのだが、私の現場での経験では、我が国の学校教育ではここまで踏み込んだ言い方を教えられていないようだと思ったのだ。実は、この種類の表現を覚えていても、現実にはなかなか使える機会は訪れないだろうと思っている。だから敢えて教えないのかとも考えた。だが、現実の会話ではこのような優しい単語を使った口語体や慣用句での表現の洪水である事が多いのだから英会話が大変なのだ。

それも、「何時始まって何処で切れるのかサッパリ解らない早さで話されるので“rain check”のような言葉が出てきたところで集中力が切れてしまうようだ。対策はどうすれば良いのか」と尋ねられれば、結局は「習うよりは馴れろ」しかないのではと、突き放したような言い方になるのだが、悪しからず。だからこそ、私は長年英会話とは「習うより慣れろ」であり「慣れと度胸だ」と言ってきたのだ。