新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

5月31日 その2 5月30日の出来事

2017-05-31 15:58:39 | コラム
スポーツの中継ばかり見ていた:

サッカー:
先ずは、韓国で開催されていたサッカーのU-20のW杯。グループ戦が終わって我が代表は上位16ヵ国に入って、南米の強豪(なのだろう)ベネズエラと対戦。お互いに得点がないままに延長戦に入ったところで見限って、観戦を止めた。無情なことをするじゃないかと非難されそうだが、それ相応な理由があった。

我が方は綺麗なパス回しをするというか、パスの為の綺麗なパスをすることが命とでも思ってサッカーをやっているかの如くに、再三再四攻め込んで「今度こそ」と思わせてくれたが、ある時は巧みにゴールのバーを狙って見事に当てたし、GKと1対1となればGKの真正面を綺麗に捉えるといった具合だった。あれほど好機を逃す試合には勝ち目がないと見切ったのだ。遺憾ながら、私の目は確かで延長戦で敗れた。

彼らは球扱いも巧みだし、パス回しにも優れていて南米代表を翻弄して見せたが、息の根を止める術を知らなかったのは残念でった。やることが全て綺麗事で、必死の形相で迫り来る敵兵を蹴散らしてでもといったような勝負をするサッカーではなかった。昔から同じことを言ってきたが、綺麗なパス回す即ち責任逃れのパスに等しいことが多く、自分でやってやると言う昔風の気迫が見えてこなかった。

現在のサッカーは先頃かの釜本邦茂が指摘したように「自分でキープして抜いていくことを禁じられているかの如く」であり、木村和司が嘆いたように「センターリング(現在のクロスパス)を受けるべきプレーヤーが上がり過ぎ(昔は詰め過ぎと言った)で、相手の守備陣と並んでしまうので、競り合いに勝てない」のである。

それだけではなく、バックス間の横パス交換が多過ぎるし、昔の言葉で言う「バックパス」ばかりで、私のような古い世代には積極性の欠如に見える。負けるべき相手ではなかったようでもあるが、矢張り負けた方が弱いのだ。あれは内山と言ったか、監督さんの責任ではないと思う。子供の頃に何を教えられたかの問題だろう。

テニス:
錦織圭のテニスも中継されていたとは知らなかったが、見てしまった。彼があそこまでやったのはただひたすら偉いと思うし、賞賛したい。だが、もうそろそろあの体格と連戦では継続疲労が貯まっているのではないかと危惧する。彼のテニスは何も知らない私が見ても変化が多く巧妙であり、相手の心理の表と裏を巧みに突いている。詰まるところ、彼の力と技と体格で何処まで、何時までやっていけるかの問題かと思う。

プロ野球:
次は巨人が見るも無惨に惨めな負け方をした交流戦で、相手は絶好調の楽天。巨人があのように負けたのはただ単に好不調の問題だけではないのは既に指摘した。昨夜は頼みの綱の菅野が良くなかった。何分にも解説が巨人出身の鈴木尚広だったので煮え切らないことしか言っていなかったが、投球がコントロール良く?高目に集まり過ぎていたと見ていた。あれは捕手の小林にも責任があると思う。

それにしても楽天は良く当たっている。特に感心したのが桐蔭学園→早稲田大学という一番打者の茂木。「早稲田の野球の疑問点は、投手も野手も小さく纏めてしまう嫌いがあるというところにあるのだ」というのが私の持論。論より証拠に早稲田出身の大投手は少ないし(直ちに思いつかない)打者も少ない。MLBに行った青木がいるじゃないかなどと言うなかれ。彼が松井秀喜のような大型打者か?一様に言うなればバットを短く以て前でチョコンと当てるような感覚で打っている。

ところが茂木は違っていた。菅野を恐れることなく打って出たし、2本目のライト前のヒットなどは思わず「凄い」と叫んだほどの強振だった。早速、英語の講釈だが「強振」を”hit the ball hard”と言っている。それはそれは凄い”hard”な振りだった。楽天がこのまま勝ち続けるか否かなどは知らぬが、巨人が立ち直る確率よりは高いだろう。それにしても、巨人は阿部慎之助以来捕手に恵まれないのではないか。

BSフジ:
最後はスポーツを離れてPrime News。演題は「ロシア疑惑。トランプ政権の命運はロシア仕掛ける情報戦」で、それなりに聞き物だった。そこに出ていた上智大学教授・前島和洋氏はトランプ大統領の外交面でもやり方を論じて「彼は素人だからあのようにやれるのだ」と言い切ったのが面白かった。トランプ大統領をあのような場で批判する人は他にもいるが、あそこまで軽く言い切ったのは凄いと思った次第。Wikipediaには上智大学の外国語学部の出身とあった。

ところが今朝になって産経新聞を読むと「正論」の講演会で元ウクライナ大使の馬淵睦夫氏は現在の政治を論じて「トランプ大統領は世界の政治を改革しようとされている、政治史にとっては革命的な存在」と語られたとあった。これは出来事ではないか。同じ一人の人物であるトランプ大統領は見る人によってこれほどの違いがあるのだと、あらためて認識させられた。

番組の内容では「世界のGDPの7%に過ぎないロシアがこれほど世界をかき回すとは。だが何時かは疲れてしまうのでは」と黒井氏が指摘したのも興味深いことだった。


カタカナ語を考えると

2017-05-31 08:29:36 | コラム
「カタカナ語排斥論者の弁」の補足

30日にあらためて一種の日本の文化でもあるカタカナ語を論じたが、そこに私が2008年に独自に創り出した分類だけを記載しておいたので、それだけでは不十分だろうから、ここに和製英語=造語」、「ローマ字式発音または恣意的な読み方による」、「言葉の誤用か借用」、「合成語」の各項目の例を新旧取り混ぜて幾つか採り上げて行こうと思う。

和製英語=造語:
書き出しは「素晴らしい造語もあるが中には何と不可思議且つとても面白いというか興味深い言葉もあり、それらを発見するのは楽しみである」となっていた。当初掲げたものは「フリーサイズ」で、これは英語にすれば“one size fits all”なのだった。”free”で先ず思い浮かぶのは「自由」であるから「自由なサイズ」という発想があったのだろう。この単語には他には「~から解放される」であるとか”admission free”のように入場無料の意味にも使われる。

次には「フリーライター」を挙げていたが、これは”freelance”の「ランス」を省いてしまったのだろう。これと同類の発想に「誰々がフリーのアナウンサーになった」というような所属していたテレビ局を離れて独立した際に使われている。思うに「自由に活動できるようになった」と表現したいのだろうが、英語ではないのだ。

「タッグ」を追加しておこう。現在頻繁に使われるのは「誰々とタッグを組んで」のような表現である。これは恐らく、私には何時頃流行ったかの記憶すらないがプロレスリングに「タッグ・レスリング」という形式が導入されたことがあった。ご記憶の方は多いと思うが2名が組んで戦い、選手交代をする時に相棒の手に触れる、即ち”tag”だから”tag wrestling”と呼ばれた。

注意すべきは「タッチ」(=touch)ではないことだ。要するに手を触れあった戦うテイ―ムを構成しているレスリングなのである。それが、如何なることか「タッグ」だけが独り歩きをしてしまったのだ。正しくは「タッグ・テイ―ムを組む」と言うべきなのだ。余談だが、我が国では野球で「ランナーにタッチした」という表現が公式的?だが、あれは英語では”tag”即ち「付ける」という意味なのである。

その他の新しい例に「コラボ」(=collaboration)なども挙げて解説しておきたいが、既に批判してあったのでここでは省略する。

ローマ字式発音または恣意的な読み方:
「これらは日本訛りの英語の発音の変形であるとも考えている」と最初に解説していた。簡単な例を挙げればQueen’s Englishでは”o”を「オ」と発音するし、ローマ字でもそれ以外の読み方がない。だが、アメリカ語では「ア」に近い音になるし、「オウ」もある。また”a”を素直に「ア」とする例の方が少ないと言って誤りではないほど「エイ」が多いのも英語の不規則性だと思う。

それにも拘わらず、私が最も忌み嫌う「セキュリティー」から。”secure”という動詞は如何なる辞書を見ても発音記号は「シキュアー」というカタカナ表記になるようになっている。しかし、誰が作ったか知らないカタカナ語では「セキュリティー」になってしまった。しかし、これは「シキュアラテイ―」という発音記号しか見当たらないし、これが正しい発音なのだ。思うに、この言葉を作り上げた大家は「日本人の発音ではこなせない」と配慮して、こんな無様なカタカナ語にしたのだろう。

他には「ルーキー」(=rookie or rooky )、パトリオット(=patriot)、人名で「ゲーリー」(=Gary)、「シンポジューム」(=symposium)等を挙げておきたい。出来る限り原語に近いカタカナ表記を試みれば最初から「ルキーまたはルッキー」、「ペイトウリアットウ」、「ゲアリー」と「シンポウジアム」となるだろうか。

言葉の誤用と借用:
この分類に入る言葉が最も厄介だろうと思う。何故かと言えば、造語的な要素も入ってくるからだと思う。2008年には「リニュウアルオープン」(=renewal open?)を最初に挙げていた。「新装開店」を意味するようだ。これなどは完全に戸籍を得た造語だと思う。誤用は「リニュウアル」で”renew”には「新装」の意味はなく精々「古いものか故障したものを取り替える」と言うことだ。

「何だ、それで良いじゃないか」と言われそうだが、英語では”renovate”か”refurbish”が適切だと思う。また、openだけでは文法的に誤りで”opening”とすべきだ。

「バトンタッチ」も不味いだろう。タッチしただけでは手渡していない。最近これを正解に近い「バトンパス」と呼ぶ人が出てきた。私は正確には”baton passing”だと聞かされてきた。ここでも”ing”を付けて名詞化する作業が省かれている。また、「タッチ」にも”tag”との混同が見える。テレビで屡々解説者が言う「キャプテンシー」も誤用だ。Captaincyは「主将の地位」を示しているので、正確には”captainship”なのだ。

他には「スリッピー」(=slippy)は”slippery”の誤りだし、「リピーター」などという箸にも棒にもかからない物がある。これには「再度訪れるお客」などという意味はない。そう言いたければ”regular customer”という英語があるが、一寸意味が違う気もする。試しに”repeater”を辞書で引いてみれば良い。これなどは典型的な日本語であり、間違っても「英会話」の中で使わないことだ。

合成語:
カタカナ語と漢字の熟語を組み合わせたものが多い。私が嫌うものに「自己ベスト」がある。普通に「自己最高記録」といえば済むものを”good”という形容詞の最上級を名詞扱いしている。ジーニアス英和には最後の方に「略式として複合語で、最も、一番」出ている。どうしても、英語にもなりそうなカタカナ語にしたければ「パーソナル・レコード」とでもすれば良かった。

他には「スチール写真」(=still picture)、「電子レンジ」(=microwave oven)もあれば、「アドバイスする」、「スタートさせる」、「オープンさせる」などというように英語の動詞の後に「する」を付けた合成語もある。

ここに取り上げた例はほんの一部だが、私が言わんとするところの感触を掴んで頂ければ幸甚である。

5月30日 その2 息を吹き返したか新宿Koreatown

2017-05-30 16:07:15 | コラム
活気を取り戻した?Koreatown:

本30日は国際医療研究センター病院の帰りに、買い物もあって暫くぶりに昼前に最も繁盛し始めたと聞く往年のKoreatownの一部であった職安通りに向かった。丁度、昼飯時になったので入った「すし三昧」の支店では、レジの日本人の若い女性が「日本語で用が足りるお客様でホッとしました」と。確かに中にいたのは中国人と韓国人ばかりだった。彼らは何で回転寿司でもない店に入る余裕があるのかと家内と訝ったものだった。

帰り道には職安通りと大久保通りを結ぶ韓国系の化粧品店、食堂、洋品店が無数にある路地を歩いた。より具体的に言えば、ドンキホーテがある角を曲がった路地だ。そこには数多くの思想・信条などとは全く無縁なのだろうと思う日本の若き女性が韓国産化粧品店に群がってのお買い物と、サムギョプサル等の食事を楽しんでいた。中には一寸斬新なデザインのリュックサックを数多く展示した店があり、価格は¥2,980均一と魅力的?な値段。家内と「まるでソウルの南大門か梨泰院にでも来たようだ」と語り合っていたほど。

また、職安通りの、何処かのテレビ局だったか週刊誌が取り上げた胡散臭い健康食品を売る中国系?土産物店(3階が食堂)の前には、中国人の団体を乗せたバスが3台、珍しくも韓国人のバスが1台停まっていて相変わらずの大繁盛。どうやら、Koreatownは2年ほど前の低迷期を脱して、以前とは変わった形で息を吹き返した模様だ。兎に角、この一帯も大久保通りと同様に、またもや我々日本人が少数民族になっていた。

この界隈が何故あれほど中国や韓国の連中に人気があるのか、何故違法だと疑われるようなな品物を売る店が看過されているのかは、私には解る訳もないが、職安通りは異様な活気に溢れていた。だが、私は我が国は外国人を歓迎し過ぎるというか、彼らに対して甘過ぎるのではないかと思っている。都バスでも何でも乗ってごらん。社内の行き先掲示のデイスプレーには日本語、ローマ字、中国の簡易式漢字とハングルが出てくる。

これほど親切な国は世界中の何処に行ってもないと思う。そのうちに、ベトナムやイスラム教圏の諸国から「我々にも読める字で」という注文が付くかも知れない。尤も、彼らはそれを必要としないように日本語学校を繁盛させているのかも知れない。落ち着いて見直せば、我が家から600 mほどの新大久保の駅までの間に日本語学校が5校もあった。中でも傑作なのは「行知」と書いて”Coach”という学校名があることだ。


あらためてカタカナ語排斥論者は言う

2017-05-30 14:29:23 | コラム
カタカナ語をどうお使いになろうと私の関知するところではない:

私が「カタカナ語」の排斥論を展開するようになったのは1990年の春頃からだった。当時は紙パルプ産業界の専門誌に連載の機会を与えられていたエッセーの中で唱えだしたので、言わば単発だった。しかし、時が経つにつれて本格的に論じるようになり、1995年辺りから色々と反論や批判するご意見も頂戴するようになってきた。有り難いことだたと感謝申し上げている。

カタカナ語と一口に言っても、その種類は私が分類したように数多くあるのだ。ざっと並べてみれば「和製英語=造語」、「ローマ字式発音または恣意的な読み方による」、「言葉の誤用か借用」、「合成語」等々である。これらは何度も取り上げたので、読まれた方もおられると思っている。最終的には約200語で、A4版で17ページほどになっていただろうか。

私はこのようにカタカナ語を批判して排斥してきた。だが、当初から「既に日本語として戸籍を取っていたり、住民登録も済んでいる言葉は数多くあるので、それらをお使いになることを妨げる気など毛頭ない。但し、カタカナ語の99%は元の英語あるいは真似た英語とは異なる言葉であるから、間違っても英語だなどと思って『英会話』の中などにお使いにならないように」と言ってきた。だが、その批判と非難の仕方が厳しかった為か、全否定しているかの如くに受け止めておられる方がおられるのも間違いない。

付け加えておけば、私は日本人間の会話に英語の単語を英語の通りに発音して使うことは批判したり排斥してきた。どうしても使わねばならない時は、チャンとした?カタカナ語の発音にしている。だが、文章の中では極力カタカナ語の使用を避けて言うし、同じ意味の感じの熟語なり何なりを使っている。または最も忌み嫌っているsecurityやmajorなどは、英語の単語野間まで使うこともある。

但し、新たに現れた言葉のような場合には、遠慮会釈なく何処かの通信社を槍玉に挙げて批判してきた。最近では誰がどう読んでも「コウミー」か最悪でも「コーミー」としかなり得ない”Comey”(前FBI長官の名字)という人名を「コミー」としたのは罵った。プレミアム・フライデーも批判した「作者は英和辞書も持ち合わせもないのか」と言って。

私がカタカナ語を批判する理由の一つには「小学校3年から英語を教えて将来の国際人を養成する」などと戯けたことを言うのならば、先ずはカタカナ語の整理を考えるべきだという点がある。それは「我が国の英語教育が如何に至らないかを物語るような奇妙なカタカナ語が街に溢れていること」も非難しているのだ。

例えば「リニュウアルオープン」だの「グランドオープン」などが示すように「どのように英文法を教えれば、こんなカタカナ語が作れるのか」なのだ。カタカナ語ではないが「本日閉店」を”close”とした札を下げている店が多過ぎるとは思わないか。「学校は何を教えているのか」ではないか。

カタカナ語に内在されたもう一つの問題点は「英語の文法には日本語のそれにはない単数と複数の観念や、未来形・現在形・過去形があるにも拘わらず、カタカナ語化する過程で全ての”s”や過去形等を放棄してしまったことだ。私は何度か「アメリカやUKでは、英文法を誤ることは一定以上の階層では無知か無教養と見做して相手にしないという厳しさがある」と説いてきた。だが、カタカナ語の創造者はその点の知識が皆無だったのは遺憾である。

これ以上論じたらキリがないのでこの辺りに止めるが、英語とは我が国とは文化も思考体系も異なる国の言葉である以上、我々が慣れ親しんでいる日本語の感覚で処理するのは誠に適切ではないのだと、改めて強調しておきたい。更に重ねて言えば「カタカナ語を如何に恣意的に使われようと私が関知したことではないのであり、貴方がお使いの言葉は日本語であって英語ではない」なのである。


マスコミ論

2017-05-29 14:42:52 | コラム
「真実は一つ」は本当なのか:

私はこのマスコミが好んで使う表現に疑問を感じている。私の見方は「出来事と言うか、そこで起きたことは一つであり、それを現場で見るか聞いたかした報じる者乃至は報じる側の立ち位置、思想・信条、哲学、人生観、先入観、好み、知能または頭脳の違いで、同じ出来事乃至は現象を報じても、色々と異なってくるものだ」と思っている。例えば、慰安婦問題でも、朝日新聞や吉田清治が伝えるとあのようなものになって、我が国にとって重大な禍根を残すことになってしまうのだ。

もっと最近の例にトランプ大統領を挙げてみたい。この人物は共和党の候補に選ばれてキャンペーンを展開し始めてからは、これまでのどの大統領候補者とも異なる誠に異色な人物として報道された来た。また、就任した後でもその新大統領が打ち出す政策や振る舞いには如何にキャンペーン中の公約を実行しようという意図であっても、誠に型破りで、斬新で、時には乱暴であり、常識的とは思えないような強烈な個性に満ち溢れていた。

私はこのドナルド・トランプなる人物を当初から「無知としか思えない要素が多すぎるが、あるいは何もかも承知の上で政策を打ち出しているのか極めて判断しにくい。だが、もしかして、あれで本当にアメリカの政治・経済・外交、防衛、軍事等々に精通していたとしたら怖い」と思って眺めてきた。そして、自分の意見としては彼は「無知は力なり」を身を以て示していると主張してきた。事実、そのように批判し続けてきた。

だがしかし、私とは上述のような立ち位置や思想・信条等が異なる方の中には「トランプ大統領はアメリカの政治に新たなパラダイムを持ち込んでいる強力なな人物で、今や世界を変えようと試みておられ、何れは彼が目指す方向に変わっていくのだ」と強硬に主張する方もおられる。そうなるのに何ら不思議はないのだと私は考えて既に指摘してある。

ここで言うべきことは「ドナルド・トランプなる人物は一人しかいないし、その打ち出す政策も一つの現象というか出来事に過ぎないのだ。だが、見方が変われば、全く別種のことのように報じられるし、全く異なる肯定的か否定的な見解となって現れるのだ。いや、もっともっと多種多様な見方や支持か不支持の理由も根拠もあるだろう。

だが、何処まで行ってもドナルド・トランプは一人しかいないのだ。どの報道か誰の意見を採るかも、受ける側の立ち位置、思想・信条等で異なってくると思う。簡単に言えば「朝日新聞を購読するか産経新聞を読むかの違い」のようなものだ。

話は少し趣が変わるが、私が属する世代では製造業こそが世の中の中心にあり、世界の産業界の方向を定めていると信じていたと言うか、そう信じていて誤りではないと思っていたものだった。それを英語にすれば”We are making the things happening.”であって、流通業界でもマスメディアでもないという信念を表しているのだ。まして、マスコミは我々が想像している世界を読者や視聴者に伝える役目を果たしてくれている存在だというような考え方があったと言えるだろう。極言すれば、製造業が主で、メディアは従だとでも言える自負があったと言えば叱られるかも。

そこでトランプ大統領論に少し戻れば、彼が長年盛名をほしいままにしてきた不動産業界は”They are not making the things happening.”であると言えば角が立つか。その業界から出てこられたドナルド・トランプ氏は今や全世界で”He is going to make the things happening.”の大役を担っている地位に就いたのであり、既に大小取り混ぜたthingsを巻き起こしておられる、良いか悪いかは別な議論かも知れないが。

最後は矢張り英語の講釈で締めよう。この”We are making the things happening.”のような英文を訳そうとするような試みが、我が国の英語教育の欠陥の一つだ。10回でも20回でも意味が汲み取れるまで読んで「こういう時はこういう言い方をするのか」と覚えて貰いたい。

どうしても訳したとされる方には、ヒントとして「世の中ってのはこういうものだ」を最もこれに近い「ニュアンス」(=フランス語で、意味は色、音、調子、意味、感情などの微細な差異と広辞苑にある)の英文にすれば、”This (またはThat)is the way things happen.”があるとお知らせしておく。”thing”と”happen”の使い方次第で、簡単な言葉で難しそうなことが言えるとご理解願いたい。これが英語の難しさと嫌らしさだ。