新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

デイビッド・アトキンソン氏(David Atkinson)

2020-09-30 12:20:50 | コラム
デイビッド・アトキンソン氏は菅首相のブレインであるとか:

何処かのテレビ局でアトキンソン氏をこのように報じていたのに興味を惹かれた。アトキンソン氏はこの半年ほど頻繁にテレビに登場されるし、President誌上でも独得の意見というか所信を発表しておられた。その他でも週刊新潮ではかの佐藤優との長編の対談でも、ほぼ変わらぬ独得の所信を語っておられた。

私が後難を恐れずに言えば「アトキンソン氏は我が国のマスメディアが歓迎し尊重する、我が国に対して忌憚のない批判なり意見なりを遠慮会釈なく公表する外国人の1人であり、特にその上手だと礼賛する以外ない日本語の能力が、一層その存在を輝かしきものにしている」のである。私は初めてアトキンソン氏がテレビに登場した時には「何故、我が国の外国語教育では、この次元までに達するように外国語を教えられないのか」と、寧ろ慨嘆させられたのだった。彼のように立派に日本語を操る外国人が多いのは、本当に情けないことだと思うだけだ。

聞けばオックスフォード大学での専攻は「日本学」であって、経済学ではなかったようでありながら、1990年に日本に来られたからはゴールドマンサックスなどでアナリストとして活躍され、現在は小西美術工藝社の社長を務めておられるそうだ。

アトキンソン氏の主張は徹底していて、その要点を簡単に(乱暴に?)纏めてみれば「日本の生産性が世界的に見て低水準にあるのは、およそ日本には3万6~8千もの会社があるが、そのうちの90%以上が従業員3~20人程度の中小企業である。日本の生産性が世界的に見て低水準にあるのはその中小企業の為である。その中小企業を政府が法律的に保護してしまった。この点を改善する為には中小企業を整理統合する必要がある」なのである。この他にも彼は「最低賃金の引き上げ」も強力に主張している。

その主張というか意見の正当性は兎も角、あれほど明確に数字を挙げて、見事な日本語で所信を披瀝されると相当以上の迫力が出てくる。黙って聞いていれば「なるほど、それでは我が国は速やかに中小企業を整理統合して労働生産性を高めていかないことには・・・」と考え込まされてしまう。何しろ、アトキンソン氏は「3名やそこらの従業員では現状維持が精一杯で、技術革新にまでは手が回らず、新規投資も覚束ないので成長性も乏しい」と手厳しいのだ。

最低賃金の引き上げと聞い、て誰しもが思い浮かぶだろうことは「韓国の文在寅大統領の一気呵成の16%引き上げによる大失態」である。引き上げが不要とは言えないが、慎重に事を運ぶ必要があるくらいは私にも解る。それにも増して難事業なのは中小企業の整理と統合である。優れたアイデアであるとは思う。だが、現実を見れば、それぞれが少人数であっても永年の鍛え上げられた余人を以て代え難い独得の技術を有し、言わば大企業には真似が出来ない高度な製品を作り続けてきた。その職人さんたちをどうやって整理・統合せよというのかなと思って聞いていた。

その時にふと考えたことは「都内の何処でも良いから一つの行政区画というか区の中の各種の中小企業を束ねる『○○区中小企業ホールデイングス会社』を区役所が株主となって設立し、無数の独立した中小企業をその下にぶら下げる」という方式だった。R&Dのような組織は各社の社長さんたちが兼務し、月に何度か会合を開いて、意見交換をすれば良いのではないかなどと空想した。総務や経理には区役所から専門家出向すれば済むことだ。そしてその者たちが銀行や信金等の機関と融資等々の相談を担当すれば何とかなるだろう。

上記が暴論であるとは百も承知だ。私が何故そんなことを言うのかと言えば、アトキンソン氏の主張というか批判には尤もな点が多々あると思う。だが、これまでに聞いた限りでは「外国人の目から見た、良くある我が国への傾聴すべき批判の部類であっても、具体的に如何なる手を打てば現状を打開して、生産性を高められるかの指摘がないのだ。ただ単に中小企業の数を減らせだけでは、減らされた企業から職を失うだろう者が出てくるので、その救済策まで考えてきてくれないことには、単なる批判だけに終わるのではないだろうか。

現在の大企業対下請けの世界は私が昭和30年に社会に出た頃から存在していて、当時は「二重構造」などと呼ばれていた。私が若い頃に担当した分野には印刷業界があって、大印刷会社は自社の工場の規模でも賄いきれないほどの受注をして、それを傘下に組織した中小の印刷屋さんに任せていた。中には親会社よりの遙かに優れた技術を持つ下請けがあって、難しいというか高度の美術印刷のようなものを専門にする、得意先を持たない下請け賎業の業者まであった。要するに得意先は親会社だけという意味だ。

このような印刷業界が今日どのような構造に変化したかなどは、私が知るところではない。言いたいことは「各産業別にこのような親対子の組織が出来上がっているだろう我が国の産業界の形態をアトキンソン氏は何処まで把握しておられりのかなと言う疑問を感じたのだ。その組織というのか形態を誰がどうやって変更して整理・統合すれば、我が国の生産性が著しく飛躍できるのかなと、私は考え込まされた。世はICT化とデイジタル化がこれでもかと言うほど進んでしまった。そこに腕一本で稼いできた中小企業をどうやって組み込ませるというのかとの疑問でもある。

私は何もアトキンソン氏の主張を否定しようというのではない。尤もな点が多々あると認めた。だが、問題は本当に菅総理がアトキンソン氏をブレインとして活用されていくお考えがあるのだったら、余程慎重に中小企業の在り方とその改革に手を付けて行かれる必要があるかと思うのだ。その為には先ず、下請けの組織として使っている大企業にも意識改革が必要になるのではないだろうか。私の短い経験の範囲内では、アメリカには我が国のような組織化された下請けの中小企業は存在していなかった。第一、彼等は自社で販売し、代理店等の販社には依存しない仕組みになっていた。


9月29日 その4 First name firstの世界を知ろう

2020-09-29 14:56:05 | コラム
「英語の教え方・学び方 #3」の補足である:

ここで敢えて追加で指摘して置くことは「アメリカ・ヨーロッパの諸国では、先ずファーストネームで呼び合うのがごく当たり前の文化である」という点だ。件名は敢えて英語にしたのはその点を強調したいからだった。私が不満であり極めて遺憾に感じていることは「テレビではアナウンサーたちが何の配慮も疑問にも思わずに原稿にあるままか、あるいはアメリカ・ヨーロッパの諸国ではファーストネームで呼び合うと知らないのか、初めて出てきた例えばジョン・ヘンリーのような氏名にに出会うと、躊躇せずに2回目から『ジョンさん』と言ってしまう点」なのだ。

先ほども例に挙げたが、この世には「マイケルさん」は数限りなくいるのだから、どのマイケルさんかを明らかにする為には「マイケル・ジョーダンさん」とか「マイケル・ジャクソンさん」と言うべきなのだ。ここで既に余談に行くが、長くアメリカに住んでおられる方とこのファーストネーム談義をした事があった。当然ながらマイケル・ジョーダンの例が出た。すると、その方は「誤りはそれだけではない。彼は『マイクル・ジョーダン』とするのが正しい」と指摘された。誠にご尤もで、正確には「マイクル」であるべきだった。

私は我が国の英語教育が徹底できていないので、未だにアメリカ・ヨーロッパの諸国では「ファーストネーム・ファースト」の文化である点が行き届いていないので、マスコミは何かと言えば「ロン・ヤスの親しい間柄」だの「シンゾー・ドナルドと呼び合う親密な間柄を確立された世界で唯一の総理大臣」などと、私に言わせればトンチンカンなことを、恥ずかしくもなく報じているのだ。勿論、初対面でいきなりファーストで呼びかけることは希にはあるかも知れない。

普通にはと言うか、私が常識だと思って実行していたことは「先ず名刺交換から入れば、その氏名を一度音読してから“これで正しいのでしょうか”と確認し、更に“May I call you John or Mr. Henry?”かと確認するようにしていた。相手がJohnではなくニックネームのJackを使っている場合には、そう言ってくれるので、初対面でも二言目にはファーストネームに移行できる。私の場合はMasaakiが名前であるが、数名の方に何度か薦められたMikeを採らずに、Masをニックネームにしていたので、“Please call me Mas, if you want.”のように名乗っていた。

零れ話の部類になるが、最初に転進したMeadのパルプの社長(他社ではVice president and general managerに当たる)は初対面の時に何度も私の名刺に目を落としては“Masaaki”と呼びかけていた。決して名字の方を呼ばなかった。22年以上ものアメリカ会社暮らしで、上からも同僚からも、工場の組合員たちからもMas以外で呼びかけられたことはなかった。これは決して組合員たちと親密だったからではない。工場では誰もが当たり前のようにファーストネームで呼び合っていたのを、組合員たちも真似だだけのこと。

我が国の文化が「年功序列と地位によって敬称を付けるるか、当世風に言う『ため口』にするか、『さん』をつけるか、『君』にするかには十分な配慮と注意が必要」なのである。その美風をアメリカ人を相手にした時にも当て嵌めようとされるのが我が国の奥ゆかしさである。だが、彼等は折角Mr.を付けて敬意を表しても、他人行儀で堅苦しいと解釈してしまうのだ。テレビで「マイケルさん」だの「ポールさん」と言っているのは未だ良いが、外国人と面と向かった場合には上記にように「何とお呼びすれば良いのですか」と問いかけて、親しい間柄を構築すれば良いのだと思う。


9月29日 その3 *COVID-19の恐怖

2020-09-29 13:51:29 | コラム
小池都知事が亡くなったのは基礎疾患をお持ちの70と90歳台の高齢者と:

心不全(7月の検査ではBNPが170台)の基礎疾患を持つ当方には、感染者が減少傾向にあると言われても新型コロナウイルスは恐怖である事は変わらない。そこに、この見出しにした小池都知事の言わずもがなの発言である。敢えて言いたいことを言えば「そんなことくらい言われる前から十二分の承知して、ストーイックな生活態度を維持している」なのだ。

とは言え、昨日から都立の広尾病院他で集団感染が発生したと、テレビでは執拗に繰り返して報道している。病院での発生は外来でではなく、入院患者を収容している病棟でのはずある。それと解っておられる方は多いと思うが、あそこまでやられては、大病院に行くのは危険だと思ってしまう方が多いのも不思議ではないが、それは誤解・誤認識だと思う。

私はそう信じているからという訳でもないが、25日(金)には国立国際医療研究センター(NCGM)に朝は9時27分から12時5分過ぎまで滞在していた。以前にも採り上げたが、玄関ではサーモグラフィで体温が測定されてから入館できる。例の37.5度云々というあれである。血液検査室では1人の採決が終わると、係の方が飛んで来られて先ず採血のカウンターをアルコール消毒し、患者用の椅子を隅から隅まで消毒し終えてから、次の患者が着席する手順になっている。そこまで気を遣っておられるのだ。

また、病院の至る所に手指の消毒のスタンドが設置されている。如何なる待合室でも咳をする人などの出会わなかった。院内の清掃も行き届いている。勿論、NCGMでは全てのカウンターではアクリル板を挟んでの対話となる。私はここまでのことは個人の開業の医院やクリニックではとても手が回らないと思う。それでも、NCGMでは以前には考えられないほど空いている。採血室では順番の札を貰うと、既にその後の番号が呼び込まれている。会計でも待ち時間なしに自動支払機に行けるのは、過去10数年間に経験したことがなかった。

これでも、人々は大病院を敬遠するのだろうか。昨日、珍しく掛かりつけのクリニックに午後2時半に到着すると、「新型コロナウイルスの感染が終わらない以上、午後からの診察は混み合わないように予約制にするので、宜しくご理解を」となっていた。感染の危険への恐怖感は未だ一掃されていないのだと感じさせられた次第。


9月29日 その2 共同通信社の柿崎明二氏

2020-09-29 13:10:53 | コラム
柿崎明二氏が菅総理補佐官に:

私はこの報道には少し驚きましたが、同時に菅総理の交際範囲というか、交流してこられた人脈には端倪すべからざるものがあるかとも感じました。

しかしながら、柿崎氏は共同通信社に転じられる前には、毎日新聞の記者だったという経歴。私は共同という組織はかなり左側通行だと認識しています。しかも柿崎氏の前身が毎日新聞の記者というのも気になります。早稲田大学第一文学部出身と断ってあるのも、学歴を少し気にしておられるのかとも。

英語の教え方・学び方 #3

2020-09-29 09:34:47 | コラム
英語教育では「彼我の文化の違い」を説き聞かせるべきでは:

私が1990年に本社の事業部で副社長に願い出て、本部で工場の幹部も集めて貰って「我が国とアメリカの文化比較論」(題名は“America Insight”で、副題が“The Cultural differences Existing between Japan and the United States of America”だった)の約90分のプリゼンテーションを行った。その時に、導入部は“Reversed culture”、即ち、「逆さの文化」だった。ここから入って行った趣旨は「この程度の違いを知らずして、両国間の違いを語れない」にあった。その時に掲げた項目を幾つか引用してみよう。

因みに、嘗ての本部の営業担当マネージャーで、リタイア後に大学院大学の教授に就任したノースウエスタン大学のMBAの学者肌の人物は「自分の足下が見えていない者には、他国との文化の違いは見えてこない」と喝破していた。

名前:日本式→名字(family name)が先、アメリカ式→名前(first name)が先で、例を挙げればDonald Trumpのようになる。Donaldは名前であり名字ではない。

住所:日本式→広い方から入る、即ち、東京都千代田区有楽町1-1-1、アメリカ式→国名が一番後で、例を挙げれば Seattle, Washington, 98377, USAのようになる。

交通:日本式→左側通行(自動車は右ハンドル)、アメリカ式→右側通行(自動車は左ハンドル)、

語順:日本式→主語―目的語―動詞、アメリカ式→主語ー動詞―目的語(英語では「ヒーロー・インタビュー」のような語順にはならない)

手招:日本式→掌を下にして、アメリカ式→掌を上に向けて、

仕事か家庭か:日本式→仕事、アメリカ式→家庭、(あれから30年を経て、我が国でも変わってきたと言えそうだが)

鋸:日本式→手前に引いて切る、アメリカ式→向こう側に押す、

女性:日本式→???、アメリカ式→Ladies firstだそうだが・・・、

上記以外に未だ未だ多数あるが、これくらいで十分だと思う。私はこれらの相違点の中で未だに我が国の中、特にテレビ等のマスメディアの中で最も混乱しているというのか、相互の違いを把握し切れていないし、混乱しているのが名前の表記であるのが非常に遺憾である。何もアメリカだけではなくヨーロッパでも名前(first name)から先に書くのが普通である。中国でも韓国でも日本式の表示になっている。故に近平主席とは言わないようだし、在寅大統領も聞いたことがない。

このようなことから説き始めて彼我の文化の違いを論じたのだが、私の持論であると同時に永年の主張である点は「このような文化違いを弁えずに、迂闊に外国語で会話や仕事上の交渉などをすると、思わぬところで相互に『無意識の非礼』を犯して、予期せぬ齟齬を来す危険性がある」ということだ。簡単な例を挙げれば、英語の世界では個人的なこと(誤った使い方をされているカタカナ語にすれば「プライベート」)は質問しない不文律のようなものがあると理解して注意してきた。

それは、出会った人に向かって“Where are you going?”(何処に行くのですか)などは言うなれば「余計なお世話」(“None of your business.”とでも言うか)であって失礼なことになる。だが、英会話のテキストなどにはごく当たり前のように出てくる。最悪と教えられていたのが“Are you married?”(結婚していますか)だった。即ち、問いかけた相手が離婚したばかりだったとしたら、かなり非礼になるそうだ。どうしても尋ねたければ“Do you have a family?”(家族をお持ちですか)になるそうだ。

ここに、あの30年前のプリゼンテーション(ジャストシステムではどうしても「プレゼンテーション」とさせたいようだが、英語の発音は「プリーゼンテイション」が最も近い)の全容を再現するのが本稿の主旨ではない。だが、学校教育では何処かの時点で我が国とアメリカやヨーロッパの諸国の間には、文化と思考体系の相違点があることを教えておくべきだと信じている。そこを弁えずして他国を訪れるから、政治・外交・経済の交渉をするのは危険な点があると言うのだ。

そこで、氏名の順序の違いを知らなかった為に起きた悲喜劇の例を挙げておこう。

最早40年ほど昔のことになっただろうか、当時のW社の工場の技術サービスマネージャー(仮にJohn Henryとしておこう)の名詞には当然のことで表面にはJohn Henryとして、裏面には「ジョン ヘンリー」とカタカナ表記して、肩書きを技術サービス部長と表記した。何の問題もあるはずもないごく当たり前の名詞だった。

そして、多くの得意先では「技術サービス部長のヘンリーです」と紹介していたようだった。と言うのは、私が転入する前からヘンリーさんは日本市場の担当だったから。時には "Mr. Henry"と呼びかけられたこともあったようだ。これは我が国の文化に起因する配慮で、外国人の部長さんに対して敬意を表していたのでMr.を付けたのだろう。しかし、ミスター・ヘンリーは「日本のお客様は何時まで経っても、お互いにこれほど打ち解けてきたのに、私を仲間と見なさず他人行儀で敬称を付けてしか呼んでくれない」と心中密かに嘆いていたのだそうだ。

所が、私が担当するようになってからのことで、ある地方の工場を訪問した際に、新任の課長さんが名刺交換の後に裏をマジマジと見て、おもむろに「ジョンさん」と呼びかけのだった。その瞬間にジョンさんの目が輝き、如何にも嬉しそうな表情に変わった。そして技術サービスの巡回訪問が終わった帰りの車の中で「今日の訪問は非常に心地良いものだった。何と言ってもあの新任の課長は私に親近感を見せてファーストネームで呼びかけてくれた。これで長年の苦労が報われて、私の心の中のわだかまりも消えた」と喜色満面で私に語りかけた。

こうここまでで、ヘンリー氏の喜びが「相互に文化の違いを知らなかったことに起因する誤解だった」とお解り願えた方がおられると希望的にも考えている。私には瞬間的にそれが単なる善意のカン違いと認識できていた。私には「恐らく課長さんにとっては初めての外人さんだっただろう。そして名刺の裏のカタカナ書きを見てもどちらが名字か名前か等を考えることもなく、先に書かれているものを名字と考えただけだろう」と分かっていた。だが、折角喜びに浸っているジョンを悲しませることもないだろうと思い、「良かったね」と言うに止めた。

後刻、私はこの課長さんに確認してみると、残念ながら単なる彼の思い違いと言うか、知らなかっただけのことだった。このような文化の違いから来る誤解は、21世紀の今日でも解消されていない様子で「キャロラインさん」という大使や、「マイケルさん」という故人になった有名な歌手や、生存しているオリンピックの優勝者のアフリカ系の走者もいるし、ブランド名にもなっているNBAの歴史的名手もいる。ポール・マッカートニーという歌手は、我が国では何時になっても「ポールさん」だと承知しているのだろうか。

私は何年も「ファーストネームで呼んでいては、何処の誰だか特定しないのだ。名字で言いなさい」と主張し続けてきた。残念ながら一向に結果が出ない。私にはこういう現象が我が国の英語教育の至らなさか、マスメディアの勉強乃至は学力不足かが分からない。もう好い加減に我が国とアメリカ・ヨーロッパの諸国の間には「文化と思考体系の相違がある事」を認識出来ていても良いのではないか。私は先ず英語教育の改革を唱えたいのだが、学び方にも問題なきにしも非ずかとも考えた。だが、ひょっとすると「文化比較論」は社会科の領域かとも考えている。