新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

総合商社マンと懇談した

2022-03-31 09:20:46 | コラム
貴重な現実の世界への窓口だった:

昨日は、久しぶりの懇談にわざわざ東京の外れのようになってしまった、ここ新宿区百人町まで来て貰えた。中近東駐在の経験者はイスラム横丁を通過して、懐かしくもないスパイスの香りを楽しんだのだった。待ち合わせ場所が新大久保駅の改札口だったのだが、彼にとって印象深かったこと第一は平日にも拘わらず圧倒的多数の若き女性が出てくることで、第2は彼女らの殆どがスマートフォンをかざして改札口を通過してきたことだったそうだ。未だ現代を生きている彼でさえ、これらの現象にはやや驚かされたそうだった。

彼とは約2時間語り合ったのだが、痛感したことは「私にとってはこのように現代の変化が早く激しい時代を現実に経験している人から話を聞けることが『時代とその変化の様子に多少なりとも追いつける機会』が、どれほどきちょうでありがたいか」ということだった。

彼のように定年を延長されてまでも輸出入を担当し続けてきた専門家の話が、どれほど新鮮で具体的であるかを、あらためて体感した2時間だったのだ。私風に言えば「マスコミ情報などの到底及ぶところではない」のだ。彼の他にも信頼してきた情報源として専門商社の海外駐在経験者と親しくしていたが、この方も定年延長も終わって引退されている。

嘗て、サダムフセインが倒された後のことだったが、別の中近東駐在から帰国したばかりの者と共に相模原市まで出掛けた車内で「あの戦争の何が実態だったか」を聞いていた。すると、我が社のドライバーが急に車をファミレスの駐車場に入れて「こんなに面白い話を本当は宜しくないことと承知で盗み聞きしていたら、先を聞きたい衝動に駆られた。アポイントメントの時間に余裕があるからコーヒー代を私が負担するから聞かせて下さい」と願い出たことがあった、言いたい事は、昨日商社マンが指摘していたように「マスコミ報道と現地の実態は必ずしも同じではない」という点である。

私はアメリカの会社に転進する前でも営業担当者として最も重要だとしていたことは「取引先の担当者にとって価値があり有効的な情報を常に提供する」だった。その為には常に四方八方に情報網を張り巡らして、なるべく多くの情報源と情報交換を怠らない点だった。その手法をアメリカの会社に変わってからは益々高度化させて、競争相手には情報提供合戦を挑み、圧倒するよう最大限の努力をして来た。これは自慢話ではない。リタイア後に28年も経ってしまった現在では、情報源は細りに細り、テレビ・新聞・週刊誌程度からしか新鮮な情報を入手できなくなっているのだから。

現職当時は「探偵局」と偽称していた裏と表の消息通も今やその面影もないので、商社マンから聞ける話は全て新鮮で感動的だったのだ。時代の変化の実態がどのような状況であるかを直接話法(first hand)で聴ける迫力に、大袈裟に言えば酔いしれていたのだった。89歳にもなって何の実務にも携わっていないでも、現実の世界で何がどのようになっているかを聞けるのは有り難かった。

少しは実際に何がどうなっているかにも触れてみよう。現在は円が¥120台にもなってしまい、¥125すら達した円安である。それならば昨年の紙類の貿易が出超になっていたのだから、輸出はさぞかし好調かと言えば、決してそんなことがないと言うのは意外だった。それは我が国の大手メーカーの中には需要減退に合わせて工場を閉鎖してしまった会社もあったし、原料とエネルギーの高騰もあって折角の円安を活かしようがないのだということだった。

彼も「本来ならば海外に出向いて仕事をするべきだが、新型コロナウイルスの時代にあってはそれも出来ずに、不本意ながらオンラインで仕事をせざるを得ないし、在宅勤務の日が多くなっていると語っていた。この辺りまででお互いに時間切れとなってしまったので、再度の来訪を希望して解散した。彼とは25年もの付き合いになるが、定年延長も今年で終わってしまうのだそうで、「歳月人を待たず」を痛感していた。“Time and tide wait for no man”である。


サッカーW杯最終予選の最終戦を見て思うこと

2022-03-30 09:23:45 | コラム
再び森保監督の見識と力量に疑問を感じた:

私に言わせれば、歯痒くて腹立たしい試合だった。マスコミはベトナムに勝てばグループ1位通過となると言いながら、この試合にはオーストラリアに勝った顔ぶれを変えると伝えていた。戯言ではないか。監督も彼等もそう踏んでいたのだろう。だが、控え選手を9人も出した試合は情けない展開になった。私が特に呆れたのは、長いこと下手くそであると貶してきた、恐らく代表選手中最高齢だろう川島をGKに使っていたことだった。「ベトナムを舐めているな」と読んだ。

結果は引分けで「沙汰の限りではない」というか、言語道断の出来だった。日頃纏まって練習をしてきたとは思えない者どもを「23人の枠を決めるために力を試す」というような美名の下に使ったのだろうが、見ちゃいられなかった。いや、見るに堪えない下手なサッカーになってしまった。

特に酷いと見たのはこういう点だった。それは前半にはオーストラリア戦の殊勲者と報道機関が称える三苫がいた左側からの攻めに偏っていて、一向に結果が出ないにも拘わらず、左側で細かい無用なパス交換に終始したのは全く頂けなかった。折角右側に起用した久保建英の方には殆ど球が回ってこないので、彼を活かすような形になりようがなかった。あれは遠藤航がいなくなって、代わりに出した柴崎と原口の無能のせいかと思ってみていた。あの状況を変えようと気が付く者がいなかったのも情けないが、指揮官は何を見ていたのかと問いかけたい。

次なる問題点は、解説の内田篤人が見かねたのか遠慮がちに指摘した「後方へのパスが多いので、ベトナムがデイフェンスの体系を容易に整えている」戦法である。それは私が忌み嫌ってきた「自分で切り開こうとしないで躊躇うことなく、後方にフリーでいる仲間にパスしてしまうこと」だ。相手はランキングでは遙か下位にあるグループ最下位の相手だ。それでもピッチ全体を広く使うバックワードパス(カタカナ語では「バックパス」だ)で責任回避の挙に出るのだ。「自分でやれよ」と何度か怒鳴ってしまった。

相手は「5バック」とやら呼ばれる後陣に5人を並べて守っているのだ。少しでもサッカーをやってみれば分かることで「引いて守っているのを相手にした場合には守備陣の壁が形成されるので、幾ら蹴っても誰かに当たってゴールまでには届かない」のだ。彼ら二線級の代表にはそんな大原則も分かっていなかったし、その壁を如何に崩すかの工夫は微塵も感じられなかった。後半になって伊藤純也を始めとして何名かの本物を入れたが、結果は変わらなかった。やっと取った1点だって、流れの中でもなくGKの捕球し損ないを吉田麻也が素早く詰めて蹴り込んだだけのこと。賞賛には値しない。

GKの川島は矢張り無用の長物だった。あのかなり良い球が入ってきたCKに対して一歩も動けず、棒立ちだったところにヘディングで決められてしまった。情けなかったし、あの相手をフリーにした守りの体系も困ったものだと思って見ていた。ここまでは全て監督の選手起用の誤りと、公式戦を選手選択の場にしてしまった不見識を問いたい。あの監督のやり方で何時も奇異に感じるのは「必ず久保建英を途中で引っ込める起用法」である。オリンピックでは堂安と組ませてあれほど使えていたにも拘わらず、A代表では常に交替させられ要員なのだ。

未だ本番までには何ヶ月か残っているようだから、無理をしてでも全員を集めて「一つのテイーム」として機能するような練習をしておかないことには、ベスト8などというのは無理があるような気がした。マスコミも例によって見当違いだ。三苫は確かにオーストラリア戦で2点は取ったが、1点目はあのゴールラインギリギリの深い位置から綺麗に三苫に合わせたパスを蹴り込んだ山根が称えられるべきだったのだ。何度も指摘してきたことで「点を取った者が偉いのではなく、組み立てた者が立派だった」なのである。昨夜は彼を使えた者がいなかったではないか。

あの代表テイームの最大の欠陥は、一にも二にも「決定力不足」なのである。これは「ちゃんとした流れの中での組み立てが出来ないこと」であり、確固たるポイントゲッターの不在は別な問題である。何度でも言うが、大迫君にはポイントゲッターとなる力はないのだ。昨夜の上田などは大迫の代役にすらなれていなかった。森保監督はこの決定力不足をどうやって解消するかを考えるのが焦眉の急だと気が付いているのか。


甲子園の野球に思う事:

2022-03-29 09:04:54 | コラム
私は前世紀の遺物かな?

目下甲子園で開催されている高校野球を適当に見ている。そこで、今回は野球の質を離れた視点から高校野球、ひいては我が国の野球を色々な面から観察してみることにした。

名前:
姓名の「名」の方のことであるが、決して「下の名前」などという戯けた言い方はしない。私はNHKの中継放映で先に守る方の学校の選手の氏名をその漢字の表記と共に紹介するのを、興味を以て聞いている。そこに表記される生徒たちの名前の過半数は読めないというか、漢字(当て字?)と聞こえてくる音とは一致しないので困る。それらは最早「キラキラネーム」の域を脱していて、親御さんたちの想像力というか物語を創り上げている能力に感心するだけだ。

私はこれまでに繰り返してこの種の「読めない」か「理解不能」な命名を、国語力の低下か教養不足と看做して批判してきた。だが、事ここに至れば新時代の若き親御さんたちの「名前の新時代を築き上げよう」との意図の表れと解釈すべきだろうかと考えるようになった。即ち、20世紀を生き抜いてきた私のような年齢層にある者が批判すべき問題ではないのだ、と考えるべきかとすら見ている。恐らく、新時代の親御さんたちは「前世紀の遺物は時代の変化に付いてきていないのだから、黙っていろ」などと言っているのかも知れないのだから。

野球界の仕来り:
もう何十年も前のことだが、野球部以外に属する高校生が「野球って何のかんのと、うるさい仕来りというか決め事があって面倒だ」と言うのを聞いたことがあった。その空気は今でも連綿と続いていて、例えば甲子園に登場する生徒たちは、ごく僅かの例外を除けば、皆丸刈り(坊主頭?)なのだ。昭和一桁生まれの私でさえ「もう戦時中ではないのだから、普通に髪を伸ばすことを認めても良いのでは」と感じてしまう。私には丸刈りと野球技術の進歩と向上が結びついているとは思えないし、全員打って一丸となって同じ髪型とするのを、仕来りとするべきことかなと思って見ている。

古い話になるが、我が湘南高校の野球部がたった一度だけ夏に登場して優勝してしまった昭和24年(1949年)には、「湘南には長髪の者がいる」という話題を提供していたのが忘れられない。丸刈りでなくても優勝できたのだった。

「お辞儀」も取り上げてみたい。試合が終了すると「野球は教育の一環である」とされているので、両校は係の方の先導の下に控え室へと一列に並んで去って行く。その前に全員が必ず脱帽して球場に一礼している。美しい礼儀であり美風であると思う。だが、我々の頃には(「蹴球界には」と言うべきか)こういう礼節を尊ぶ習慣はなかったと思う。高野連はあの礼儀を義務化しているのだろうか、それとも自発的に決め事にしたのか。中にはおざなり礼をする者もいるので、そう言いたくなったのだ。

また、余り注意して見ていなかったが、あの負けた方の学校の生徒たちが涙ながらに甲子園の砂をかき集めている絵が出なくなった。私は個人的にはあの情緒的な習慣を歓迎はしていないのだ。聞いた話では、あの場の砂は鳴尾浜から運ばれているらしい。

校歌:
NHKの決まりか高野連の要望か、必ず2回には対戦中の両校の校歌が紹介され、試合終了後には「勝利校の栄誉を称えて」校歌が演奏される。その仕来りを云々するのではない。私が取り上げるのは「約半数の学校の校歌に母校という熟語が入っていること」なのだ。母校とは「出身校」のことで、現在在籍している学校のことではない。作詞家の誤認識か、熟語の美しい語感に惹かれたかの何れかだろうと思って見ている。だが、困ったことに東京六大学の校歌の中でも三大学では間違いなく「我が母校」となっているのだ。「学び舎」にすれば良いのだと思うが。

甲子園球場の芝生:
余談だが、野球とは何の関係もない私は、あの非常に良く手入れされた素晴らしい芝生を歩いたことがあるのだ。「何でかっ」てか。1980年代の初期に甲子園ボウルでグラウンド内に観客用のスタンドが設けられたことがあったし、その後にもフットボール観戦でグラウンドを横切ったことがあったのだ。私がここで採り上げたいのは「何故甲子園球場は未だに内野を土の儘にしておくのか」という点だ。今や、人工芝が普及したことも手伝って内野が土だという休場は少なくなったし、一般的に全体が芝生であるのが普通だ。

甲子園のグラウンドの整備の良さは恐らくworld classだと見ているし、あれほど見事に美しく外野の芝生を仕上げているグラウンド整備の会社があるのだから、もう好い加減に「内野を土で」から脱却しても良いのではと言いたくなる。甲子園がそうしているのを真似たのか、芝生の経費を節約したのか、地方の野球場には未だに「内野が土」となっている例が多い。尤も、高校で野球部専用のグランドを設けて芝生にしているところは少ないのではないか。それでも、人工芝にしている都内の私立校はあるが。


テンションが下がるよ

2022-03-28 09:46:46 | コラム
カタカナ語排斥論者は悩む:

スーツケース:
今朝ほども、テレ朝で収納が便利な「キャリーケース」を紹介していた。考え込まされた。当方は1993年11月に最後の社用でのアメリカ出張をしたのだが、その時にはトローリーケーズ(trolley case)などという便利なものはなかったと思う。因みに、何度か紹介したが、これがキャリーケースの本当の英語の名称である。当時は重たいスーツケースに加えて、洋服から靴まで収納できるガーメントバッグとブリーフケースの3点セットを四苦八苦して抱え込んで、空港まで出掛けていたものだった。それらを何の苦も無く持っているかのように振る舞うのが旅慣れた証拠だった。

それだからこそ、一流のホテルにはポーターが配置されていて、その重たい荷物を運んでくれていたのだったし、彼等はその時に渡されるテイップで生活していたのだった。ところが、往々にして控え目な我が国のお客様は「自分で運ぶから良いよ」とばかりに遠慮されることが多かった。そこで、時には「彼等はそのテイップで生計を立てているのだから、持たせてあげて下さい」とお教えしたこともあった。

今や、あの古き良き時代のスーツケースを抱えておられる旅行者など全く見かけないのだ。私はあの「ガラガラ」と呼んでいたケースを何で「キャリーケース」のような英語として意味を為さないように命名したのかと不思議に思ったので、調べてみると上記のようにtrolley caseと呼ばれていたと判明した。しかし、この英語の名称は全く使われることなく「キャリーケース」が日本語として定着した。思うに、trolleyという単語はcarryほど解りやすくなかったではなかったかな。

テンション:
これは若者の間にはごく普通に「テンションが上がった、または下がった」として使われていると、テレビを通じて知った。意味不明だった。と言うのは「明らかに緊張感が上下した」という意味では使われていないようだったから。要するに日本語になっているのだ。そこで、検索して見ると「気分、気持ち」という意味で使われているようだった。

中には「緊張という意味を基にして誤用されている」との解説もあった。私には誤用と言うよりも「拡大解釈」だと思えるのだ。これなどは、カタカナ語製造業者の手を煩わせたのではなく、若者たちが創造したと思っている。因みに、製紙業界の専門語で「テンション」tension)は「引っ張り強度」のことだ。

ボリューム:
これなども「英語本来の意味は何だったっけ」と迷わされるカタカナ語だ。多くの場合「レストランなどでの料理の量が多い」と言いたい時に使われる日本語だ。しかも、彼等は「ボリューミー」などという言葉まで創造してしまった。英語本来の意味は「ある一定の場所というか空間というか何かを入れられる容積(space)のこと」なのである。彼等は「ボリュームがある」と言って「分量が多いこと」を表しているのだと思う。確かに仕事の量が多い時にはvolumeは使えると思う。要するにquantityが大きいと言いたいのだと思う。

「理屈をいうな」と言われそうだが、これも単語だけを覚えてしまったために生じたというか、使われてしまったカタカナ語だと思うのだ。言いたくはないが、それでお互いに理解し合えれば結構なことだ。

キーワード:
これも近頃多用されて悩ましいのだ。正直に言って、良く意味が解らないというか、日本語にすればどうなるかの見当がつかなかった。しかも、英語の世界では日常的に出てくる言葉ではなかったのも悩ましかった。止むを得ず検索に頼った。どうやら「検索する時に入力する主要な見出しになる言葉」を意味しているのだった。そこからさらに「問題の解決や文章の意味解明の上で重要なかぎとなる語。文章の中で、もっとも重要な意味をもつ語」と、日本国語大辞典には説明されていた。それでは長くなるので格好付けて“key word”をカタカナ語にしたらしい。

このようにして、ちゃんと文章にして説明すべきことを、分かったような顔をしてカタカナ語で代用してしまう傾向が益々顕著になってきたことを嘆いているのは、恐らく私だけではないだろうか。他にどのような例があるかと訊かれれば「コラボレーション」(コラボ)を挙げる。この「コラボ」のような創造能力は凄いと思う。

これは「誰それさんと共同で作業する」という意味だ。それでは長いので、日常的には使われることなど滅多にないcollaborateを膨大な単語の記憶の中から引っ張り出したのではないのか。言って置くが、英語の文章では簡単な言葉を使って詳細に説明するのが原則だ。即ち、“to work with 誰それさん”となるように。


兎角この世には

2022-03-27 11:32:17 | コラム
気になる事が多いのだ:

BA2:
これはオミクロン株の更なる変異株のことらしいのだが、マスコミの報道ではステルスとか言って、デルタ株などよりも一層性悪のようである。産経新聞だったかが報じていたことは「オミクロン株の後遺症にはかなり深刻な例が多く、寝たきりの状態になってしまった30か40歳台の方もおられる」とかだ。早くも、このBA2による第7波の到来を予告する専門家もおられる様子だ。

そんな時にあって、岸田政権は去る21日で蔓延等防止措置だったかを解除されてしまったし、何気なく見た開幕直後のNPBの野球では観客の数を制限なしにしていたようだった。当方のような悲観論者は「岸田総理は一寸脳天気ではないのかな」と不安な思いにとらわれながら、テレビの画面に見入っていた。先ほど一寸聞いたニュースでは、ヨーロッパでは既に感染の再拡大(カタカナ語では「リバウンド」のこと)が始まっていると言うではないか。そんな時にワクチン担当大臣を解任されるとかだ。

ウクライナ事変:
これは、私が便宜的に付けた名称であることをお断りしておく。私はこの事変が今後どのように展開していき、何時どのような形で終わるかを予想することなどできる訳がないと思っている。ただただどうなってしまうのかと見守っているだけ以外のことは出来ない。Putin大統領が思い直して「侵攻止め」などとの命令を発する訳もないだろうし、中国が「止めなさい」と忠告することもあり得ないだろうと思うのだ。

だが、どのような形で決着しようとも、ロシアは西側の民主主義と資本主義のほぼ全ての国を敵に回してしまった後では、世界は極端な「デイカプリング」(decoupling)状態になってしまうだろうという辺りの予想はできるが、ロシアが非専制国家に供給してきたエネルギー源であるとか、水産物、農産物が行方を失ってしまうのだろうし、人的な交流も途絶えてしまうのだろうか。輸出相手国を失ったロシアは経済的に破滅する危険性があると思うが、債権国はどうのように対処するか、準備は整えてあるのだろうかと考えている。

Putin大統領はウクライナのナチス的な要素を排除するだけの目算で始めたと報じられているが、そのような挙に出た時に如何なる反応を巻き起こすかを考えていなかったのだろうか。側近たちは「Yes-man」ばかりだったのだろうかなどとも考えて見たが、私に解る訳がない。

カタカナ語:
一寸気になったことがある。それは、DPRKが発射したICBM(なのか?)が我が国のEEZ内に落ちたということ。これは18,000km程も飛んでアメリカ東海岸までが射程圏内に入っていそうだ。金正恩はアメリカのバイデン大統領が前任者のトランプ氏ほどにはDPRKに関与する意向を見せておられないのを良いことにしているのが面白くなくて、「我が方もかまえよ」との明確な意思表示をしたのかとも見える。これは、事アメリカだけにとっての脅威ではなく、その同盟国である我が国にとっても由々しき事態だと危惧している。

それ以外にもカタカナ語排斥論者が気になった小さなことがある。それは、この着水点を語る全ての人、即ち上は岸大臣と専門家で、下はテレビ局だが、「イーイーゼット」と言っていることだ。アルファベットの最後になる“z”はQueen’s Englishの方では「ゼッド」であり、American Englishでは「ジー」か「ズイ―」と発音されているのだ。学校教育ではどちらで教えているのだろうかと思う。因みに、広辞苑にはサラッと「ゼッド」ではなく「ゼット」となっていた。これでは安保条約で我が国守ってくれるはずのアメリカがどう思うだろうか。

もう一つ近頃気になるのが、テレビに登場されるほぼ全ての方が“main”即ち「メイン」を名詞の形で使っていることだ。即ち、「我が社はこの製品をメインにしている」とか「今回はこの件をメインにして語ります」という具合だ。また、そんな揚げ足を取るのかと言われるのを覚悟で言うが、“main”「~を主に」という形容詞で、名詞の場合は「ガスや水道の本管」という意味になる。単語を重要視する学校教育ではこういう事をキチンと教えておくべきだ。例えば“the main street“のようにしか使えないのだと。