新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

3月6日 その2 我が国とアメリカの会社の文化を比較すれば

2021-03-06 10:52:51 | コラム
予算の考察:

一寸事情があって、事改めて我が国とアメリカの会社を「予算」という点に絞って比較してみた。

これまでに触れた事があったが、MeadとWeycoの2社における1週間フロリダ州に大規模なクラブとかホテルなりを借り切って、リクリエーション等までの一切の費用を事業部が負担する部会での豪華な経費の使い方を見れば「アメリカの会社では予算はどうなっているのだろうか」であるか「あれほど使っては、決算期内の利益が飛んでしまうのではないか」という疑問が生じていた。そこで、ウエアーハウザーに転じてから「一体どのようになっているのか」と、上司に尋ねてみたのだった。

答えにはやや意表を突かれた思いだった。それは「全て予定した利益の範囲内で立てた予算の中の一項目に過ぎない。予算とは使うものである」だったのだから。即ち、私が経験した日本の会社のように「限られた予算の中で如何に倹約し、冗費を省いていくか」の問題ではなく、「使う為に立てた予算をキチンと使い切る事に躊躇いがない」と言うのだった。彼らの中に入って痛感させられた事は「ここで惜しむ事なくもう少し費用をかけて、その為にある予算を使って、より良い成果を挙げる事が優れた予算の使い方である」という点だった。

私の経験では「ここで少しでも予算を節約する事の方が評価されるというか、尊ばれているのが、日本式の予算に対する考え方だった」となっていた。何十年前だったか、我が社の製品のより良い印刷・加工の仕方を知って頂こうと「セミナー」と称して、工場の優秀な技師を出張させて、全得意先を個別に招待して東京のホテルで開催した事があった。その際に参加者全員に本部からの記念品を差し上げようと、テーブルの上に人数分だけ並べて準備を整えた。その様子を見た本部のマネージャーには「駄目だ」と叱責されてしまったのだった。

「メモ帳は何処にある。筆記具が準備されていないではないか」と言うのだった。怒った理由は「招待した方々に自前でノートを取れというのは非礼である。その為の予算は用意しておくべきものだ」との主旨だった。直ちに秘書さんが文具店に走った。「予算」というものに対する考え方の違いに大いには思わぬ勉強させらられたのだった。招待客にも感心されたのは幸せだった。即ち「こうすればより良くなる」と思えば、惜しみなく費用を投入せよと考えるのが、彼らの思考体系だと学習した。

もしかすると、余り大っぴらに公開すべき事ではないかも知れないが、事業部内では「予算」をどのようして建てているかにも後難を恐れつつ触れてみよう。我が国の会社組織のそれとはかなり異なると思っていると感じたほど、全く考え方が違う予算の立て方をするのだった。

一寸理解しにくい考え方かも知れない、その担当マネージャーの実績が自他共に認められるほどまで上がるまでは、と言うか実力が認められる前は、上司からのお仕着せの予算が割り当てられ、その範囲内で窮屈に、超過しないように、詳細に気配りをしていなければならないようだ。ところが、その手腕が評価されると、自然に「君が必要と思うように立てて良し」と、言わず語らずの形で承認されるようだ。換言すれば、そこまでに到達しないと、ウダツが上がらないのが、アメリカの会社の文化であるかのように見える。

そうして立てた予算は当然のように承認されて、各人が使っていくのである。勿論、その範囲を逸脱しないように万全の態勢で業務を進めねばならないし、経理担当者からはその消費状況は毎月のように通告される。ここで、我が国の会社と違うなと思わせられた点があった。例えば、我が国では接待費などは上司の承認印が必要だが、アメリカ式では「既に承認された予算の範囲内の事で、マネージャー自身のサインだけで良い」となるのだ。経理から何か言われる事もない。要するに「個人能力と主体性」に依存したアメリカの経営方式の表れだと思った。

「予算」などは典型的な「文化の違い」の一例だと思う。全てに個人が責任を持って進めていくし、上からは先ずご指導も干渉も介入はないという世界なのだ。そういう文化だから、即戦力として採用した既製品の者たちを集めてトレーニングをするとか、教育をするといったような考え方は極めて希薄だ。部員全員がお互いに重複しないような担当分野を持たされて(与えられて)仕事を進めているのだから、それぞれの担当者に独自の予算があって不思議ではないと感じていた。極端に言えば「組織人ではない者たち」の集団が、アメリカの会社かも知れない。


緊急事態宣言の2週間延期に思う

2021-03-06 08:02:14 | コラム
菅首相が国民に詫びられる問題ではあるまいと思う:

昨5日は探したい物があったので、30分かけて歩いて大久保通り経由で職安通りのドンキホーテまで歩いて行ってみた。その間に大袈裟に言えば痛感した事があった。それは「事は2週間の延期で済むような事態にはないのではないのか」との点だった。我々夫婦は大久保通りと職安通りを結ぶ俗称「イケメン通り」という路地を避けたが、午前11時という真っ昼間から大久保通りでは多くのうら若き乙女たちがマスクを外し大口を開けて「何とかドッグ」の食べ歩きをしていたのだった。「何と言う事だ」などとは批判しない。この界隈ではごく普通の状態なのだから。

イケメン通りもチラと眺める事が出来たが、予想に違わず大勢の老若の女性で賑わっていた。事がここまで来れば「これじゃー駄目だ」と言わざるを得ない。彼女たちは全くと言って良いほどウイルスに対して無警戒だし、この時期に外出して彷徨い歩いている事に何の意識もないようなのだ。都内の感染者では相変わらず20と30歳台が主流を為している事などを全く認識出来ていないようだと、あらためて遺憾に思わせてくれた。昨日は昭和大学の二木教授がこの辺りを視察されて「マスクを外した買い食い」の危険性を指摘しておられたのも、全くその通りだと思った次第。

私が言いたい事は「これ以上感染者を減らそうとするのであれば、一般大衆に向かって総理や都知事が『ご協力を』と語りかける時期はとっくに過ぎている。最早小池都知事の得意の台詞『ステイホーム』などと格好を付けている時ではない。どうしても”stay home“と仰りたいのならば”You must stay home.”辺りにすべきだろう。即ち、強制力を持たないお願いで済む時期ではないのだ」なのである。飲食街の時短の効果には限界があるとしか思えないのだ。現に、尾身氏は年内の収束を諦めたかのように言われていたではないか。

私の持論というかずっと指摘し続けてきた事で「小池都知事は何時までも派手な一般受けを狙った演技を続けるのではなく、都庁からそれほど遠くはないこの界隈でも密かに視察されて、脳天気な女性たちに警告を発するような現実的な行動を取られるべきではないのか」と警告したいのだ。私は所謂「都市封鎖」(カタカナ語では「ロックダウン」)に何処まで効果があるかなど知らない。だが、あの無自覚な者どもの彷徨い歩きや、会社員たちの早朝からの出勤を放置していては、それこそ「百年河清を待つ」に等しいのではないかと思っている。

既に「ワクチン接種の時期がオリンピック開催とは別個の問題である」との説も出てきた。菅首相も開催都市の知事も本気でオリンピックを実行したいのであれば、私にはこの期に及べば何らかの思い切った措置が必要であるように思えてならない。言いたくはないが、首相が国民に詫びておられる時期ではないようにしか見えないのだ。先日のPrime Newsではロシア大使が何故スプートニクVを承認されないのかと訝っておられた。

ウイルス駆逐の為に手段を選んでいるべき時期なのだろうか。それとも「形振り構わず突進するべき」なのだろうか。ロシアのワクチンがどうのと言うのではなく、菅首相の決断を待ちたいのだ。だが、小池都知事不信任派の私は彼女の統治能力には遺憾ながら大きな期待は持っていない、いや持てないのだ。