新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

3月30日 その2 毎度お馴染みのカタカナ語批判

2021-03-30 14:03:56 | コラム
止むに止まれぬ思いで言っているのだ:

私がカタカナ語を批判し排斥するのには、十分な動機もあれば理由もある。先ず何と言っても腹立たし事は「カタカナ語を嬉々として使っておられる方々は、その行為が如何に国語を破壊し、且つまともな英語を学びそして覚える事にも障害になっている事に気が付いていない点」なのである。我が国では文科省を始め所謂識者の方々が「国際人を養成する為には国民の英語力を高めるべき」などと戯けた事を主張して、小学校から英語教育を開始している始末だ。それが役に立っている例を見た事も聞いた事もないのが残念だ。

しかも、困った事にその英語教育たるや誠に不行き届きで、大学まで6年も8年も教え込んでも自分の意志を思うように表現する事等まるで出来ない惨状である。それにも拘わらず「何となく格好が良いとでも錯覚しているのか、殆ど全部が間違っているカタカナ語を多用するのが、知性と教養を示すのだと勘違いしている何処かの知事を真似て、猫も杓子もテレビに登場する芸人たちも、無闇矢鱈にカタカナ語を使ってみせるのだ。テレビ局に至っては新語まで創造する体たらくだ。この有様を見て雄々しくも30年以上も前に立ち上がったのが、かく申す私である。

昨日も、聖火リレーとやらで栃木県を走った勝俣州和なるタレントは「スタートします」と言った。私は「ウンザリだ」と言ったが、彼のみならず多くの人々は「出発」という漢字の熟語を忘れて何が何でもカタカナ語なのだ。これはほんの一例だが、テレビ局とそこに出てくる連中は、殆ど漢字の熟語を学校で教えられていなかったようで、全てカタカナ語で済ましてしまう。思うに、彼らは漢字を使った表現は文語であり、カタカナ語が口語だとでも錯覚を起こしているのだろう。かくして、テレビ局などは怪しからん事に、国語の破壊に努めているのだ。

そこで、思いつくままに主にテレビから聞こえてくるカタカナ語と、それに相当する漢字の熟語を探してみる事にする。私は仮令熟語の漢字が難しすぎて書けなくとも、テレビで音声だけ流すのであれば問題ないと思うのだが、彼らはカタカナ語しか使わないのだ。

彼らは「オープン」と言うが、それは「開店」であり「開業」であり「開始」の意味だと思うが、最早漢字の熟語は彼らの辞書から落ちてしまったようだ。しかも、このオープンは「リニューアルオープン」などと言う文法的誤りの造語にもなってしまっている。何処が文法的誤りであるか、悔しかったら指摘して見よ。「ノミネート」も酷いと思う。漢字にすれば「推薦」なのだが、思うにこの漢字は難しすぎて読めないか、または書けないので敬遠したのだろうと疑っている。「アイテム」はOxfordには「買うか、行動するか、語る為にリストに載せてあるもの」が先ず出てくるよ。

「挑戦」という熟語も消し去られて、今や「チャレンジ」しか残されていない。「指示」、「支援」も「サポート」に取って代わられた。だが、英語では“supporting document”などと言うと「添付書類」の意味になる。だから、部品だけ覚えるカタカナ語の知識は駄目だという訳だ。「解りやすい」、「簡単な」、「単純な」と言えば何を思い出すか。「シンプル」なのだが、Oxfordに最初に出てくるのは「複雑ではない(込み入っていない)と、解りやすい」なのだ。カタカナ語の意味する所とは違うと思わないか。邪推すれば「複雑」との熟語が難しかったのではないか。

複合語になっている「ベストを尽くす」というのも情けない。「最善を尽くす」であって欲しいのだが、悪く言えば「最善」が難しすぎたのかも知れない。理屈を言えば“best”はgoodかwellの最上級であって名詞としては余り使わない。しかも、最上級である以上、theから始めねばならないのだが。その意味では「ハプニング」も失格だ。即ち、英語では“happenings”のように通常は複数形で使うと決まっているのだから。笑えるのは「ハプニングが起きました」などと平然で言うアナウンサーがいる事だ。これは英語教育の情け無さの表れに他ならない。

もう、これくらい言えば十分だろう。何度も行って来た事で「カタカナ語をどう使われようと、君たちの勝手であり、私は阻止しようとも『お辞めなさい』などと介入する気もない」のだ。だが、言っておきたい事は「カタカナ語を創造するにせよ、使うにせよ、その前に一歩立ち止まって、最悪でも英和辞典で『おかしいかどうか』くらいは調べてからにして欲しい」のである。そして、締めくくりに「カタカナ語に過度に依存すれば、それでなくても不十分な英語力が益々低下するだけだ」と言っておこう。

「何、英語なんて出来なくても良いのだ」ってか。「単語を並べたら、アメリカに行っても通じたから」とでも言いたいのか。それだと車夫馬蹄であるとか、無教養な輩だと馬鹿にされるよ。


Uー24のサッカー代表がアルゼンチンを圧倒した

2021-03-30 07:52:39 | コラム
サッカー代表選手の方々失礼しました:

昨29日に北九州で開催された対アルゼンチンの2戦目を観戦して、我と我が身の不明を恥じて、あそこまで強敵アルゼンチンを圧倒して勝ってくれた選手たちと、サッカー協会にお詫びせねばならないと深く反省していた。この滅多に褒めない私が褒めるほどの立派な試合振りであり、勝ちっぷりだったのだ。感動さえしていた。何処にも批判したい所などなかった。つい先日まで「サッカーは見限っていた」などと妄言を吐いていたのを恥じた。彼らは進歩していた。

実は、第1戦ではアルゼンチンのサッカーの実態を掴みかねていた。言い訳になって心苦しいが、解説者もアナウンサーもアルゼンチンの強さばかりを強調するので、そうとは見えない彼らの寧ろ韓国風に当たり散らすだけのサッカーを見ていても、何時かは本当の力を出して我が方を圧倒するのかと思い込まされていた。我が方も点を取れそうな形にして貰えなかったが、彼らとてもあの強引に切り込んでのセンターリングがなければ、1点も取れなかった程度に攻める形を作れていなかった。あれもこれも準備期間が短かった為だと、好意的に解釈していたのだった。

ところが、前回から9人も入れ替えてきたという我が代表のサッカーは素晴らしかった。前線の寄せも早く相手を思うように動かせなかったし、パスのコースも消していたのでアルゼンチンは無用な後陣での繋ぎのパス交換か、縦一発に頼るしかなかった。私が褒めたいのがこの寄せの速さと、体格の差を怖れない当たりの強さで、殆ど負けていなかったので、倒されたアルゼンチンが感情的になって小突いたりしたのを何度も見て、我が代表を見損なっていたと反省させられたのだった。あれならば、乱暴な当たりの本家である韓国にも負けないと思ったほどだった。

兎に角寄せの速さ、相手のパスを巧みに横取り(インターセプションの意味で、アナウンサーが「カット」と言うのは誤りであると思う)、豊富な運動量、当たり負けしない強さ等々で、完全と言って良いほどアルゼンチンのお株を奪っていた。結果的にアルゼンチンはかなり苛立っていたというか焦りを見せて、パス回しの起点となってきていた久保建英に対する当たりが必要以上に乱暴になってきていた。解説の松木安太郎は「だから、安全の為に久保を後半の半ばで交代させたのだろう」と読んでいた。彼を起点として全体の息が良く合っていたのも素晴らしかった。

久保建英君のスペインでのサッカーは常にテレビのニュースで見せて貰っている。だが、テレビ局は「サッカーでは点を取る者が偉いのだ」的に報道するので、久保君の真価は分からないままに昨夜の試合となった。私の見る所では、上記のパスの起点となっている事、即ちゲームを組み立てて行く型の選手であって、ゴールゲッターではないと解った。また2度のCKから2点を追加する形になったFKの上手さと正確さも貴重だと見た。テレビ局には何度も言ってやった事で、サッカーでは点を取った者も良いが、組み立てた者を評価して上げないと浮かばれないのだ。

それにしても、体格と身長に優れたアルゼンチンを相手にしてあそこまでやってくれたと言う事は、「本当に」か「現実に」と敢えて言うが、オリンピックが開催されれば、サッカーは3位以内(私はオリンピックは世界のメダル獲得競技会ではないと思っているので、メダルという表現は使わない)には入れる確率は高くなってきたと思って見ていた。森保監督はあれだけやって見せた者たちの中から、15乃至は18名を選ぶ為には嬉しい悲鳴を上げるだろうと思わせてくれた勝利だった。一夜の出来事でない事を心から願っている。

お仕舞いに敢えて再度言うが、「見損なっていて失礼しました。お許しを」の立派な勝ち方だった。お陰様で楽しい一夜になって良く眠れた。