新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

集団的自衛権の行使

2014-06-30 16:18:29 | コラム
公明党は真の与党なのか、リベラル派の報道機関は何がしたいのか:

30日の産経の「正論」で駒澤大学名誉教授の西修氏は

「朝日新聞のプロパガンダ」の中見出しで同紙の6月16日の「集団的自衛権行使で想定『米艦で邦人救出』米拒む」との見出しのもとに、「朝鮮半島での有事(戦争)で『非難する日本人を乗せた米艦を自衛隊が守る』との想定は、過去の日米交渉で米側は断っていたし(中略)98年にガイドライン(日米協力のための指針)に基づく協力内容をつくる際、米側の強い意向で非戦闘員救出はメニューから外された」と記述されている。この記事に対し防衛省報道官は「事実無根」製を強調した」

と指摘されていた。

また、30日の頂門の一針第3351号で杉浦正章氏は

「極東の安保環境の劇的変化を無視して一国平和主義的な主張を繰り返し続けている朝日、毎日、東京、TBSなどの言論機関は完全にその洞察力と判断力において読売や産経に敗北したことになる。

リベラル系の主張は「日本が戦争する国になる」に始まって、秘密保護法案成立の過程と全く同じ“風評化”を意図した極論の展開であった。

これらのマスコミは土着的近視眼体質をいみじくも露呈したのであって世界の世論とは著しく性格を異にする。世界の言論機関の集団的自衛権の
行使限定容認に対する評価は高く、日本がようやく「普通の国」になったという判断である。」

と述べておられた。尤もであると思う。

私はかかる朝日、毎日、東京新聞とTBS等のリベラル派メディアの報道姿勢も極めて有害だったと思う。だが、私が最も理解不能だったのが与党である公明党の時間稼ぎとしか見えなかった安倍政権と自民党に対する反対の姿勢だった。そこに加えてリベラル派の報道機関は公明党の地方支部を集めての説明会を採り上げて、反対する県の代表者とのインタビューだけを強調して見せたのにはもう笑うしかなかった。

彼等反安倍内閣のマスコミは公明党の姿勢を連日の如く報じただけで飽き足らず、西名誉教授が指摘されたように、朝日のように事実を曲げて報じるのだった。これではまるで世界に向けて恥をさらそうとしているとしか思えない。そうまでして世論調査と称して「集団的自衛権の行使」反対が多いという結果を導き出して、彼等は何を目指しているのだろうか。それが「国益」だとでも言いたいのだろうか。

戦後のサッカーを回顧すれば

2014-06-30 08:49:42 | コラム
時代と共に変化したサッカーの在り方:

以下は解りやすく言えば思い出話だ。昭和21年(=1946年)11月に兵庫県で開催された第1回国民体育大会・秋季大会の蹴球の中学校の部で、我が湘南中学が優勝した。対戦相手は兵庫県立神戸一中(現神戸高校)だった。当時の交通事情等の諸般の状況からして湘南と神戸一中は東西両地区の代表として出場したと記憶している。因みに、私は直前の練習試合で骨折した中学2年生で西宮球技場には行けなかった。

あの頃の関東地方の蹴球の有力校は東京では高師附属中(現筑波大附属)、都立五中(現小石川高校)、都立八中(現小山台高校)、都立十中(現大泉高校)、県立浦和中学(現浦和高校)に湘南中学等だったと記憶する。関西の事情までは良く解っていなかったが神戸一中と翌年の優勝校・広島師範附属、修道中学(現修道高校)辺りが有名だった。洩れていた学校があったらお許しを。ほとんどが所謂進学校だったのだ。

当時、多くのサッカー中学生と言うか、我々が目指していたことは関東大学リーグの一部の大学に入学し、多くの上級生たちのように正選手としてサッカーを続け、関東代表選手(注:あの頃は全日本代表になりたくても海外遠征の機会などなかった)に選ばれることだった。当時の関東大学リーグの一部校は、東大、慶応大、早稲田大、教育大(現筑波大)、立教大、明治大等で、やや遅れて中央大が昇格してきたと記憶している。

関西では関西学院大学と神戸大、神戸経済大等が強豪校だったと思う。関学は今ではフットボールの甲子園ボウルの常連校と言うか優勝校なっているほど強いのだが、現在ではサッカーではサッパリ名前を聞くことがなくなってしまったのは何となく寂しい気がする。因みに、元協会会長で故人となって長沼健氏は広島師範附属から関学大を経て古河電工に勤務しておられた。

ここに掲げた強豪校を現在のサッカーの名門校と比較すれば、時代における著しい変化が見えてくるのではないか。今や高体連(だったか?)のサッカーに加盟している高校の数は4,000を超えて、高野連所属の高校の数と変わらないほど裾野が広がっている。多くのJリーグのティームは下部組織を充実させて高校生を学校の運動部とは離れた場で養成している時代になった。今回の日本代表にも高校サッカー出身者ではない者が多いのもその特徴だった。

ここで再び昭和20~30年代の大学サッカーを振り返ってみよう。サッカー選手たちの就職先はJリーグではなかったのは当然で、リーグの発足は1993年だったのだから。そこで、当時はアマチュアの組織である日本サッカーリーグ加盟の企業が有力な選手たちの就職先となっていた。

それは三菱重工(自動車)の現浦和レッズ、古河電工(ジェフユナイテッド市原・千葉)、東洋工業(マツダ)の現広島サンフレッチェ、日立製作所の現柏レイソル、住友金属・鹿島の現鹿島アントラーズ、ヤンマー・ディーゼルの現セレッソ大阪等だった。これらの会社名から見ても日本サッカー協会の主立った役員にこれらの企業の出身者が多い訳だと解るだろう。Jリーグ育ての親川渕三郎氏は大阪府立三国丘高校から早稲田大を経て古河電工出身、現会長の大仁邦彌氏は神戸高校から慶応大を経て三菱重工出身である。

因みに、元会長で、IOC委員だった岡野俊一郎氏は小石川高校から東大を経て家業の岡埜栄泉の代表取締役で、数少ない会社勤務を経験しなかった会長だった。私はサッカー協会の長所の一つに上記のような企業で如何にして組織を効率的に運営するかという経営を経験してきた人物が多いことがあると思っている。今後は組織の運営以外に、如何にして世界のレベルに伍していける選手を数多く育成するかにもより一層強力に集中して貰いたいと考えている。

W杯サッカーを振り返れば

2014-06-29 10:54:57 | コラム
危うく「W杯サッカーが終わって」と題するところだった:

張本勲は今朝もTBSで「W杯サッカーの話題は良いじゃないか」と言っていたが、私も決勝トーナメントの試合が如何に凄いかどれほど面白いかくらいは承知しているが、これまでのように懸命に追いかける気がなく、結果だけ解れば十分という気が抜けた気分である。予め期待しないと言っておきながら、今更気が抜けたもないものだが、我が代表が敗退したのでは興味が失せたのも事実だから仕方がない。

そこで、我らが代表が出た以外の試合も見た感想を纏めてみよう。

*基本技:

自分が昭和20年=1945年に湘南中学の蹴球部に入って初めに教えられた蹴球の基本技と、21世紀の今日ではまるで別物になってしまったかの感が深い。それは上手さや技術と用具の進歩にも関係があるかと思うが、今の世界的選手たちは20世紀の基本技から見れば全て失格だと言いたいほど変化してしまった。

これは以前にも採り上げたことがあることだ。それらは先ず「FWがシュートする時に左側にいる者が右から来たパスを蹴る場合には右足で、反対の場合には左足で」と教え込まれた大原則が今やほとんど無視されて、反対側の足で平然と蹴っているのである。理屈を言えば「右から来たパスを左足で蹴ろうとすると、一旦自分の前を通り過ぎた球の右側に踏み込んで電光石火の早業で左で蹴るのだから、何処に行くかは解らないことになりかねないと教え込まれたのだった。

*海外事情:
しかし、現代の高度の技術と技巧を兼ね備えた連中は、その難しいキックを簡単にやってのけてしまうのだ。そこが凄いと何時も感心して眺めている。もしもこの理論に疑問を抱かれたならば、何処かでお試しになってみれば、私が教えられた反対の足で思うがままに蹴ることがどれほど難しいか解って頂けると思う。

私のサッカー歴は全国大会出場と優勝を目指して練習をしていたのは昭和25年=1950年の高校3年までだった。それ以後は関東大学リーグ4部の大学時代を経て、1976年頃(43歳だったか)に藤沢四十雀に加入して、元はと言えば関東大学リーグ1部校の有名選手だった方々に混じってリクリエーションとしてのサッカーを48歳頃まで楽しんでいたものだった。

当時はW杯出場どころか海外の強豪国のサッカーの実態に触れる機会も少なく、サッカー先進国の有名選手たちが如何なるサッカーをしているかの情報も少なかった。そこにテレビとビデオ時代が到来してブラジルその他欧米の優秀な選手たちの実態を知ることが出来た。するとどうだろう。そこには私が教え込まれた基本とは異なった勝手気ままにボールを巧みに扱う有名選手たちの姿があったのだった。

私はその状態を「彼等は十分に基本を学んだ上で既に応用編の段階に入っているのであって、決して基本を忘れている訳ではない」と好意的に解釈していた。昭和20年に学んだ基本技がどうあろうと、彼等は巧みな足技で何でもこなしていると考えていた。

*続・基本技:
ここではトラッピングを採り上げてみよう。我々昭和一桁の時代には「進行を止めるようなトラッピングをしてはならない。それは左側にいる者は右から来たパスをトラッピングする時には右足で進行方向に球が流れるようにすること。自分の身体の前を通過させて左足でトラップしようとすると、そこで進行が止まってしまう。即ち、それはストッピングなのである」と教えられた。

しかし、海外の名手たちのトラッピングを見れば、ほとんどが上記の基本技無視だった。彼等の優れた技術と足技では先ず進行が止まるような時間のロスがないのでストップしなかったのだった。そして気が付けば、我が国のサッカーでもこの反対の足での進行ストップ方のトラッピングになっていたのだった。私はこの辺りの変化を捉えて自らを「石器時代のサッカー選手」と戯称していたのだった。

今や誰もと言うか、希にしかあの頃の基本技を守っていなくても世界は進歩したのだから、あれこれ言う必要見ないかと達観(諦観?)している次第だ。

*髪型と刺青(入れ墨):
これも張本の台詞だが、「ブラジルなどの選手たちは貧困層から努力を重ねて這い上がってきた強かさと言うか強さがある」と指摘していた。それはその通りだと思うが、強豪国の選手たちの多くは我が国の基準からすれば普通人の世界では滅多にあり得ない凄い髪型であったり、ユニフォームから出ている両腕には彫り物が見えている。欧米諸国と我が国とではこういうこことの文化が違い過ぎるが、一寸怖い感は免れない。

それとサッカーとは別物だという意見もあるだろうが、矢張り違和感を禁じ得ない。この彫り物はMLBの選手たちにも圧倒的に多い。先日もジムの知り合いと「あの連中は我が国に来たら、このジムの会員にはなれなかっただろう」と語り合ったものだった。我が国で入れ墨がある人を拒否するのは意味が違いとは知ってはいても、文化の違いの大きさは印象的だ。

*優勝国は何処:
実は、告白済みのように他国の試合を余り真剣には見ていないので多くは語れない。だが、候補筆頭の呼び声が高いブラジルはかのネイマールを始めてとして全員が上手いのは間違いないところだが、往年の凄さと比べるとスケールがない感じがする。全体的に凄味があって強さをも感じさせるドイツが良いような気もするが、乏しい知識から言えるのはこの程度だ。オランダも勿論有力候補だろうが、ブラジルほどの生存を賭けた凄味はないのかも。

野球とサッカーの人気を比較すれば

2014-06-29 08:20:27 | コラム
馬場伯明氏のご意見:

「頂門の一針」第3350号に馬場氏が寄稿された“ブラジルW杯「雑感」”の中で、

<ここで「おまけ」。友人のM君からのメールを了解の上抜粋・転載する。《・・・結論:日本がW-cupで優勝するためには、日本からプロ野球をなくすことです。>

と言っておられたのは、その通りかと経験上も思っております。

私は1990年代だったと記憶しますが、当時の同僚でスポーツに一家言を持つ者と語り合った際に彼が「我が国の女子の競技が世界的にも強いのはプロ野球と相撲がないから」と指摘したのに大いに賛成しましたことがありました。その視点は今日でも変わっていません。相撲は外しても良いかも知れない時代になったかの感がありますが。

今日、我が国では多くのサッカーファンがW杯にあれほど燃えている時代になっても、野球それも夏の甲子園とプロ野球の人気は決してサッカーのそれ以下ではないと危惧?しております。根強いものがあると思っておりますし、子供たちが憧れている要素が十分に残っています。

それが証拠にプロ野球に集まってくる素材の若手の素質と体格を見る時その素晴らしさは、遺憾ながらJリーグの選手や日本代表の者たちを超えていると言わざるを得ないことがあります。私は、プロ野球のオールスターに選ばれてくるような連中がサッカーとは言わないまでも例えばテニスなどに専念してれば、何人かの世界的選手が出ていただろうと言ってきました。

私独特と思っている極端と言われかねない表現をお許し願えば「野球には未だ未だ人材の無駄遣いがあるのではないか」となります。他のスポーツをやっていれば世界的な選手になっていたのではないかという意味。サッカーに話を戻せば、未だに野球に人材を取られているとの感が深いのです。

その昔と言うか昭和25年=1950年に、湘南高校の野球部に1年生の衆樹資宏が入って来ました。中学の頃から投手として鳴らした素材でした。その衆樹を一目見たサッカー部の岩淵監督は我々3年生を叱責されました。「あれほどの素材を何でむざむざ野球部に取られたのか」と言って。

衆樹の素晴らしさは1年の終わりに慶応大学の練習に参加して、大学の一軍相手にノーヒットノーランをやってのけたほどのものでした。彼は慶応大学を卒業後にプロ野球に入っていました、念のため。残念ながらプロ野球を引退後に若くして亡くなりました。

前高野連会長だった脇村春夫君も、我々サッカー部員が一寸助言しただけでサッカー部員を除いた各学年の組別校内サッカー大会優勝の立役者となったほどサッカーの技術が上達した素材でした。

どの競技を選ぶかは当人の意思ですから外部から介入は出来ないと思いますが、その素材が何に最も適しているかは競技人生が終わるまでは解らないことかと思っています。だが、「あの選手が我が競技を早くから選んでくれていたら、世界が変わっただろうな」と思わせられる場合が屡々あると感じております。

女性の活用を掲げる安倍内閣に思う

2014-06-28 15:52:57 | コラム
安倍総理の方針に疑問あり:

偶には安倍総理の方針に「疑問あり」と申し立てても罰は当たるまいと思う。その第一は「20万人の外国人労働者の導入」で、これには既に何度か激しく異議申し立てを行ったので、ここでは採り上げない。今回は「女性の活用」で、何でも「一社毎に取締役中の女性の比率を申告させるようにされる」とかだ。

私は「現状以上に企業社会を中心に女性の力を有効に活用していこう」というのが基本理念であれば何ら異議はない。女性には男性には望めない素晴らしい能力があって、それを活かしていくのならば大変結構なことだからだ。私は194年1月にリタイヤーするまでに12年間、1人の秘書と共に仕事をしてその女性の能力の素晴らしさにどれほど助けられ、啓蒙され、学習させて貰ったことか。20年が過ぎた今でも彼女には感謝しかない。

アメリカの事業部の本部にも、他の事業部にも「素晴らしい」を通り越して「凄い能力がある女性たちだ」と痛感させられた人たちとは数多く出会った。女性たちの中にはマネージャーの称号を持つ一定上の範囲の難しい職務を任された担当者もいれば、その有能な女性たちを統括し、その部の部長職にあった者もいた。

私には「それぞれの事業本部内では総責任者である Vice president and general manager が上記のような女性たちに、安心して仕事を任せている」と見えた。特に我が事業部で「受注、生産計画、製品の在庫管理、輸送計画、工場との連絡、世界各国の営業所との連絡等」を女性2人に完全に任せ(うち1人はマネージャーのタイトルを持っている)、我々のように出先である東京でも信頼しきっていた。VP&GMも一切日常業務には介入しなかった。

ここで注目して頂きたいことは、ここに言う2人の女性は一寸お考え頂けば解ることで、言うなれば膨大な範囲の一刻も手抜きを許さない絶え間なく反復する業務を昼夜の別なく遅滞なく進行させているのだ。2人が担当する範囲を売上高でにすれば当時でも500億円を下回ることはなかっただろう。しかも、彼女らには部下どころかアシスタントも何も一切いないのである。この辺りがアメリカの企業での女性の力と能力の活用の上手さであると思う。

もっと解りやすく言えば、彼女たちには我が国の組織で言う「係長」、「課長」、「部長代理」、「部長」のような階級を表す手当を貰える称号は与えず、精々 manager 止まりである。この肩書きには手当も何もないのだ。しかし、実績次第で毎年の査定の際に十分に評価されて、恐らく自分で「リタイヤーする」と名乗り出るまで毎年給与は十分に増え続けていくだろう。

また、中にはある人数以上の組織を任される人も出てくるだろうし、現に女性ばかりの部で統括責任者だったうるさ型のmanagerもいた。確かに、Vice presidentに昇進していた女性も勿論いた。

私が以上のようなアメリカの組織での女性の活用法に見出すことは「地位を与えるというか管理職に任じられることもあるが、実際には彼女たちの持つ能力を全面的に活かす仕事で、男性のようにやや妥協しやすい嫌いがある者には到底追い続けられないかも知れない切れ目がない仕事を確実にやり抜いていける女性の能力の素晴らしさを活かし、さらに禄を以て報いる方式を採っている場合が多い」のである。

勿論、個人には差があるし、各人が目指しているところにも当然のように違いがあるので、野心的な女性にも数多く出会った。そして彼女らはあの生存競争激しきアメリカのビジネス社会で男性に混じって競争するのを厭わなかった。そういう生き方を選択する女性もいる。その意欲をどう活かすかは、会社の上司であり、組織の力の有無である。

長い導入部になったが、言いたかったことは「我が国のように一斉に新卒で入社して同期の者たちと言わば切磋琢磨して、段階的に昇進し、何時の日か課長に昇進し、さらに部長という形で『部下を率いて率先垂範し、後進を育て、周囲と調和して(常に根回しを忘れることなく)と言ったような組織の長になるべく日夜努力する世界』では、アメリカのような女性の能力を活かしていくのに最善か」という思いを禁じ得ない。

安倍総理は我が国有数の鉄鋼会社に勤務の経験はおありだと聞くが、アメリカのような「個」と「個性」を重視し且つその中で女性を活かしていく文化があることを何処までご承知なのかということだ。我が国で「地位を与えずとも禄を以て報いる」という精神が何処まで受け入れられるかだろうが、女性の力を活かす場合に「地位を目指させるのか=管理職に任ずる」のを究極の目標に掲げるのか、給与面の待遇を良くするのか、その辺りに考慮と配慮と検討の余地があると思う。