新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

6月30日 その2 アメリカンイングリッシュとキングズイングリッシュは違う

2024-06-30 10:46:40 | コラム
同じEnglishでも発音には違いがあるのだ:

先ずお断りしておくというか、確認しておきたいことがある。それは、先ほど検索して知った杉本英語教育発音研究所の杉本正宣氏が自認しておられたのと同じで、「私は日本生まれの日本育ちであり、アメリカで学校教育を受けた訳でもなく、39歳になるまでアメリカに行ったことはなかった」のであるという事。

昨日から“college”の発音が「カレッジ」か「コレッジ」で悩んできたので、あらためて検索してみた。すると、沢山出てきた説明/解説の文章では全て「カレッジ」であり「コレッジ」は無かった。さらにCambridge Dictionaryの発音を何度も聞いたところ、私の耳には限りなく「カリッジ」に近いと聞こえた。

言うまでもない事でCambridge DictionaryはOxfordと並ぶUKを代表するUKの名門大学が発行している。その辞書でも「カリッジ」となっているのだ。ここまで来ると、私如きにはcollegeをどのようにカタカナ表記すれば良いのかは解らないのだが、「カリッジ」とするのが無難だと思えてならないのだ。

上記の杉本正宣氏のYouTubeではcollegeとcottageの発音が「カリッジ」と「カテッジ」となるような発音記号が表示されていた。余談になるかもしれないが、杉本氏はこの表記を”flapping“即ち「弾音」との説明がされていた。

これだけのことを長々と論じてきたが、要点は「文部科学省は英語の単語をカタカナ表記する場合には、アメリカンイングリッシュとキングズイングリッシュのどちらに準拠すべきかを明確に指示でなければ示唆くらいしても良くはないか」という事なのだ。話はまるで違うが先ほど見てしまった「サンデーモーニング」で孫正義氏がAIの凄さを語られて、

「専門とする私がAIの能力を良く承知しているから素晴らしいと言っているのだ。それを専門家でもない有識者が人智よりも劣るなどというのは」

と、真っ向から指摘しておられたのが非常に印象的だった。言いたい事は「英語の言語学の専門家でもない者たちが、恣意的に英語の単語をカタカナ表記をして、深い慮りもなく公器である新聞やテレビで使うのは如何なものか」なのである。

「アメリカンイングリッシュ」と「キングズイングリッシュ」は違うのでは

2024-06-30 08:15:11 | コラム
我が国ではKing’s EnglishがAmerican Englishよりも尊重されているのでは:

昨日は「マートン・コレッジには参った」とマスコミが扱うカタカナ語に驚かされたことを述べてあった。

それは、昭和20年に中学に入学して最初に教えられた発音がアメリカンイングリッシュだった私は、戦後間もなくにはGHQの秘書だったHelenにアメリカ語での会話を厳しく教えられたので、アメリカ式の発音が身についていたのだった。尤も、中学の途中で我々日本人には馴染みやすいイギリス語との中間を目指すようにはしたが。

そこに天皇皇后両陛下が学び舎のOxford Universityの「マートン・コレッジ」他を訪問されたとの報道があったのだ。全ての報道機関はcollegeを「コレッジ」としたのに恐れをなしたのだった。中学の頃からアメリカ式の発音に慣れていたし、39歳にしてアメリカの紙パルプ産業界の大手メーカー2社に転じた私は、22年間アメリカ語の世界で過ごしてきたので、「カレッジ」であるべきcollegeを「コレッジ」とは如何なる事かと慌てた次第。

我が国はUK(グレイトブリテンと北アイルランド、即ちUK)の王室と深い縁があり、一般的にUKに対する畏敬の念があるというか、動もすると同盟国であるアメリカよりも尊敬されているかの感がある。また、戦後では進駐軍の主体を為していたのがアメリカ軍だったことも手伝ったか、それ以後にはアメリカの文化/文明に大きく影響されてきたと言って良いだろう。

そこに、昨日は天皇陛下の晩餐会でのご挨拶が再放送されたのを聞く機会があった。陛下はMerton Collegeを「マートン・コレッジ」としておられた。「そういう事だったのか」と受け止めた。そこで感じたことは「このご挨拶を聞く機会があった報道機関は、陛下の発音に準拠したのでは」と疑ったのだった。

我が国の学校教育においても広くキングズイングリッシュ式な教え方がされているかのようで、厚生労働省の省名の英語表記では「労働」がキングズイングリッシュのLabourとされてアメリカ式のlaborとはなっていないのだ。この綴りをアメリカ政府の人たちが見ればどう感じるかと気になっている。人気が高い映画の“Harry Potter”は「ハリーポッター」であっても「ハリーパター」ではないのである。

このような次第だが、これまでに検索して見る機会があった資料でもcollegeが「コレッジ」だったのは皆無で「カレッジ」だけだった。私が主張したいことは「学校の教育にしても、公共の施設における用語でも、政府の公式な見解としてアメリカ式かUK式の何れに準拠すべきかを努力義務とするように」としたら如何かと思う。アメリカやUKやオーストラリア等の何れに行ってもどちらでも「通じる」のだが、「ポッター」は止めて貰いたいのだ。

我が国では諸説あるようだが、ローマ字は20世紀初頭から普及し始めたようで、戦後には本当に広まって、子供たちが早くから英語のアルファベットに慣れ親しむようになる効果があったことは否定できないだろう。だが、何事にも「コインの裏側」があるので、英語教育でもその影響を受けたのか“a“は「ア」を“o”は「オ」と規則正しく発音するような形が出来上がったのだ、英語という不規則だらけの言語ではそうはなっていないにも拘わらず。

結びとして私が主張したいことは「アメリカ式かキングズイングリッシュの発音や綴りの何れに準拠しようと騒ぎ立てないが、カタカナ表記する場合には基準を明確にして欲しい」のである。即ちpotterは「パター」であり、Mission Impossibleは最悪でも「ミッション・インパシブル」ではあって欲しいのだ。「コレッジ」とするのならば「カレッジ」との違いくらいを何処かで解説しておいてもバチは当たらないのではないか。

余談になるが、オリンピックのゴルフの優勝者(ゴールドメダリスト)Nelly Cordaが犬に咬まれた負傷でトーナメントを棄権したことは「ネリー・コルダさんが棄権」になっていた。アメリカには「コーダさん」はいても「コルダさん」はいないと当時あれ程指摘しておいたのに。

6月29日 その2 「マートンコレッジ」には参った

2024-06-29 15:56:38 | コラム
カタカナ語排斥論者は一瞬たじろがされた:

今朝程のテレビ各局のニュースで「天皇皇后両陛下がUKから帰国される前に、嘗ての学び舎Oxford大学のMerton CollegeとBalliol Collegeを訪問された」と報じられていた。「何だ。それの何処でたじろがされたのか」と言われそうだが、両collegeの名称が英語表記になっている点にご注目願いたいのだ。テレビでは「コレッジ」となっていた事は、カタカナ語排斥論者にとっては些細な出来事ではなかったのだ。

それは、聞いた限りのテレビ局は皆一様にcollegeを「コレッジ」と表記し、アナウンサーたちも躊躇う様子もなく「コレッジ」と読んだのだった。大袈裟に言えば「コレッジ」には「衝撃を受けた」のだった。何故ならば、当方は「カレッジ」と発音するアメリカという世界で20年以上も過ごしてきたし、まさか英連合王国では「コレッジ」となっているとは、夢にも考えていなかったからだ。

そこで、早速“Merton college”をWikipediaに当たってみれば、カタカナ表記は「マートンカレッジ」だったので一安心。さらに、実際の発音とはと調べてみれば、聞こえてきた音はと言えば、80%以上「コレッジ」寄りと聞こえたのだった。残念なことだった。残る20%は「カレッジ」と聞こえないこともなかった。だが、この発音は「格調高きKing’s English」に準拠させたのだろうと決めつけることにした。

ではあっても、聞いた限りの全テレビ局が躊躇する様子も見せずに「コレッジ」としたのには「何だかなー」としか受け止められなかった。発音も兎も角「コレッジ」とまで表記するのは、敢えて言えば「行き過ぎではないか」とまでも言いたくなる。更に疑ったのは「各テレビ局がコレッジとしたのは、学校の英語授業ではカレッジが採用されていないのか」だった。

カタカナ語排斥論者としては「マスコミは両陛下がチャールス国王から国賓で招待されてご訪問なさったので、国王に気を遣ったのかな」とも勘ぐった次第。

多文化共生と移民導入の問題

2024-06-29 07:48:28 | コラム
久しぶりに「朝まで生テレビ」を聞いてー「多文化共生と移民導入の問題:

今朝程は午前3時半頃に目が覚めたので、何気なく5チャンネルを見れば「朝まで生テレビ」で件名のような議論が展開されていた。その中の議題の一つに「単純反復労働をする人口の減少を補う為に、外国人労働者を入国させること」というのがあった。途中から聞いたので確かなことは解らないが、その狙いは多くの異文化の国から労働者を導入することの当否/可否/問題点を論じたかったようだった。

ここでいきなりこの件について、私の経験談に基づいて論じてみよう。私は1972年に39歳にして無謀にも「アメリカと我が国が言語・風俗・習慣・思考体系がどれ程違うか」などに殆ど予備知識なく入って行ったのだった。即ち、私が常に「問題あり」と論じている考え方である「国が違っても同じように会社となっている以上、大きな違いはなく、何とかなるだろう」と大雑把に考えていた。

即ち、「同じ組織の中で、同じ目的の為に働くのであれば、外国人の私でも齟齬は来すまい」と考えていたと言うこと。確かに、何年か何ヶ月かは問題も起こさず過ごせた。だが、そこを過ぎると「これではどうにもならなくて困るな」というような障壁に出会ったのである。それは言葉が通じれば何となるという程度の簡単な食い違いではなかった。それ即ち「文化(=言語・風俗・習慣・思考体系)が違う国だと解ったこと」なのである。

アメリカでは「新卒から入社して、その会社独特の教育を経て平社員から段階を経て昇進していくようなシステムではなく、即戦力として集められた経験者を、全権を持つ事業本部長(GM)がその配下に属する彼等を指揮・命令して運営していく」のである。部員全員はGMの指揮の下に全員横一線で並んでいるのであり、身分の上下などない。そこから滅多に段階的に課長だの部長などに上がっていくことない仕組みなのだ。

そういう身分の垂直上昇など望めない世界だと割り切って、それに慣れていかないことには、幻滅を感じてしまうだろう世界なのだ。要するに「その国のビジネスの世界でも何でも、歴史的にも伝統的にも文化が確立されているのだから、そこに自国で通用していた自分の主義主張を持ち込んではならず、何とかして異文化に合わせて現地人たちと共存を心がけねばならないのだ。「出来ない」とでも言えば「それなら出て行って貰おう」となること請け合い。

この辺りを、ブラジルから10歳でやってきた日系人が小・中・高・大学を経て日本の文化に適応して会社まで設立した経験から言ったことが「小学校から勉強していないことには、日本独自の文化との共生は難しいのでは」だった。一理あると思って聞いた。私は何度か回顧したことで「アメリカと我が国の企業社会における文化の相違点」を満足できるまで把握できるのに10年以上を要していた。即ち、小学校から中学を終えるのと同じ長さではないか。

テレビではお馴染みの論客、デイヴィッド・アトキンソン氏は「アメリカには膨大な数の移民が入っていると言われているが、その内訳は余り取り上げられていない。南アメリカやアジアからの移民は確かに多いが、現実には大学卒でマスターを持っている人たちが48%にも達していて、こういう人たちは犯罪に手を染めるようなことがないと認識すべきだ」と指摘していた。「ナパヴァレー等に行けば、あらゆる国の人たちが働いている」とも言った。

このブラジルからの人とアトキンソン氏の意見を合わせると「単純反復労働に従事して貰う移民と、大卒のような働き手に二極化していく方向に」となるようだった。但し、西欧の諸国とは文化が歴然として異なる我が国に、高度な職を目指して彼等が入って来ても日本文化に同化して馴染んでくれる確率は低いと思う。では、単純労働力不足を補うべく導入する人たちが、文化の相違点を知って同化することはもっと難しいだろう。

私が今日までに繰り返して指摘してきたことは「アメリカでもUKからでもEU圏内からでも、現地に一流の大学の出身者や、マスターの学位を取得した将来の明るい展望が開けている者たちが、我が国に機会を求めてやってくるかという事。あり得ないだろう。そうではないような連中が、ここ新宿区百人町(マスコミ報道では「新大久保」に無数に群がっているではないか。

私は39歳にして勇敢にも「行く手に何が待ち構えているか」をろくに認識せずしてアメリカのビジネスの世界に入って行った。そして、10年を過ぎた辺りでは何とか異文化に馴染んで共生出来るようになったのではなく「どうやったら異文化に合わせられるか」かが解っただけのことだった。心の奥底では「絶対に日本人として誇りと矜恃は失わないよう」に努めていた。

結果的には同僚たちに「君と共に仕事をしていると、その仕事ぶり、その話している言葉、その服装、そのアメリカ慣れを見ていると、我々の仲間だと思ってしまう。だが、良く見ていると君は骨の髄まで日本人である(”Japanese to the core”と表現した)と解る」と指摘されてしまった。

私の結論は「異文化との共生とは、自分の国の文化との相違点を可能な限り認識して、何とか合わせられるように努めること」であろうかと思う。余所の国の人を受け入れる場合にはお互いの文化の相違点を知ってから慎重に事を運んだ方が宜しいと思う。

その際にも留意すべき点は「異文化に合わせる(迎合する)為に、自国の文化をよく認識して忘れてはならないこと」だと思う。異文化の世界で長い時間を過ごした経験を経ていないと、この私の指摘は容易に納得して貰えないと思うのだ。


2024年5月の新宿区の人口

2024-06-28 06:32:28 | コラム
2024年5月の東京都新宿区の人口は116人減少して351,709人に:

4月には+2,507人と大きく増加していたところから、5月には僅かながら減少に転じていた。その351,709人の内訳は日本人が△87人で305,943人、外国人も負けてはいられないとばかり29人の減少で45,766人となっていた。外国人はこの程度の減り方では区全体の人口に占める比率は4月と同じの13.0%を維持していた。

だが、JR山手線・新大久保駅前から大久保通りを埋め尽くしている「無数の」と形容したくなる程多くの異邦人たちを見せつけられると、彼等がここ新宿区に占める比率は13%どころか、50%にも達しているのではと疑いたくなる。先ほどもテレ朝で「オーバーツーリズム」の特集をやっていたが、この街では「オーバーイミグラント」状態が、そう遠からぬ将来にやってくるのかも知れないと危惧させられている。

昨日も新宿駅から新大久保駅に戻ってプラットフォームから改札口に通じる歩道橋(って言うのか?)の通路に上がるエレベーターを利用した。私はこの通路とは本来は階段の上り/下りが不自由な高齢者の為だと思っていた。だが、現実は大きなトローリーケースを引きずった何処の国から来たのかも解らない外国人たちが先を争って利用するので大混雑。91歳の高齢者にとっては「良い迷惑」ならぬ「悪い迷惑」以外の何物でもない。それほど彼が等数多く殺到するのだ。

話題を変えよう。今月は何の因果か、新大久保駅から新宿駅を経て小田急のロマンスカーを1週間に2回も利用することになった。そこで出会ったのが新宿駅西口の小田急デパートの解体と再建工事による薄暗い地下道の移動で、大迷惑なのだ。この原因は地下にあるJRの改札口を出た後で地上に連絡していた小田急百貨店のエスカレーターが取り除かれた為に、地上に出る手段が急傾斜の階段だけになってしまったのである。高齢者でなくても大迷惑でしかない。小田急百貨店を恨んだ。

私は一計を案じて、敢えて更に長い距離を歩いて地下に設置された京王デパートのエスカレーターのところまで行った。そこまで行けば1階の売り場に出られ正面玄関から外に出て、隣接されている小田急の改札口に歩いて行くという方法を考え出した。これで何とか体力を少しだけ温存できるようになった。ところが、この手は早朝ではデパートが開店していないので通用しないので、暑さと暗さに耐えて地下街を歩くしか方法がなくなるのだ。

何故、こんな事をグダグダと取り上げたのかと言えば、一私企業に過ぎない小田急デパートが彼等の都合で彼等の顧客と、親企業である小田急電鉄の利用者に迷惑をかけてまで店舗を再建する権利か権限があるのかなと、ついつい考えてしまうのだ。そこで、この小田急百貨店のはた迷惑な解体と再建工事が原因となる大迷惑の件を取り上げた次第である。あの混乱振りは一頃の渋谷駅構内を思い出させてくれた。

先月から開店した読めない中国式(なのだろう)の簡易体の文字の看板を掛けた「エッグミートバーガー」のスタンドは一時の大繁盛も一段落した模様。このスタンドのバーガーとやらを試そうとは考えていない。だが、高田馬場駅間に春頃から営業している北京烤鸭(北京ダック)の店は、そのうちに行ってみようかと思案中。北京で食べた本場物は「皮だけ食べるのではなく、肉も食べるので中々『好吃』(=ハオチー)だった」ので。
毎回のように同じ事を言うのも気が引けるのだが、我が国の政府は我が国の外国人に対する温情的な扱いを悪用して、我が国を食い物にしようとしてやってきたとしか見えない国の連中に、観光ヴィザを無審査で発給して良いものかと疑問に感じている。岸田内閣はこの事態を真剣に再検討願いたいのである。国民に負担を強いるようなインバウンド尊重政策を見直して貰いたい。

その結果が「オーバーツーリズム」とやらの原因となってしまったが、インバウンド様にお出で頂いた事によるその収入が7兆円を超えるようなので、岸田政権(財務省?)には格好の財源となるのだそうだ。その財源の為に犠牲になってしまう多くの自治体や市民がいる辺りを、内閣も関連する官庁も認識していないと困るのではなかろうか。

参考資料:新宿区広報24年6月25日号