新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

女子サッカーの対スウエーデン戦に思う事

2021-07-31 08:38:41 | コラム
岩清水梓は「相手の前でパスを回しているだけ」と厳しく言った:

昨日の女子サッカーの準々決勝でスウエーデンに負けてしまった試合は、残念だったなどと言うよりも、不満ばかりが残ったような不出来だったと言いたい。解りやすく言えば「弱いから負けたのだ」という簡単な話だったのが大いに遺憾だった。先日も指摘したように、あのW杯を制覇した頃のテイームと較べれば、現在の「なでしこ」とやらは数段格下の力しかないと断じる。その無残に(だと私は見ていたが)負けた要因を私なりに分析してみよう。

第一が解説をしていた岩清水梓が堪えきれない声音で言い切った「ボールの保有率が上がってきたのは、スウエーデンのデイフェンスの前で自分たちの間だけでパスを回しているので」と斬って捨てた消極的さであり、弱気なサッカー。この傾向は何も女子だけのことではなく、我が国のサッカー全般に通じていること。昨夜もデイフェンス・バック陣間で横から横の無意味なパス交換を続けている間に、前線にいる者たちが裏を取るとか、空いている場所を見つけて走り込むような動きが全くなかったので、保有率が上がったという情けない次第だった。

見ている方をイライラさせるのはこれだけではないのだ。詳しく延べておくと「男子にも通じる問題で、前線に縦パスが通って形が出来たかと思えば、受けた者が後ろからデイフェンスが迫ってくると、それをフェイントでもかけて抜こうというやる気を先ず見せる事無く、躊躇せずに後方に戻してしまうこと」だ。現代の技術水準が我々の頃よりも飛躍的に向上したサッカーでは「キープして抜こうなどと無謀なことを考えずに後ろに戻して危機を未然に防げ」とでも教えているのでは疑いたくなる。第一に、フェイントのかけ方など教えられていないかとの雰囲気さえ感じる。

基本技が固まっていないことも不満で不安だった。この点は男子にも通じる欠陥だと私は見ている。兎に角、「ストッピング」と「トラッピング」が不正確で、球が足下に綺麗におさまらないのだ。だから相手の素早い寄せに遭うと奪われてしまうか、後方へのパスしか逃げ道がなくなるのだ。次は「反対の足が出てくること」を挙げたい。これはサッカーを経験しておられない方には「何の事」となってしまう話だろうが、暫くお付き合い願いたい。

それは主にFWに適用される基本技なので「右から来たパス乃至はクロス(センタリング)は右足で蹴ってシュートを狙い、左側から来れば左足で蹴る」というその昔に徹底的の叩き込まれた大原則なのだ。だが、これは今や全世界の強豪国でも全く無視されている。彼らの優れた個人技では今にも自分の前を通過しそうな速い球を、左側にいる者が綺麗にタイミングを合わせて左足で蹴ってみせるのだ。よく考えて貰いことは、自分の前を通過しそうな球を右足で蹴らずに、あわや通過しそうになる寸前に、体の前に左足を出して蹴るという軽業なのだ。

昨夜の試合で貴重な1点となった田中美南が、右側から来た鋭いセンタリングを決めたのは何と左足だった。これを基本の無視と見るか凄い技術の表れと見るかは、議論が分かれるも知れない。私は俗に言う「結果オーライ」だとは思うが、右足で蹴る方が楽なのに、何故左足を出すような教え方をしてあったのかと不思議に感じている。

この基本技無視の基となっていると疑うことがある。それは、私が甲子園の野球を止めろと主張するのと同じ理由である。即ち、トーナメント形式の全国大会を勝ち抜くために「それ専用の小細工を徹底して教えようとして、大学なりプロのリーグに行って大成するための体力の強化(例えばウエイトトレーニング)や面白くも何ともない基本技を繰り返し訓練することを等閑にしているので、トーナメントで勝つための小細工ばかりが身に付いて、大局的に試合を見る戦術眼などが養われない恨みがあるということ。

この基本をしっかり鍛えられていないのは、何度も指摘したことで代表テイームの監督やコーチの責任ではない。小・中校の基本を覚えるときの指導者の常識の問題であるのだから。サッカーの場合にはキチンと教えてくれるのはJリーグの下部組織だけであり、有望な子供たちは皆がそこで鍛えられると聞くが、それにしては基本が出来ていないのが気懸かりだ。何度も言ったが、A代表にまで上がってきた者たちの基本技を直そうと思っても、手遅れなのだと思う。

昨日も顕著に出ていた問題点は「パスに適切なスピードを付けていないので、容易にインターセプション(パスカットとアナウンサーが言うのは誤りだ)の憂き目に遭ってしまうこと」だった。また、男子でも同じだが、パスが足下に入るまで待っているので、直ぐにデイフェンス陣に詰め寄られてしまうのも問題だ。一歩でも寄っておけば余裕が出るのだが、それが出来ていないので得意の後方への責任回避のパスになってしまうのだと見ていた。

高倉麻子監督にも「???」としたい点がある。それは、先ずあの消極的な責任回避のパス回しを改善させない指導法だ。次は選手起用に見せる迷い。昨夜は三浦がイエローカードを貰った時点で交代させるべきだと私には閃いた。その思い切りがなかったために、あのVARで「ハンド」と判定された致命的なPKになってしまった。その後で引っ込めたのでは遅い。また、2点もリードしているスウエーデンが続々と選手交代をして新鮮な戦力を投入するのに、高倉監督は結末が見えてから交替をする手遅れの判断。「あれでは駄目だ」と怒鳴っていた。

このように問題点ばかりを指摘してくれば「なでしこ」とやらには全く良いところがなかったかのようだ。だが、そうとばかりは言えない。仮令消極的であっても、あの強敵スウエーデンを相手にして細かくパスを繋いで攻め上がって見せたし、右側からの速攻で綺麗な動きの中で得点をしていたのは立派だった。結論をいえば、「実力の差で負けた」となるのだと思う。実力を向上させるためには、身体能力の向上させて体格の差を補うことだ。貴女たちの足は急には長くならないのだから。

「善戦健闘したが結果が出なかったのは残念だった、相手が一枚上で力を出させてくれなかったのだ」と言ってを終わる。

後追いの学問、後追いの対策

2021-07-30 09:24:31 | コラム
経済学とは後追いの学問である:

この一言は、昭和37年(1962年)4月に、今となっては懐かしき日本の会社時代に大阪支店勤務を命じられたときに、不運にも私の部下となった長崎大学経済学部出身の切れ者が教えてくれたことだった。彼は「経済学者たちが研究の成果を活かして、優れた理論を組み立てて教えて下さるが、所詮は今日までに起きた現象を後から分析したものであって、将来に何が起きて世界に如何なる影響を与えるかは経済学では予見できないと思っておられた方が無難である。経済学とは後追いの学問である」と、英文学科出身の私を諭してくれたのだった。

この彼の説が正しいかどうかなどを、今日ここで論じるつもりはない。だが、これを聞いたときには「なるほど、尤もな説であるな」とは理解していた。この解説は、嘗て故本田宗一郎氏が「統計などを尊重することに意義を見出せない。統計は過去の傾向を教えてくれるが、将来に何が如何なる形で起きるかを知らせてくれない」と主張しておられたのに、本質が良く似ていると思っていた。

そこで言いたい事は「兎角、世論調査では『政府の新型コロナウイルス(COVID-19)対策を評価しない』が過半数を占めている場合が多いと出るのは疑問だ」なのである。即ち、上記の「経済学は云々」というのと同じではないのかと言うこと。COVID-19の襲来を予想していた者もいなかっただろうし、疫学や感染症の専門家のお医者様にしたところで、未知のウイルスが侵入してきたのだから、その結果で何が起きていたか、どうすれば多少抑制に効果があったか等々を事後に追いかけて、分析して対策を練ったに過ぎないのではなかっただろうか。先手は取りようがないのではないのか。

言うなれば、所詮は後追いであり、予め「こう来るだろうから、こう言う手を打っておけば、ウイルスは侵入できなかったはずだとの予防策があったのではない」と思う。「我が国は島国なのだから、水際対策を徹底して、外国からの人の入国を絶対的に止めておけば」というのも素晴らしい反省材料だが、言ってみれば後追いの策と言うか知恵に過ぎない。私自身も「後手後手」であるとか、「モグラ叩き」であり、発生した現象に対応してきただけで根本的に封じ込める策にはなっていないと批判してきた。西村康稔大臣、加藤勝信厚労相(当時)を貶してきた。

安倍政権と菅政権が取ってきた対策は所詮は後手であり、後追いになるのは仕方がないとは見えていても、小池都知事のカタカナ語に無意味に依存した策も、賞賛にはほど遠かったのである。いや、諸外国のように都市封鎖を実行しても抑えきれなかったCOVID-19を、頭から押さえ込める策などはなかったと思う。もしあるとしたら「国民全員の外出を禁じ、集会を禁じ、必要最低限の人たちに国内全土を消毒しに回らせる」くらいしか思いつかないが、これは先ず物理的にも経済的に不可能だし、中国の二番煎じで民主主義国家では成り立たないだろう。

マスメディアが如何に無知でもこれくらいのことは解っていそうなものだが、彼らは性懲りも無く連日連夜「ウイルスは怖いぞ。また昨日何千人も何万人も感染者が増えたぞ」であるとか「またワクチンの副反応で何人が苦しんだ」とか言って、罪なき一般大衆を脅かし続けるのだ。その上で、世論調査をするのだから始末が悪い。オリンピックの重大な感染源が増えたかのように選手と随行者から陽性者が出たと報道する。政府の苦労には一切評価も感謝は示さずに、批判ばかりだ。

今となっては菅首相が力説され力を注いでおられるようにワクチン接種率を上げていくことは、極めて効果的で重要な対策なのだ。だが、マスメディアはここを先途とワクチン接種の負の面ばかりを強調したがる。彼らは一体全体何処の国の報道機関かと問いかけたい。彼らはその反面、世界のメダル獲得大会を貶しておきながら、優勝者のことは全力を挙げて賞賛しているという自己矛盾を繰り返すのだ。メダルとやらを何個獲得しても、COVID-19は退散しない事くらい彼らとても解っているのだろう。

マスメディアも、彼らの報道に惑わされているかのような罪なき一般大衆も、少しは「後追いにならざるを得ない対策」を評価したらどうだ。そして、菅内閣や小池東京都が要請するように「自粛」して、これ以上の感染拡大(「リバウンド」でも「クラスター」でもない)を防ごうとしたら如何か。自分は自分で守るしかないのだから。


7月29日 その2 兎角予想と期待は外れるものなのだ

2021-07-29 09:19:17 | コラム
オリンピックで起きていた意外な現象:

昨日までに多くの専門家、ジャーナリスト、マスコミ等々が3位以内入賞で、あわよくば金色のメダルを獲得できると予想するか期待した運動選手(「アスリート」と何の抑揚もない発音のカタカナ語で言われるとウンザリする。何時からこの言葉を公用語にすると決められたのか)で、無念にも予選落ちか、初期の段階で敗退した者が有名選手に多いという印象だ。試しに、気が付いた例を挙げていこう。

先ずは既に第1セットを落としたのを見て諦めた大坂なおみさん。私は色々のな要らざる圧力を加えられただけではなく、長期間休んでいた後のオリンピックでは致し方なかったのではないかと少し同情的に見ている。次は、昨日第2セットの10対10まで見て「これは駄目だ」と見切らざるを得なかった桃田賢斗君。「あの国の者に負けるとは」と見えていたために観戦を中止した。全く気迫が無かったし、全てがおかしかったのが残念だった。

桃田君については、偽らざる所を言えば「あの状態から良く立ち直ったが、何時まであの世界最強と称えられる状態を続けられるのか。恐らく当人が最も不安に感じていたのではないか」と、ある程度懐疑的な見方をしていたのだった。第1位の座を守る難しさは、経験して見なければ解るまいと言う。

ピンポンの張本智和も一目見て「これは駄目だ」と解って、そこから先は見なかった。石川佳純さんもいけないと解ってしまったが、最後まで見た。「オリンピックには魔物が住んでいる」などという俗な言い方がある。私は信じていない。負けるのはただ単に実力の問題であるからだ。何処まで平常心で試合に臨めるかの修行が出来ていたか否かの問題だと思う。

内村航平君は本人は最大限の努力をされて個人種目で出場した意欲には敬意を表するが、もう彼の時代は終わっていると見ていたので、予選落ちはテレビの報道で知った。瀬戸大也君は元々最も嫌っている種類の人物なので、再度の予選落ちか準決勝の敗退もニュースで知った。きつい言い方をすれば「人の道を踏み外していたような所業」を何処かで誰かが許していなかったのではと思った。

ここまでは全て個人競技種目である。団体競技では残す関心事は男女のサッカーが何処まで行ってくれるかと、野球にある。私は未だ嘗て如何なる種目でも大会でも、我が国の代表に「3位以内入賞」などを期待して見たことはない。そんなことは軽佻浮薄なマスコミにやらせておくことだ。何も期待していなければ、何かを達成してくれたときに、初めて本当の意味での実力が出たのだと解るし、賞賛したいと思わせてくれるからだ。


3,177人とは

2021-07-29 08:32:58 | コラム
冷水と熱湯を同時に浴びせられたように感じた:

言うまでもないかも知れないが、3,177人とは28日の東京都の感染者の数である。私はそう聞いただけで冷水だけではなく、熱湯も浴びせられたような衝撃を受けた。と言うのは、27日の国立国際医療研究センターでの循環器内科の定期検査と診断で、主治医の医長先生のご意見を伺って「ワクチンの2回の接種を受けたのであれば、万全の注意の態勢を整えた上でのジム通いの許可」を頂いたばかりだった。来週からは再開する心算だった。

何分にも私は3度の心筋梗塞から生還した結果でBNPの値が常に180前後であるので、この言わば慢性心不全の常態でのジム通いの危険性を、何人かのお医者様に指摘されていた。即ち、もしもCOVID-19に感染した場合には、重症化するか生命の危険性があるからだ。そこれ、止むなく昨年の4月以来ジムに行くことを控えていたのだった。それに2回目のワクチン接種から既に3週間以上も経過したので、抗体が備わっていると看做して良いからである。これは、決して感染しないという意味であることくらいは承知している。

そして、この感染の異常な爆発的拡大(テレ朝では、先ほど専門家の一人である国際医療福祉大学の松本哲也教授は「オーバーシュート」と言われたと報じていたが、今頃になって尾身茂副座長(当時)の言葉の恥ずべき誤用と真似るとは)が生じて、何人かの専門家がこの儘の状態が続けば、遠からぬ将来に5,000~8,000人に達するとの予測をしておられた。3,177人でも十分に恐怖であるのに、この数字を見せられては、来週からと予定していたジム通いを再検討せねばならないかと、考え込まされてしまった。

因みに、我が新宿区の27日までの感染者は10,865人だったのだから、既に約34万人の人口の3%が感染していたことになる。なお、世田谷区の感染者が東京の市区町村の中では最大で、既に14,896人に達していた。

既にジムに通いだしている家内によれば、館内ではそれ相応の感染予防策が取られているし、会員同士の会話も禁じられているそうだ。それを聞いても何度か生死の境を彷徨う経験しており、臆病者の私は“To be or not to be”と思案している。ここまで述べてきて、ふと“To be to be, ten made to be”という良く出来た戯れ言を思い出した。出来ることなら「飛んででも行きたい思い」だ。


7月28日 その2 少しだけオリンピックに近付いた話題も

2021-07-28 16:45:09 | コラム
アメリカの国歌を聞いて一人で懐かしさに浸っていた:

昨27日に横浜スタジアムで行われた、女子のソフトボールの試合を見ていた。途中から気が付いたのだったが、台風で中止か延期だと勝手に決めていた女子のサッカーは予定通りだったのだった。そこで両方を見るはめになった。このソフトボールのアメリカとの決勝戦が開始される前に、如何なる根拠があったのか知らないが、アメリカの国歌が流されていたのだった。勿論と言うべきか何とすべきか、言わばカラオケのように音だけだった。

しかし、20年以上もの間にアメリカMLBの野球場、NFLのフットボール競技場、NBAのバスケットボールの室内競技場等で、何度も何度もアメリカの国歌を聞かされていた。お陰で何時の間にか歌詞の冒頭の部分である“Oh say can you see by the dawn’s early light“辺りまでは直に覚えてしまっていた。

そして、何時もその場内で満員の観客が皆一斉に立ち上がって声高らかに、しかも楽しげに国家を歌っているのを聞いて、1980年代末期までは「何故、我が国ではこれと同じような場合に誰も合唱しようとは思わないのだろうか」と、残念であると同時に非常に遺憾であると感じていた。その頃までは、我が国では日教組だか何だか知らないが国歌と国旗を蔑ろにする傾向が顕著だったので、アメリカ国民が嬉しそうに“Oh say can you see ~”と歌うのを羨ましいかのように感じていた。

アメリカに行くようになってから、方々を回って気が付いたことがあった。それは、何処に行っても大きな星条旗がはためいているか、主な公共の施設には必ず国旗が置かれていることだった。我がウエアーハウザーの本社ビルの外には、アメリカで最大であると聞かされた星条旗が常に掲揚されていた。これが何を意味するかを考えて見た。それは「多くの民族と人種が集まって構成されている合衆国であるのだから、皆の拠り所となる国旗を置いて統一感を味合わせ、ことある度に国歌を歌って“USA”と唱えて一体感を味合わせているのでは」などと考えていた。

私は戦時中の育ちであるから「愛国心」を強調して植え付けるような教育を受けてはいた。だが、それほど徹底した愛国者ではないだろうと思っていた。だが、アメリカ人の中に入ってあのように国旗を敬い、皆で楽しげに国歌を歌っている様を見せつけられては、上記のように「何で、我が国はこのようにならないのだろうか」と考えるように変わってきた。

その思いが高じたのか、何時だったか上司にワシントン大学(University of Washingtonで、州立である)の構内にある7万人収容のフットボール競技場に試合を見に連れて行って貰う機会があった。そのUWのHuskiesの試合開始前に7万人の観客による国歌の斉唱があった。それが始まったと同時に起立していた私は「何故、我が国ではこうならないのだろう」とも思いが襲ってきて自分でも驚いたことで、涙が出てきたのだった。それを上司に見られてしまい「君もとうとう我が国の国家のために泣いてくれるほどアメリカに馴染んでくれたか」と感動されてしまった。

昨日はこの一件を思い出して「そう言えば、俺も当時はあれほどアメリカに親しんでいたのだったな。そのアメリカの会社を離れて27年も経ってしまったのか」と、一人で些か感傷的になっていた。言うなれば、何と形容すべきか解らなかった「何とも言えない懐かしきアメリカ」を思い出していたのだった。

という次第で、オリンピック関連の話題からは少しは離れていたつもりだ。だが、あの試合で解説していた宇津木妙子元監督が、7回の裏に宇津木麗華監督が逃げ切りように上野由岐子投手を再度起用したときに、非常に心配しているような声で「良いのかな」と言ったのは非常に実感がこもっていた。私も同感で「大丈夫かな」と見ていた。だが、上野由岐子投手は見事に3人で片付けて優勝して見せてくれたのだった。

宇津木妙子元監督の嘗ての教え子たちを気遣う一言が印象的だったが、杞憂に終わって本当に良かった。上野由岐子投手は偉かった。しかしながら、結局はオリンピックの話題になってしまった。