新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

女子のサッカー代表がオリンピック出場権を獲得した

2024-02-29 07:42:36 | コラム
DPRK代表に勝ってくれて一安心だった:

昨28日の夜には「女子のサッカー代表が勝ってくれること」を期待して、この試合の観戦に集中していた。我が代表の試合振りには(「男子の代表には感じられない」と言えば語弊があるかも知れない)「勝ってオリンピックに行こう」という気迫に満ち溢れているのを感じていた。一所懸命に勝とうという姿勢が充分に表されていたのが良かった。

FIFAランキングの僅差:
我が方が世界のランキングの8位であり、DPRKは9位であるそうだが、その実力伯仲の度合いが非常に良く現れていた良き試合だったと言っても誤りではあるまい。前回のこのDPRK代表と我が代表との試合を観た記憶では、彼等のルールも何も完全に無視した悪意に満ちた体当たり等々の日本の代表選手を削ってやろうという危険なプレーが非常に多かったので、昨夜は何処まで行儀良いサッカーを展開するかに注目していた。

結果としては、彼等がフェアープレーにはほど遠いが、何とか節度を保ったサッカーをしていたので、我が方からは負傷者も出ることなく、ランキングの差のように2対1という1点差で勝ちきってくれたのが非常に良かった。一度崩れかけたこの代表ティームをここまでに再構築した池田監督の指導力を賞賛したい。

DPRK代表:
あらためて、DPRKの代表ティームのサッカーを観察してみると、何も無法なタックルや危険な当たり方をしないでも充分にその技術を発揮できることを示す事が出来るだけの実力を備えていると評価したのだ。昨夜は彼等の闘志を何とか正しく表現するサッカーをしていたと言えるのかも知れない。

即ち、寄せが早く、当たりは強く、運動量を豊富にするだけの基礎体力を備えており、こぼれ球(セカンドボールと言うようだが)を素早く拾うし、ディフェンス陣の裏を取る縦一発のパスもかなり正確だった等々という具合だ。但し、得点力が低かったのは、我が方の熊谷紗希を中心にした堅い守りに遮られた為だろう。

我が代表:
私は女子のサッカーとなると、どうしてもあのW杯を取った時の福元、近賀、熊谷、石清水、鮫島、澤、坂口、宮閒、川澄、宇津木、大儀見、安藤、丸山等の個性に富んだ選手たちを思い浮かべてしまうので、昨夜のDPRKを相手に真摯敢闘して代表権を勝ち取った選手たちは、誰を見ても同じようにしか見えないので困った。

即ち、あの澤さん率いるティームの選手たちには、あの頃の鮫島のように走っている格好を見ただけで「鮫島が上がってきた」と解るような個性的なプレー振りの者がいなかったという事。例えば「澤を見よ、宮閒を見よ」なのである。

お断りしておくと、これは貶しているのではなく「9年前とは事情が違っていて、現在の選手たちは同じような一定の型乃至は枠内に収まる指導をされてきたのではないのか」と、寧ろサッカーの教え方の基準が定まったのだろうと、認識しているのだ。

個性を磨こう:
全員が場所は違っても指導者の(全国?)共通の認識の下に基礎からサッカーを教えられて、育てられてきた成果ではないのかと言いたいのだ。だが、その裏側にあったことは澤さんたちのように自発的にその場その場でプレーを瞬時に組み立てて、相手のディフェンスが思いも及ばなかったような攻め方が出来たのだ。

その最上で典型的な例には、あの最終のアメリカ戦で同点にした宮閒と澤のCKからの決め方がある。あの2人だから瞬時にあのプレーに合意して蹴り込んだのだった。実は、あの形はその前の試合でも使っていたのだったが、流石のアメリカのディフェンス陣でも、またやってくるとは読み切れていなかった程の「スペシャル・プレー」だった。

教えられてこなかったこともやろう:
言いたい事は「現在の代表選手たちは型にはまったか、教えられたプレーは出来るように仕上げられてきたが、未だ澤+宮閒のコンビのような即興のプレーを生み出すまでの域には到達していないのではないか」なのである。

型通りのプレー一辺倒では相手のディフェンス陣に読まれてしまう確率が高くなって、得点力が上がっていかないのではないのか。これはシュート力の向上とは別の課題ではないのか。この辺りは男子の代表にも言える気がする。

結び:
彼女たちは「パリオリンピックで金メダルを目指す」と決意の程を力強く語っていたのは頼もしかった。その大目標を達成する為には、私は個性を磨いてその場その場で最善のプレー(フォーメイションかまたは形)を組み立てられるように研鑽を重ねて欲しいと願っている。大いに期待しよう。

なお、当方は「なでしこ」を使わない。それは、どうしても戦時中に使われていた「大和撫子」という余り思い出したくない「思い出」と重なるからだ。

続け様に英語の話をしよう

2024-02-28 07:38:57 | コラム
こういう言葉の使い方もある:

昨27日の投稿を読まれた畏メル友RS氏から次のように教えて頂けたので、今回は日系人のBJ氏に教えられた「自分で恣意的に言葉を創ってしまおう」という取り組みの例を挙げていこうと思う。それは「固有名詞を動詞のように使ってしまうこと」である。だからと言って、面白半分に試みない方が良いと思う。例えば「切り傷にカット絆をはった」と言おうと“I Band-aided a cut.”のように。

RS氏は

同ページには、I'll googled it. でグーグルで調べます。ともありました。googleが動詞になる。これは日本語のググるでおなじみのものでした。品格の問題は分かりませんが、なるほどと思った次第です。

と言われたのだった。

要点はGAFAMの重要な一社であるGoogleが「検索する」という意味に使われているのであり、これを聞いた人も読んだ人もチャンと意味が取れるのである。私は残念ながら、GAFAMが今日の隆盛を謳歌する前にリタイアしたので、アメリカにおけり言葉遣いの変化の実情から遠ざかってしまったので、彼等が“I googled it to find out, if it was real or not.”などと言うのを聞ける機会が無い。

そこで、思いつく限りの固有名詞の恣意的な動詞化の例を挙げてみよう。

Fedex:
言うまでもなく、アメリカの大手宅配業者であるFederal Expressの俗称である。これをアメリカ人たちは「宅配便で送ろう」という意味に使って“Fedex it to her.”などと「彼女に宅配便で送っておきなさい」という指示をするのだ。この遣い方は実際に聞いた記憶はあるし、一時は読みまくっていたArthur Hailyの経済小説の中でも使われていた。

ここで面白いと感じた現象があった。それは、アメリカこの種の小口の荷物の配送業界ではUPS(United Parcel Service)が最大手なのにも拘わらず、Fedexになっていることだと思う。もしかすると、“UPS it.”では語呂が宜しくないのかも知れない。

Xerox:
これも誰でもが知っていそうなコピー機の会社である。嘗てはゼロックスのコピー機が我が国の企業社会で最も広く普及していたのではないかと思う。今や、我が国にはどれ程多くのコピー機のメーカーがあるのかは知らないが、アメリカではXeroxが多かったと思う。前置きはこれくらいにして、Xeroxが動詞のように使われている例を挙げてみよう。“Xerox three sets of his trip report.”(=彼の出張報告を3組取っておくように)のように使えるのだ。

まさか、“Canon three sets.”とはならないのだ。なお、「コピーを取る」で注意する必要があることは、本来はrunが使われるのであり、“Take three copies.”とはならない点なのだ。他にも日本語では「取る」が使われる例に支払いを「クレディットカードで取って貰えますか」と言う時には“Do you honor credit card?”というのが普通で、takeは使わないのだ。「取ってくれますか」などと尋ねれば「ハイ」と言って獲られてしまうかも知れない。

2月27日 その2 また英語の話をしよう

2024-02-27 13:19:28 | コラム
アメリカのご婦人は“Oh my goodness!”と言った:

先ほど取り上げた「偶には英語の話もしよう」で書き損なっていた“Oh my goodness.”の実例があったので、追加しておこうと思う。それは、昨26日夜のテレビ東京の「日本に行きたい人 応援団」なる番組での事だった。

京都に日本人形制作の繊細にして巧緻な課程を勉強しようとして来ていた、かなり高齢と見たアメリカのご婦人が、顔を作る有名な職人の仕事場を訪れた時のことだった。彼女は一歩中に踏み込んだ途端に“Oh my goodness.”と“Gosh.”と感嘆の声を上げたのだが、私はその音声が聞き取れたのだった。彼女はチャンと品格を保ったので、“Oh my God.”などとは言わなかったのだ。Godを使わなかった事で知識階級にある人だと知らしめたのだと受け止めた。

以前から指摘してきたことで、こういう言葉遣いの問題点を知らずにアメリカ人の社会に入って行くと、この“Oh my God.”のような表現を頻繁に聞いてしまい、それが品位を欠く言葉遣いであると知らなければ、何となく格好良く聞こえて「じゃー。今度機会があれば自分でも使って英語が堪能であるところを見せようか」などという誤解と誤認識が生じやすいのだ。彼等が使っていたからと知っても、真似はしないことだ。Godが宜しくないのだ。

困ったことに、トランプ前大統領の支持層には低層の人たちが多いので、彼は意図的だと思って聞いているが、アメリカ大統領であるにも拘わらず、平気でswearwordを使っておられた。それを聞いてswearwordが何であるかを知らないと、つい真似したくなってしまう危険性が潜んでいるだろう。現に、そういう人たちの会話を聞いていれば、この種の言葉が「これでもか」と言わんばかりに多用されているのだ。

私が何度も取り上げてきた実例に「沢尻エリカの“Oh, shit.”」がある。これは、評判が悪くなってアメリカに語学研修と称して出て行った彼女が帰国した際のこと。成田空港で記者団に追い回されハンドバッグを落としてしまって“Oh, shit.”と叫んだのだった。

この“shit”が駄目なのだ。これは言わば汚い言葉の手っ取り早い代表格で、日本語にすれば「こん畜生」や「何と言う事か」や「くそったれ」というような意味の罵る言葉に使われている。これとその他のswearword即ち「汚い言葉」を使うことは「知識階級ではない」と自ら名乗ったのと同じ事なってしまうのだ。

繰り返して指摘しておくと「“Oh my God.”もswearword(例えばshitやGod damn it.やhell等)はnative speakerたちが使ったからと言って、無闇に真似をしてはならないのだと、十分に承知していてほしい」のである。

なお、swearwordではないが、会話の中に“you know”を挟み込むのも禁物である。このような話し方をするnative speakerは非常に多いので困る。この”you know”には「私は非知識階級です」と告白しているのと同じ効果があるのだから。英語には意外な落とし穴が待っていると知っていて欲しいのだ。


偶には英語の話もしよう

2024-02-27 07:23:47 | コラム
OMGって何の事:

President誌の3月15日号の表紙には“3語だけで伝わる「中学英語でどんどん話す」”と大きく掲げられていた。実は、未だ拾い読みすらしていないのだが、チラッと見えた69頁に「チャットが楽しめる英語・スラング10」としてある中に、件名に取り上げたOMGを発見した。解説ではOMGとは“Oh my gosh/goodness.→ポジティブ、ネガティブを問わず、日本語の「ヤバイ」のように、感情が大きくなった時に使えます。”としてあった。

大凡、その通りだと思う。このOMGを私は“Oh my God.”と広い意味で同じだと思っているので、随分と思い切った事を取り上げられたものだと、良い意味でも悪い意味でも感心している。だが、私は上記の解説だけでは不十分だとの恨みは残ると言いたい。以下に述べるように「無闇に使わない方が良い言い方なのである」と警告しておいて欲しかった。

このOMGとは本来は“Oh my God.”という上品ではない言葉遣いだと思う。私が知る限りではswearwordに分類されていないだけの好ましくない表現なのだ。即ち、インテリというか知識階層では使わない、品位に欠けた表現なのだから。

使われ方の解りやすい例を挙げれば、テレビに登場するタレントたちが何かに感動したか驚かされた時に「オーマイガー」と叫んでいる一種の感嘆詞である。英語を正しく教えられていないと、こういう言葉遣いに飛びついてしまうことが多いので困る。

私は使った覚えはなかったし、社内と言うか本部内の公式な場では聞いたことなどなかった。これについて、アメリカ人たちの中にいて自然に覚えたというか教えられたことは「これを言いたくなった場合があれば、一歩踏みとどまって、Oh my goodness.か、Oh my gosh.(goshはガーシュのような発音になる)か、単にGoodness.とだけ言うか、Oh my.か、Gosh.と言うかだ」だった。なお、“My goodness.”という言い方もある。

さらに言えば、上記に掲げたOMGの応用編は「英語での自分の思うところ、または意志の表現を淀みなく出来るような段階に入ってから使う方が良いのだ」と言っておきたい。即ち、「何とか単語を並べたら通じました」のような初歩的な段階にある人が「オーマイガー」などと言うのは釣り合いが取れていないというか「木に竹を接いだような形」で不自然なのだから。

英語には日本語のようなハッキリした敬語がある訳ではないので、このOMGであるとか、私がこれまでに繰り返してトランプ前大統領が使うのを非難してきたswearwordの類いを学校教育では単語だの文法だので家ではなく、こういうこともキチンと教えておかないと、何か格好が良い表現だと思って覚えて使ってしまう結果になる。

そのような話し方をすることは「私は知的下層階級に属する者です」と自己紹介したのと同じになってしまうのだと、十分に弁えていて欲しいのだ。なお「swearwordとは」との解説は今日までに何度も発表してあったので、関心をお持ちの方はお知らせ下されば、何度でも織り上げます。

2024年1月の新宿区の人口

2024-02-26 07:22:16 | コラム
2024年1月の東京都新宿区の人口は僅かに158人の増加だった:

先月にも取り上げた新宿区百人町(マスコミ報道式に言えば「新大久保」になる)の小さな古い低層のアパートの前では、泊まり客と思える数名の白人を、宿の主と思しき中年の女性が丁寧にお辞儀をして送り出していた。合法かどうか知らないが「矢張り民宿をやっていたのか」と眺めていた。宿を提供する方もする方だが、そこまでしても日本に観光に来て下さる方がおられるとは有り難いことなのかも知れないようだ。

何しろ、国を挙げてのことで、財源になるのだろうインバウンド様たちを歓迎し歓待しようとしている時代なのだから、私如きが目くじらを立てて違法だろうかなどと騒ぎ立てる程のことでもないだろうと思って観察していた。民宿営業の方が家賃収入よりも利益が上がるのだろうかな、などとも考えさせられた。

テレビの報道などを見ていると、我が国の外国からのお客様に対する親切さ、気配り、丁寧な扱い方、何とかして言葉の壁を打ち破ろうとする真摯にして懸命な努力(言い換えれば「英語が出来ないことを卑下する姿勢」かも知れない)等々を見ていると、インバウンド様たちが「知らなかった国・日本を心地よく満喫している様」が良く解る。

私に言わせれば「世界20ヶ国を歩いてきたが、我が国程遠来の客に気を遣って気に入って貰えるように親切にしている国は無かった。何処に行っても全く素っ気ない扱いと言うか、特別扱いをされた記憶など無かった」のだ。我が国のように何処に行っても交通機関で日本語に加えて英語、中国語、韓国語の掲示板など見たことがなかった。空港のアナウンスだってその国の言葉と英語が聞こえてくる程度。我が国とは親切・丁寧さの度合いが違うのが普通。

話題を人口に戻そう。24年1月新宿区の人口は対前月比で158人即ち0.45%の増加で349,384人となっていた。その内訳は日本人が△72人で305.257人、外国人は230人の増加で44,127人となっていた。外国人が全人口に占める比率は12.6%となり、昨年12月の12.57%よりもほんの少しの増加だった。なお、昨年の11月の12.55%との対比でも微増だった。

先月は「レイシャル・プロファイリング (racial profiling=警察官や保安官といった法の執行者が特定の人種や肌の色、民族、宗教、国籍、言語といった属性にもとづいて個人を捜査の対象とすること)を取り上げたが、2023年になってからのここ新宿区大久保と百人町界隈に押し寄せてくる外国人の増加ぶりは最早異様だと言いたくなる段階にある。彼等が何をしにやってくるのかが未だに解らない、イスラム教徒を除けば。

それ以前には、彼等が目指すのは山手線の内側のKorean townに限られているようだったが、昨年末辺りからは我々には読めない中国の簡易体の漢字の看板を掲げる料理屋が目立つようになってきた。4万人を超える外国人の中でも中国人が多いのだから、当たり前の現象かも知れない。だが、不思議に思うことは中国人、韓国人、イスラム教国の者たち専用のクリニックなどついぞ見かけない。中国人が経営する美容室は少なくとも2軒見かけるが。

毎月同じ事を言うが「イスラム国系やアジア系の人たちが、どのようにして物価上昇を克服して我が国で悠々と生活していられるのかと不思議に思えてならない」のだ。中には乗用車や電動アシスト付き自転車を乗り回している者もいるのだ。今週はイスラム横町に大型の他県ナンバーのTESLAが路上駐車していた。乳幼児をベビーカーに乗せて買い物に来る家族も見かける。彼らにとっては我が国が楽園なのかと疑っている。

新宿区百人町/大久保界隈に顕著に表れた現象は、日本人向けの蕎麦屋のような料理屋、八百屋、魚屋、惣菜屋のような小売店/商店が続々と廃業してしまって商店街が消滅した上に、銀行の支店もなくなってしまった状態なのである。このような不便な事になるまで行政が拱手傍観していたのは、私は怪しからん事だと見ている。

締めくくりに毎月のように同じ事を言おう。それは「国と都と区の行政を司る方々は、是非一度山手線新大久保駅に降りたって、改札口を通過して、外に出て見て下さい」なのである。構内の外国人の凄まじいばかりの大混雑で移動できずに「ここは何処か外国か?」か「何でこのようになってしまったのか」を実感して「何とかしなければ」と考えるようになって貰いたいのだ。

参考資料:新宿区広報24年2月25日号