新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

to take strong bargaining position

2014-10-31 16:43:17 | コラム
外務省の平壌での交渉に思う:

伊原局長は”strong bargaining position”を取れたのかと思った。

私は拉致家族被害者の会が「もう少し強く出て欲しかった」と嘆き、事前に実りが少ないのではと懸念したように、あの平壌での徐大河委員長まで素顔を見せた会談での伊原局長の姿勢には、テレビ画面に見る限りでは「何としても北朝鮮を説き伏せて結果を出す」という強気の姿勢が見えず、ただひたすら紳士的で「論争と対立」を避けようとしていた綺麗さがあったとしか私には思えなかった。(失礼!)

私は仕事の性質上、20数年間我が国の得意先である有力な企業を代表する方々と、時には誇張した表現をお許し願えば、「命の遣り取り」のような厳しく恐ろしい交渉を何度も何度も繰り返してきたものだった。と言うことは我が国には多くの国際交渉の歴戦の猛者がおられ、それほど難しい交渉でも一歩も引かずに、言わばアメリカ式の「これを言うことで失うものはない」と押して出られたり、論争を怖れずに突っ込んでこられるのに幾度も出会ったのだった。

私が失礼を顧みずに言わせて貰えば、伊原局長が外務省で高官になられる前に我々がビジネスの世界で経験してきたような対外的なきつい交渉を経験して来られたのだろうかという疑念である。私にはテレビカメラが入っていた間の局長の顔からは飽くまでも礼儀正しい外務省的な優しいというか何かを懸念したかのような穏やかな表情しか読み取れず、「国の為に何としてでも」という風には感じ取れなかった。勿論、私が読み違っていたのでカメラ不在の場では眦を決して交渉されたと思っているが。

掲題の”bargaining position”とは、ジーニアスには「(交渉・取引上)の立場、状況;発言力」とある。我々は単に”to take bargaining position”と言えば「交渉で有利な立場に立つ」という意味で使っていた。それを一層明確に言いたければその前に”strong”か”better”をつければ良いだろう。これを採って交渉を進めるのが重要な成功への鍵となるのだ。

そのポジションを取って交渉を有利に進める為には「先手必勝でまくし立てて、相手に反論する機会を与えない」であるとか、それこそ「論争と対立を怖れることなく、自己(あるいは自国か自社)の立場から議論を推し進める」という方法が普通だ。即ち、勝つか負けるか、当方の言い分を通すかが、国際的な交渉であり、妥協や中間点を採るなどということを最初から頭の中に置いてかかってはならないのだ。

そういう難しい交渉の場に責任者ないしは担当者として数多く経験すれば「外国人何するものぞ」という慣れと度胸が備わってくるものだ。即ち、話し合いの間に譲ってはならない一線が何処にあるかが自然に読めるようになり、相手の論旨の綻びも見えてくるものだ。感情論にも流れていかなくなるものだと私は考えている。

故にと言うか何と言うか、伊原局長がこれという拉致被害者の家族を納得させられるような結果を持ち帰らなかった(あるいは結果は出してあっても公表は控えたのかも知れないが)のは、この”bargaining position”を取り切れずに寧ろ国際的交渉に馴れた狡猾な北朝鮮側に押しきられたのではないのかと懸念するのだ。私の推測がが間違えていれば良いのだが、彼等は伊原局長の上品さに付け込んだのではないかとすら疑っている。

私は北朝鮮側は遺骨採取や日本人妻問題を優先していたと述べても何ら失うものがないと読み切って出てきたのではないかとすら疑っているのだが、読み違いであって欲しい。次回の交渉では是非とも「これで失うものなどない」という姿勢で出て、何としても”bargaining position”を採って議論を進めて貰いたい。

何が起きるのか先が読めないのが野球

2014-10-31 08:42:30 | コラム
思いがけない終わり方だった日本シリーズに思う:

私は日本シリーズを見終わって、矢張り「強い方が勝つ」という原則の通りだったと思っている。だが、この原則は思いもかけない形で立証された。私にはそこまでは読めなかった。

プロ野球中継の解説者という名の説明者(勿論、そうではない立派な者もいるが)は屡々「掲題のように言う」が、「筋書きのないドラマ」との表現もある。昨30日夜にソフトバンクの勝利で終わった日本シリーズの第5戦は、何とまさにその解説者が言う通りのような結末だった。先が読めないのが野球だけではあるまい。嘗て「政界は一寸先が闇」と言った者がいたではないか。

私はこのシリーズのように(巨人が出ていないので)何れのティームの肩を持つのではなく、どれほど良い野球を見せてくれるかを主たる関心事としてテレビ観戦するのが楽しみなのである。第1戦が終わったところで、所詮はこの試合を落としたホークスのものだとは思ったが、タイガースが何処までやってくれるかにも関心があった。

昨夜もホークスが何度もチャンスを逃す場面を見せつけられて、ひょっとするとタイガースが甲子園に戻れる機会が訪れるのかなとも感じてはいた。だが、何回だったが記憶はないが、タイガースが2度も盗塁に失敗したのを見せつけられて、あそこまで勝負に出ても失敗したようでは流れはホークスに傾かざるを得ないかと見ていた。

そこにあの9回表の抑え役としてホークスが送り出したサファテの3連続四球で作りだしてしまった「ワン・アウト(ワンナウトでも良い)満塁のチャンス」が出てきた。しかもそこで出てきたのがアメリカで内野手失格年と送り返された(?)西岡だった。私はホークがダブルプレーで逃げ切ることもあるかとは思ったが、西岡は足は速い部類なのでそう簡単にはいくまい。だが、ホークスはこの場を逃げ切ると読んだが、如何なる形でまでは見えてこなかった。

そこに一時はあのダブルプレー崩れでタイガースが追いつけたかの見えた、細川の一塁送球が西岡の背中に当たった場面が起きた。ところが、ホークスの連中は「勝った、勝った」と喜んでいるのを見て、言うなれば狐につままれたような感じだった。私にはテレビ画面からは西岡がラインの内側を走っていたのは解らなかった。審判の判定を聞いて「なるほど、こういう逃げ切り方もあったのか。矢張り運は強い方に流れるものだ」と納得した。

タイガースは何を思ったのか、西岡の他にアメリカに出て行って結果を出せずに戻ってきた福留も雇っていた。福留はシーズン半ばまでは2割2分台の低打率で「タイガースは何で使い続けるのか」とまで批判されたほど不出来だった。西岡はご存じの方は多いと思うが、MLBでダブルプレーを避けて滑り込んできた走者にぶつかられて骨折し長期欠場していた。

この両名の他にも野手としてアメリカに出て行って失敗に終わった例には岩村、田中(賢)、中島等がある。尤も、イチローは別格としても田口や青木のような成功の部類に入れて良い者もいた。私が問題にしたいのは、向こうで成功しなかった者が日本の球界に復帰出来ても何故か渡米前ほどの結果が出ていないことだ。

私はその不成績の原因は「あの外国人の世界に入って思いもかけなかった生存競争と、Darvishがいみじくも指摘した『異種の競技の世界』に適応する為に神経を磨り減らされて、言うなれば骨抜かれの状態で戻ってきた為である」と見ている。それだけはなく、言葉の問題もあっただろうし、体格差への挑戦も予想した以上に厳しかったはずだとも見ている。

回りくどい言い方になったが、タイガースの敗北の一因にこのアメリカ帰りの両名の力不足があったと思う。彼等への依存度が高すぎたのでは投手以外には輸入者が少ないホークスの歩があったと思っている。李大浩は外国人ではあってもアメリカ帰りではない、念のため。このような弱点はあのようなこれという重大な場面で、あのような形で現れるのが勝負の怖さだ。

尤も、西岡がラインの外側を走っていれば「残念、ダブルプレーだった」で終わって後味が悪くならなっただろうが。百戦錬磨だったはずの者が、あのような初歩的規則違反を犯す辺りが問題ではないのか。

私はあのように予測できなかったような終わり方で勝ったのではあっても「勝負に番狂わせはない」と「勝った方が強いのだ」と「勝ちに不思議あり、負けに不思議なし」の大原則はホークスの勝ちにも当てはまるし、証明されたと思っている。

小渕優子に見る女性活用法

2014-10-30 15:36:52 | コラム
遂にマスコミが小渕優子の議員辞職まで言い始めた:

結論から言えば、私は「小渕優子のこの度の不始末は、安倍総理の念願である「女性活用論」だけの問題ではなく、小渕優子という特定の女性の使い方を誤ったことが主たる原因であると同時に、彼女自身が自らの未熟さの責任を負うべきものだ」と考えている。言うなれば「所管する官庁が何処であれ、大臣向きではない未熟な素材だったこと」が最大の問題だった。

私は9月14日に既に女性の活用法を論じており、それをあらためて要約すれば「女性の質も適性も千差万別であり、その向き不向きを見誤るか判断を間違えて起用すると、折角の女性が持つ如何なる男性も敵わないような優れた天賦の才を活かし切れない結果に終わるものだ。男女はお互いにその至らざると言うか欠陥を補い合い、長所を見抜いて活用するというか相互に補完し合うのが最善ではないだろうか」となる。

やや長くなるが、その9月14日の一文を如何に引用するので、ご面倒でもご一読賜りたい。

>引用開始
(前略)
私がW社でリタイヤーするまで12年間も遣えた?秘書の女性には素晴らしい能力があった。それが何処にあったかと言えば、秘書として仕事の裁き方以外に、ボスとして私の性格の至らなさを完全に(私の性格、趣味嗜好、余り他人様に気付かれていない人嫌いというか人見知りする傾向がある等々の欠陥に至るまで)把握し、私には出来ないことを補完してくれていたことだ。(中略)
私は毎日彼女が練り上げてくれた予定表に基づいて動いていれば良かっただけで、秘書が育ってくれればどれだけ有り難いかを痛感している日々だった。引退する時などには、多くの秘書から「これから先に彼女なくして生活していけますか」と皮肉られたほど依存していたものだった。

正直に言えば、何も女性に限ったことではなく男性にも日本の会社式の管理職に不向きな人はいるものだ。私などはその一人だっただろうと自認しているつもりだ。彼女は私の営業しか出来ない能力を見抜いて、私をその支配下におき、どのように仕事を進めさせれば二人で最高の成果が上がるかの舞台を設定してくれていた。私はその彼女の掌の上で踊っていれば良かったと言えるかも知れない。

彼女の事業部の仕事に対する理解と認識の度合いは高く、取引先の担当者の人物評と評価の適切さには男性にはない鋭さがあって、私はそこに依存することで無事に好関係を樹立出来た得意先の担当者もいたほどだった。

即ち、男性のマネージャーと女性の秘書の間で相互にその特徴を活かして補い合えるのが、職場と家庭またはそれ以外を含めての、男と女の存在というか間柄だと思っている。換言すれば、指導者や管理職の地位に据えることが、必ずしも最善の女性の能力の活用法ではないのではないかと考えているのだ。

私は総理に「そういう男性の至らざるを補って最大の効果を挙げる高い能力を持つ女性を、如何に活かしていくかもお考え願いたい」と思っている。そして、その女性を適材適所で活用し、地位を与えられない場合は、その高い補完と補助の力を活かし、地位(=rank)の代わりに所謂『禄を以て報いよ』で対応して行かれたら如何か」と考えている。(後略)
>引用終わる

引用の方が主体であるかの如き論じ方になってしまったが、私は総理が上記のような視点に立って女性の活用をお考えになった方が、より良い成果が(民主党如きに批判されないように)上がるのではないかと、烏滸がましくも密かに考えているのだ。実は、私は松島みどり起用と聞いた途端に否定的な議論を展開した。その根拠は単に彼女が某新聞の出身だということだけではなく、あの種の職業の方には往々にして何処か自分が一般人よりも偉いものだという錯覚をしている人が多いので、危うしと思ったのだ。それ故に、あれは失敗人事だと考えたのだ。

国歌は皆で歌え

2014-10-29 17:33:47 | コラム
クラシカルの歌手が起用された日本シリーズ第3戦:

昨28日夜は福岡のヤフオクドーム(こんな名前になっているとはついぞ知らなかったが)に移った日本シリーズの第3戦をNHKのBSで観戦した。この試合で良かったことは開始前の国歌を小泉という女性ソプラノ歌手に歌わせたことだった。非常に良い歌い方で本当に暫くぶりに国歌を聴いて感動した。

先ずはサッカー協会のよに奇妙な流行歌手に歌わせずに本格的なクラシカルの歌手を起用したこと(国際試合で和田アキ子に歌わせた不見識なことをする協会だ。非難する理由は解って頂けると思うが)で、次は最初の「君が代は」のところで「が」が綺麗に鼻音化されていたことが良かった。聞きやすかったし、綺麗な伴奏無し(カタカナ語では「アカペラ」)の独唱だった。国歌を歌わせる時には斯くあらねばなるまい。

一方のアメリカでは、 World Series なるものも佳境に入り、連日力対力の壮烈な打ち合いが続いている。私は自慢する気はないが、お陰様でアメリカでは野球、フットボール、バスケットボールのプロと学生の試合を数多く見てきた。ここでも試合開始前に国歌が色々な歌手によって歌われる。だが、嘗て業界の専門誌のコラムに書いたことだが、1990年代にあの “Oh say can you see ~”で始まる国家を歌うのは歌手だけではなく全観衆が起立して楽しげに超えたからかにに歌うのだ。これがあるべき形だろうと思う。

我が国では何とか言う反国家的な組合があって、国旗掲揚と国歌斉唱を否定と言うか拒否して大問題となっていた。その為だろうが、我が国は立ち上がらない奴もいれば、肝心の国を代表する選手たちの中にも口を閉ざしている者がいる始末だ。アメリカでの全員で歌う場にいて、この何とも嘆かわしい事態を思う時に、一度不覚にも落涙したことがあった。自分自身で「俺はこれほどの愛国者だったのか」と寧ろ感動してしまった。

それを横から見ていた嘗ての上司が「アメリカの国歌の為に泣いてくれて有難う」と握手を求められ、大いに混乱したものだった。アメリカであのような全員で歌場面に出会った方もおられるとは思うが、私は我が国でもこの点だけはアメリカを見習って貰いたいと願っている。

アメリカという国では「何処に行っても大小を問わず国旗が掲揚されているし、国民が国旗に対して敬意を払っており、国歌の独唱には和していく。これは勿論良いことだが、私はアメリカのように色々な国から移民してきた者たちを先祖とする国民が多く、また周辺の諸国やアジアからの流入が止まらない以上、何か中心になるものを設けてその下に国民が集うような形を採っているのだと考えている。この点が我が国と大いに違うのだ。

それだけではなく、野球の場合は “7th inning strech”と称して、皆が楽しげに “Take me out to the ballgame ~”を歌うし、荘厳にも聞こえる “God bless Ameica”の斉唱もある。あのアメリカ独特の文化というか雰囲気は何度味わっても楽しいもので、「出来るものならばまた行ってみたい」と思わせてくれる。

だが、私は我が国の野球でもサッカーでも多くの観衆が鉦や太鼓の鳴り物に主導されての騒音にも似た応援には辟易となってあの場にいたいとは思わない。アメリカ式の底抜けの明るさと一種の軽さを採りたいのは何故だろう。何れにせよ、全員で国家を心から国に対する尊敬の念を表して歌うようになる教育を普及させて欲しいと思っているのだ。

国立国際医療研究センターで思ったこと

2014-10-29 08:23:45 | コラム
マスコミは撤退し始めていた:

昨28日は午前8時48分頃に国立国際医療研究センター(NCGM)の入り口に到着した。そこには未だ数台の中継車が残っており撤退の準備中のようだった。しかし、今年の5月だったかに改装の他に大拡張された1階の大広場には、未だカメラを構えた者が数名残っていた。

NCGMがどれほど「リニューアル」されたかと言えば(実はここでまたカタカナ語論だが「レノヴェーション」=”renovation”の方が適切だと思う)地下の広場から3階まで中空となり片側ににエスカレーターと反対側にエレベータが設置され、今にも「私失敗しないので」と言って米倉涼子扮する大門未知子医師が出てきそうな豪華さだ。

カメラが狙ったのだろう40歳台のカナダ国籍の(日本人?)ジャーナリストは何処にも出ていかずに、隔離病棟(病室?)に留め置かれるようだ。NCGM側も要らざる混乱が生じないように配慮してマスコミが勝手に振る舞わぬように警戒態勢を採っていたと察する。だが、あの隔離され慎重に検査されている者を狙って何らかの特ダネになるかは、私には疑わしいとしか思えなかった。

私には1ヶ月も危険な地域に滞在したジャーナリストの意欲のほどは何となく解る気もするが、その後に未だ方々の空港を経由して我が国に入ろうとした無神経さに危険を感じる。あれが羽田空港だったからNCGMに送り込めたが、他の地方空港で検疫態勢が整っておらず、近くにNCGM級の病院がなかったところに降り立っていたらどうだったかを考える時に、矢張りEbolaの恐ろしさを感じてしまうのだ。