カタカナ語と和製英語(=造語)は問題点だらけ:
カタカナ語と和製英語(=造語)を良く見れば「我が国の英語教育の不備である為に、本当の英語からかけ離れたおかしな言葉が創り出されてしまった主たる原因になっている」と痛感させてくれる。私は「学校教育の何処かの時点で『英語とは日本語と発想も違えば文化も異なる外国語である』ということを正しく教えておくべきだ」と指摘してきたが、未だに実現していない。
カタカナ語の粗製濫造と濫用:
私は我が国でカタカナ語が余りにも数多く、恰も本来の日本語であるかのように使われているのは宜しくないこと思う。何故、宜しくないかと言えば、使う人たちがおかしな言葉だと思わずに、英語だと思われるのか、格好が良いと錯覚でもするのか、嬉々とし使っているからだ。
だが、子細に観察してみると、日本語には漢字・平仮名・片仮名・ローマ字が自在に使われていて融通無碍であり、カタカナ語までもとりいれてしまっているという素晴らしさすらも見出したのだ。そこには、新たな言葉を産み出してきた先人の知恵と現代人の優れた想像力との不思議な融合には尊敬の念すら抱かせられそうになる。
このような英語等の外国語の表現をカタカナ語化させた言葉を「外来語」と呼ぶとか「和製英語」(私は「英語擬き」だと思う)と称しているようだ。その多くはすでに日本語として戸籍を得てしまい、今更外国語が基になっているのだから排斥せよ、排除せよと迫るのは手遅れの状態なのだ。
嘗て、故渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」に「カタカナ語無用論」を投稿したところ、その反対論が押し寄せた。要するに「今更それを否定することはない。このまま使い続けよう」という意見が多かった。正直なところ「散々濫用していながら、何を言うか」とウンザリさせられた。要するに、多くの方が重宝に使っているという事だ。
和製英語(造語)であること:
「カタカナ語を使うのは各人の好みと自由で勝手になされば」とは思う。だが、カタカナ語は純粋な日本製の言葉であり、英語とは全く無関係であるという事実を忘れないことだ。即ち、外国人との「英会話」の中で使っても「通じる言葉ではない」と承知しておくべきなのだ。その前に必要なことは「この言葉は本当に英語なのか」と疑って英和辞典を引いてみて欲しい。
カタカナ語については私が何時も不思議だと痛感していることがある。それは、私が20年以上もアメリカの企業で働いている間に一度もアメリカ人たちが使うとか、私が使おうと考えた事もなかった文語乃至は難しい単語を、カタカナ語にしてしまっている現象だ。良くそんな難しい単語を引っ張り出してカタカナ語化したものだと、感心させられている。しかも、その手のカタカナ語を遍く国中で使うように広めてしまっていたのも凄いと、呆れている。
いくつか例を挙げていこう。「バリヤーフリー」などは、聞いた時には「こんな英語もあったのかな」と危うく信じるところだったほど、上手くできた造語だった。日本語の「バリアフリー」は、英語では一語で accessibleが最も自然で広く使われている。「バリアフリー」と聞くと「段差がない、手すりがある」など具体的な物理的配慮を指すことが多く、英語の accessible とは違うのだ。
単語重視の英語教育:
このような、理解不能なカタカナ語化してしまう現象は、我が国に学校教育における「単語偏重」に大きな原因があると信じている。ここでもこの例を一つ挙げておくと、“collaboration”をカタカナ語化しただけではなく、「コラボ」という略語まで創造したこと。信じがたい濫用だった。これは「文芸・科学等の分野で協力または共同作業をする」という意味の単語だ。言い換えれば“work together with”である。私は「こういう言葉がある」とは承知していた程度で、使ったこともなかったのに、テレビ局などでは日常的に使っているのだから凄い。
スポーツ界で:
ここでも傑作は多いと言えば失礼に当たるかも知れないが、ラグビーにもあるのだ。反則に「スローフォワード」(=throw forward)があるが、この言い方だと「前に投げろ」と命じている」のである。正しくは“Forward pass”だろう。「ノット・リリース・ダ・ボール」も同様で「ボールを離すな」になってしまっているのだ。これらは「文法的な誤り」である。
アナウンサーも解説者も平気で「キャプテンシー」(=captaincy)と言うが、これは「キャプテンとしての地位または役目」という意味。“captainship”と言えば「キャプテンの資格と統率能力」という意味になると思う。何でも単語の終わりに“y”を付ければ良いのではない。
何故私がこのような主張をするかと言えば、「言葉は耳から入った場合に覚えられやすい」のであり、カタカナ語などが無見識に濫用されると、影響が非常に強く広まってしまうのだ。テレビに登場するコメンテーター、有識者、学者、スポーツ等の解説者、議員等の社会的に権威ありと認知されるかあるいは尊敬されている人たちが、無意識に使うかあるいは誤用する傾向がある。
一般人はそれを素直に受け止めて世界にも通用する英語だと誤解して覚え、使ってしまう結果になる事すらあるのだ。この際、非常識に使っているマスコミと、何も知らずに使っているテレビ・タレント等も世間に悪影響を与えていると自覚させる必要があると言っておきたい。
ここで、改めて「カタカナ語と和製英語(=造語)」の生い立ちを考えてみる。そこには英語のように「表音文字」を使っている言語と、日本語のように漢字のような「表意文字」も使っている言語との違いがある。そこに文法の違いが加わるのだから始末が悪くなる。
更に、日本の学校教育で英語を科学として取り扱い、しかも「生徒を5段階で評価するために教えて、話せるようにすることはその目的ではない」とする方針で英語を教えるのが宜しくないのだ。結果として、カタカナ語の粗製濫造から濫用になってしまったのである。
文法を無視する:
勿論、「文法無視」は良いことではない。その昔にテレビ漫画に「エイトマン」というのがあった。無理矢理英語でスペルすれば“Eight man”となる。これを見たアメリカ人が「8人ならば“men”ではないか?」と疑問を投げかけた。すると作者は「8番目の男」という意味であると答えた。アメリカ人は「それならば“8th またはEighth man”ではないか?」と追いかけてきた。すると作者は「もう、これで十分通用しているのだから、どうでも良い」と答えて終わったそうである。これぞ、我が国の誤った英語教育の芳しくない成果である。
次が「単語を並べた」例を挙げたおこう。困った使われ方に「ヒーローインタビュー」がある。これはテレビのプロ野球中継に屡々出てくる用語。私はこれを「英語は話せないが、兎に角単語を並べたら何とか通じた」という範疇に入れておきたい。同時に文法無視でもある。だが、我が国の野球ファンでテレビ中継を見ていて、これが何のことか解らない人はいないだろうと言って誤りではないほどに、日本語としての「戸籍」を得てしまった。
英文法から見れば「目的語であるヒーローが先に出て来る日本語の語順で言葉を並べてしまった例で、学校教育の主たる目的だったはずの英文法はアッサリと無視された」のである。強いて英語にすれば「“interviewing the hero”となる」と思う。ここには漢字を幾つか重ねて熟語を作り出す日本語の感覚が応用されているのではないか。何故「ヒーローに聞く」ではいけないのかな。尤も「ヒーロー」だってカタカナ語だ。発音記語彙通りならば「ヒアロウ」に近いと思っているが。
ローマ字読み:
「ウルトラマン」という有名なテレビ漫画がある。英語で書けば“Ultra man”である。英語では間違っても「ウルトラ」とは読まずに「アルトゥラ」に近く、アクセントは「アル」に置く。私が近頃忌み嫌っているローマ字読みに“security”を「セキュリティー」と言い、そう表記している悪い例がある。原語のままにカタカナ表記すれば「セキュアラテイー」なのだ。
言葉の誤用:
「フリップ」を取り上げよう。これはテレビで「表」、「図表」の意味で使われている。資料か統計を示すのである。しかも、世間に名の通った有名人たちも「フリップ」と呼ぶのには哀しくなる。何故かと言えば、恐らく英語のflip chartのことをflipだけを取って「フリップ」にしてしまったのだろうから。“flip”には『ページなどをめくる』という意味があるが、表でも図表でもないのだ。“flip chart”では「めくっていく表」なのだ。
次は方向を変えて「ナイーブ」(naïve)を。英語圏の人にYou are naïve.”等と言えば、殴られても仕方がないくらいの誤用である。英語の感覚では、殆ど「バカ」という意味であると覚えて置いて貰いたい。「プライベート」(private)も困った誤用だ。この言葉には「私生活」という使い方はない。ジーニアス英和にも「試用の」とか「個人に属する」と「私有の」とは出てくるが。他には「兵卒」という意味はあるが。「プライベートは当人に任せている」などは意味不明ではないかな。
「発音」の問題:
例えば、大谷翔平君でお馴染みのLos Angelesの“Dodgersは、断じて「ロサンゼルスのドジャース」ではないのだ。英語では「ローサンジェルスのダジャース」とすれば最も近くなる。Bessent長官も「ベッセント」とは発音しない。英語には「跳ねる音」はないので「ベセント」とする方が英語に近いのだ。
言葉の分類の範疇だが、Sit down, please.”を絶対に「シット・ダウン」のように発音しないことだ。「シット」を素直に英語として綴れば”shit”となる。これは松本清張が誤解・誤認識していた「スラング」ではなく「汚い言葉」=“swearword”に分類される。アメリカの支配階層にある者や教養ある知識人が絶対に公共の場では使わない、使ってはならない言葉の代表的な表現の一つである。こういう発音を教える学校の先生方の猛省を促したい。“shit”が何を意味するかはここには書かないことにする。
カタカナ語無用論を語り始めればキリがないので、今回はここまでに止めてまたの機会に譲ろう。