多事な一日だった:
昨日は私の目から見れば「多事」(=eventfulとでも言いたい)な日だった。その辺りを時間の経過に従って取り上げていこう。
野球という競技の面白さと恐ろしさ:
Dodgersの山本由伸があと一人で「ノーヒットノーラン」を完遂し損なった。午前中にブログの構想が纏まらぬ儘にPCの前にいた時の事。二男から「9回の裏も山本由伸が投げるだろうが、ノーヒットノーランが懸かっている」と、知らせてきた。急いで仕上げてテレビの前に。
山本は緊張の表情だったが、順調にtwo out(「ツーアウト」とは言いたくないので)を取った。私の得意とする「閃き」では、どうしても完成しないと出てくるのだが「何とか完遂させてやりたいな」という思いで見ていたのだった。「駄目かな」と半信半疑で、最後にOriolesのトップバッターが登場するのを見ていた。
確か所謂4seam(=速球)だったと覚えているが「真ん中やや低目」に入った。左打者が思いきり振った。上がった角度を見て「不味いなー」と思ったが、外野手が追いかけているので取る気かと思った。だが、何処かに当たって跳ね返ってきた。ホームランだった。「あと一人」でやり損なった例がいくつかあったと思うが、昨日の山本の場合は、残酷な事がある野球という競技の難しさを見せてくれたのだった。
そこまでの山本は球速も出ていたし、運命の流れの難しさで手元が狂ったのか、狙ったところに行かなかったのかと見た。未だ行けるかなとは思えた。だが、ロバーツ監督が現れて、山本は素直に去って行った。実は、ここで「Oriolesの逆転があるのでは」と閃いたのだった。二男のことが終わってからの意見は「山本を変えない方が良かった」だった。
そこまでで、4連敗中だったかのDodgersは「運」にも「ツキ」にも見放されたようで、サヨナラ負け。野球というmomentumの競技では、一旦「勢い」というか「弾み」を失った場合には、取り戻しが効かなくなると言う典型的な例になってしまった。8回3分の2まで良く投げていた山本君には気の毒だったが、立派だった。彼は未だ若いし先がある。またやれば良い。
石破茂総理総裁の辞意表明:
午後になって何時頃だったか、何気なく見たYahoo Newsに「石破総理が辞意を表明の意向」と出た。何とはなく「唐突」の感はあったが、来たるべきものが来ただけという印象。暫くしてから「記者会見が6時から」と追加された。何故か「ホッと」した感があった。石破さんについては「毀誉褒貶相半ばする」と形容するのは当たらない気もする。だが、それなりにやりたいことをやり遂げたかに見える。
極力冷めた目で見れば「石破茂という方は『政治資金規正法に基づく収支報告書不記載(「裏金」は朝日新聞による造語で、意味が違うのである)』で自由民主党の規律を乱した党内の反対派の旧安倍派の処分(粛清?)を、徹底的に実行した総理総裁だった。党内の基盤が脆弱と言われる石破氏はこの処分の結果で益々足元が揺らぎ、何をやっても評価されず、世論調査でも支持率は低下の一途を辿った。
そこに、天から降ったか地から湧いたか「トランプ大統領のtariff攻勢」という、石破首相が言うところの「国難」がやってきたのだった。しかも、事もあろうにトランプ大統領とその忠誠心の塊の閣僚たちは「税率引き下げの交渉を許す」という高飛車な姿勢で、さらに攻勢をかけてきた。
あの陣営が相手では、どれほど有能な方が交渉しても簡単に「埒が明く」性質ではないのは明らか。赤沢亮正大臣があれほど回数を重ねて交渉に赴かざるを得なかったのも止むを得まい。その長期にわたった交渉が決着し、文書にまで仕上げたところが、石破さんにとっては退任を表明する大きな動機になったのではなかろうか。80兆円もの理不尽な投資を飲まされたという見方もあるが、何分にも相手はトランプ政権だったのだ。結果を評価して良いのではないかな。
だが、財務省の伝声管の如きだという厳しい批判もあった森山幹事長という存在も、個人的に評価すればマイナスの面が勝っていたと思う。上手く纏めるとか、野党とのパイプがあるとか言う程度の党人派の政治家が牽引できる時代ではなかったのだ。石破さんは頼るべき人材の選択を誤ったのだと断言したい。岸田さんが「検討する」だったが、森山さんは「財源がない」以外に台詞を知らなかった。
タイガースのセントラルリーグ制覇:
昨夜は何となく「六甲おろし」という古関裕而のメロデイーを聞こうかと、甲子園球場を一周するパレードまで見ていた。就任の1年目で優勝した藤川球児監督も評価したいが、個人的にはジャイアンツを17ゲームも引き離してくれたので気分爽快だった。私は何をさて措いても、タイガースの投手陣の働きを賞賛したい。数少ない(?)先発投手陣を救援の投手たちの獅子奮迅の活躍で優勝に持っていったのだった。
私は近年のプロ野球も、Jリーグのサッカーもあの「贔屓の引き倒し的」な応援の在り方を大いに疑問に感じている。昨夜のように広すぎる甲子園の客席をタイガースファンが埋め尽くし、一斉に歌いまくり踊りまくるのは一種の「文化」なのだろうが、私の好みではない。あの応援は恐らく東京六大学野球で始まったのだと推理する「応援団」の動きから派生した動きだろうとみている。
NPBの野球は「自分たちの好むどころか、既にそういう次元を遙かに超えた『我らがティーム』を、声をからし、応援歌を歌いまくる集団のための競技」になってしまっている。Baseballという競技の技術や戦術を鑑賞して楽しむ為に見に来るのではなく、応援することを楽しみにしているとしか見えない。もしかすると「日頃の憂さ晴らし」か、当世風に間違って言う「ストレス(本当はフラストレーションだが)の発散」なのかもしれない。
もう見に行ける機会はなくなってしまったが、MLBやフットボールのNFLを観戦に行けば聞こえてくる、アメリカの目の肥えたファンたちの、説者も遠く及ばないような適切且つ冷静なプレー毎の批評が懐かしくなる。何かにつけてお祭り騒ぎをする傾向があるアメリカ人たちでも、我が国よりも静かに観戦しているのは、矢張り「文化の違い」と割り切るのだろうか、それとも「応援団」という文化を讃えるべきか。