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新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月21日 その2 続・今更ながらのカタカナ語無用論

2025-08-21 11:33:36 | コラム
実は「ボリューム」は誤用なのだ:

このカタカナ語「ボリューム」(=volume)は、先ほどの長編とは別に取り上げた方が良いかと考えた次第。このvolumeにはカタカナ語が意味する「数量または分量が多い」という意味はないのだ。それを、何処でどう勘違いしたのが本来の意味から離れてしまったのである。

Oxford English Dictionaryには“the amount of space that an object or a substance fill;the amount of space that a container has”と出ている。解りやすく言えば「容積」で「容器の容積」の事だと出ているのだ。それにも拘わらずカタカナ語では「数量か分量」の意味にして、ボリューミーなど言う造語まで作られてしまった。ジーニアス英和にも「容積、容量;体積」と出ている。

それでは、英語で「数量」か「分量」をどのように表現するかを考えて見よう。この際、ChatGPTの知恵を借りることにした。

>引用開始
日本語で「ボリュームがある/ボリューミー」と言ったとき、多くの場合は 「量が多い」「食べごたえのある」 という意味ですよね。これは確かに volume の本来の意味(容積・体積・音量など)からは外れています。

英語で「食事の量が多い/分量がしっかりある」と言うなら、状況によって表現が変わります:
  • large portion(大盛り)
     例:This restaurant serves large portions.
      → 日本語の「ボリューム満点!」に一番近いです。
  • hearty(たっぷりした、食べごたえのある)
     例:We had a hearty breakfast.
      → 量だけでなく「満腹感・満足感」を含みます。
  • filling(腹持ちが良い)
     例:That sandwich was really filling.
      → 「お腹にたまる」というニュアンス。
  • substantial(十分な、たっぷりの)
     例:She made us a substantial meal.
      → きちんとした量と内容がある、という上品な表現。

  • 結論として、日本語の「ボリューム=分量が多い」に一番自然に対応するのは large portion か hearty です。

<引用終わる

となっていて、逆に「ボリューム」というカタカナ語を英語に訳すと、一文字の「単語」では置き換えられないなのである。漢字の二文字の熟語である「分量」は、英語ではphraseかclauseの形にして説明しなければならないという事。お分かり願いたいのは「表意文字」である漢字を使った表現を、一つの英単語では表し難いのである事。

この「ボリューム」の一つだけの例を挙げて、敢えて英語教育の問題点を取り上げると「単語だけを覚える勉強法には限界がある」という事。要するに「言葉の意味だけを覚えるのではなく、文章の流れの中でどのように使われているのかを学んでおく事」が肝心なのである。


今更ながらのカタカナ語無用論

2025-08-21 07:51:57 | コラム
カタカナ語と和製英語(=造語)は問題点だらけ:

 カタカナ語と和製英語(=造語)を良く見れば「我が国の英語教育の不備である為に、本当の英語からかけ離れたおかしな言葉が創り出されてしまった主たる原因になっている」と痛感させてくれる。私は「学校教育の何処かの時点で『英語とは日本語と発想も違えば文化も異なる外国語である』ということを正しく教えておくべきだ」と指摘してきたが、未だに実現していない。

カタカナ語の粗製濫造と濫用:
 私は我が国でカタカナ語が余りにも数多く、恰も本来の日本語であるかのように使われているのは宜しくないこと思う。何故、宜しくないかと言えば、使う人たちがおかしな言葉だと思わずに、英語だと思われるのか、格好が良いと錯覚でもするのか、嬉々とし使っているからだ。

だが、子細に観察してみると、日本語には漢字・平仮名・片仮名・ローマ字が自在に使われていて融通無碍であり、カタカナ語までもとりいれてしまっているという素晴らしさすらも見出したのだ。そこには、新たな言葉を産み出してきた先人の知恵と現代人の優れた想像力との不思議な融合には尊敬の念すら抱かせられそうになる。

 このような英語等の外国語の表現をカタカナ語化させた言葉を「外来語」と呼ぶとか「和製英語」(私は「英語擬き」だと思う)と称しているようだ。その多くはすでに日本語として戸籍を得てしまい、今更外国語が基になっているのだから排斥せよ、排除せよと迫るのは手遅れの状態なのだ。

嘗て、故渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」に「カタカナ語無用論」を投稿したところ、その反対論が押し寄せた。要するに「今更それを否定することはない。このまま使い続けよう」という意見が多かった。正直なところ「散々濫用していながら、何を言うか」とウンザリさせられた。要するに、多くの方が重宝に使っているという事だ。

 和製英語(造語)であること:
「カタカナ語を使うのは各人の好みと自由で勝手になされば」とは思う。だが、カタカナ語は純粋な日本製の言葉であり、英語とは全く無関係であるという事実を忘れないことだ。即ち、外国人との「英会話」の中で使っても「通じる言葉ではない」と承知しておくべきなのだ。その前に必要なことは「この言葉は本当に英語なのか」と疑って英和辞典を引いてみて欲しい。

 カタカナ語については私が何時も不思議だと痛感していることがある。それは、私が20年以上もアメリカの企業で働いている間に一度もアメリカ人たちが使うとか、私が使おうと考えた事もなかった文語乃至は難しい単語を、カタカナ語にしてしまっている現象だ。良くそんな難しい単語を引っ張り出してカタカナ語化したものだと、感心させられている。しかも、その手のカタカナ語を遍く国中で使うように広めてしまっていたのも凄いと、呆れている。

いくつか例を挙げていこう。「バリヤーフリー」などは、聞いた時には「こんな英語もあったのかな」と危うく信じるところだったほど、上手くできた造語だった。日本語の「バリアフリー」は、英語では一語で accessibleが最も自然で広く使われている。「バリアフリー」と聞くと「段差がない、手すりがある」など具体的な物理的配慮を指すことが多く、英語の accessible とは違うのだ。

 単語重視の英語教育:
このような、理解不能なカタカナ語化してしまう現象は、我が国に学校教育における「単語偏重」に大きな原因があると信じている。ここでもこの例を一つ挙げておくと、“collaboration”をカタカナ語化しただけではなく、「コラボ」という略語まで創造したこと。信じがたい濫用だった。これは「文芸・科学等の分野で協力または共同作業をする」という意味の単語だ。言い換えれば“work together with”である。私は「こういう言葉がある」とは承知していた程度で、使ったこともなかったのに、テレビ局などでは日常的に使っているのだから凄い。

 スポーツ界で:
ここでも傑作は多いと言えば失礼に当たるかも知れないが、ラグビーにもあるのだ。反則に「スローフォワード」(=throw forward)があるが、この言い方だと「前に投げろ」と命じている」のである。正しくは“Forward pass”だろう。「ノット・リリース・ダ・ボール」も同様で「ボールを離すな」になってしまっているのだ。これらは「文法的な誤り」である。

アナウンサーも解説者も平気で「キャプテンシー」(=captaincy)と言うが、これは「キャプテンとしての地位または役目」という意味。“captainship”と言えば「キャプテンの資格と統率能力」という意味になると思う。何でも単語の終わりに“y”を付ければ良いのではない。

 何故私がこのような主張をするかと言えば、「言葉は耳から入った場合に覚えられやすい」のであり、カタカナ語などが無見識に濫用されると、影響が非常に強く広まってしまうのだ。テレビに登場するコメンテーター、有識者、学者、スポーツ等の解説者、議員等の社会的に権威ありと認知されるかあるいは尊敬されている人たちが、無意識に使うかあるいは誤用する傾向がある。

一般人はそれを素直に受け止めて世界にも通用する英語だと誤解して覚え、使ってしまう結果になる事すらあるのだ。この際、非常識に使っているマスコミと、何も知らずに使っているテレビ・タレント等も世間に悪影響を与えていると自覚させる必要があると言っておきたい。

 ここで、改めて「カタカナ語と和製英語(=造語)」の生い立ちを考えてみる。そこには英語のように「表音文字」を使っている言語と、日本語のように漢字のような「表意文字」も使っている言語との違いがある。そこに文法の違いが加わるのだから始末が悪くなる。

更に、日本の学校教育で英語を科学として取り扱い、しかも「生徒を5段階で評価するために教えて、話せるようにすることはその目的ではない」とする方針で英語を教えるのが宜しくないのだ。結果として、カタカナ語の粗製濫造から濫用になってしまったのである。

 文法を無視する:
勿論、「文法無視」は良いことではない。その昔にテレビ漫画に「エイトマン」というのがあった。無理矢理英語でスペルすれば“Eight man”となる。これを見たアメリカ人が「8人ならば“men”ではないか?」と疑問を投げかけた。すると作者は「8番目の男」という意味であると答えた。アメリカ人は「それならば“8th またはEighth man”ではないか?」と追いかけてきた。すると作者は「もう、これで十分通用しているのだから、どうでも良い」と答えて終わったそうである。これぞ、我が国の誤った英語教育の芳しくない成果である。

次が「単語を並べた」例を挙げたおこう。困った使われ方に「ヒーローインタビュー」がある。これはテレビのプロ野球中継に屡々出てくる用語。私はこれを「英語は話せないが、兎に角単語を並べたら何とか通じた」という範疇に入れておきたい。同時に文法無視でもある。だが、我が国の野球ファンでテレビ中継を見ていて、これが何のことか解らない人はいないだろうと言って誤りではないほどに、日本語としての「戸籍」を得てしまった。

英文法から見れば「目的語であるヒーローが先に出て来る日本語の語順で言葉を並べてしまった例で、学校教育の主たる目的だったはずの英文法はアッサリと無視された」のである。強いて英語にすれば「“interviewing the hero”となる」と思う。ここには漢字を幾つか重ねて熟語を作り出す日本語の感覚が応用されているのではないか。何故「ヒーローに聞く」ではいけないのかな。尤も「ヒーロー」だってカタカナ語だ。発音記語彙通りならば「ヒアロウ」に近いと思っているが。

ローマ字読み:
「ウルトラマン」という有名なテレビ漫画がある。英語で書けば“Ultra man”である。英語では間違っても「ウルトラ」とは読まずに「アルトゥラ」に近く、アクセントは「アル」に置く。私が近頃忌み嫌っているローマ字読みに“security”を「セキュリティー」と言い、そう表記している悪い例がある。原語のままにカタカナ表記すれば「セキュアラテイー」なのだ。

 言葉の誤用:
「フリップ」を取り上げよう。これはテレビで「表」、「図表」の意味で使われている。資料か統計を示すのである。しかも、世間に名の通った有名人たちも「フリップ」と呼ぶのには哀しくなる。何故かと言えば、恐らく英語のflip chartのことをflipだけを取って「フリップ」にしてしまったのだろうから。“flip”には『ページなどをめくる』という意味があるが、表でも図表でもないのだ。“flip chart”では「めくっていく表」なのだ。

次は方向を変えて「ナイーブ」(naïve)を。英語圏の人にYou are naïve.”等と言えば、殴られても仕方がないくらいの誤用である。英語の感覚では、殆ど「バカ」という意味であると覚えて置いて貰いたい。「プライベート」(private)も困った誤用だ。この言葉には「私生活」という使い方はない。ジーニアス英和にも「試用の」とか「個人に属する」と「私有の」とは出てくるが。他には「兵卒」という意味はあるが。「プライベートは当人に任せている」などは意味不明ではないかな。

「発音」の問題:
例えば、大谷翔平君でお馴染みのLos Angelesの“Dodgersは、断じて「ロサンゼルスのドジャース」ではないのだ。英語では「ローサンジェルスのダジャース」とすれば最も近くなる。Bessent長官も「ベッセント」とは発音しない。英語には「跳ねる音」はないので「ベセント」とする方が英語に近いのだ。

言葉の分類の範疇だが、Sit down, please.”を絶対に「シット・ダウン」のように発音しないことだ。「シット」を素直に英語として綴れば”shit”となる。これは松本清張が誤解・誤認識していた「スラング」ではなく「汚い言葉」=“swearword”に分類される。アメリカの支配階層にある者や教養ある知識人が絶対に公共の場では使わない、使ってはならない言葉の代表的な表現の一つである。こういう発音を教える学校の先生方の猛省を促したい。“shit”が何を意味するかはここには書かないことにする。

 カタカナ語無用論を語り始めればキリがないので、今回はここまでに止めてまたの機会に譲ろう。

55年前を振り返ってみた

2025-08-20 07:19:59 | コラム
ふと気が付けば、あれから55年も経っていた:

思い起こせば、55年前の1970年8月に、伊丹空港から生まれて初めての海外旅行。あの時は出張、に出たのだった。私独特の「鈍感」のせいか「怖くもなく」、「嬉しくもなく」、「何らの期待感も無く」、「初めて見ることになる外国に期待に胸躍らせることもなく」何となくフワーッとした感覚で飛行機に乗った。それと言うのも、自分から望んで海外出張になった訳ではなかったからだ。何故そう言うかという点は後で触れられれば述べておこうかと思う程度。

台湾:
最初に降り立ったのが台北だった。入管は何となく通過したが、税関で係員がスーツケースを台上で揺さぶった時には膝がガクガクして震えたほど怖かった。何が恐怖か全く解らずに唯々怖かったのを覚えている。会社としての輸出取引先に会いに来たので、現地の業者にも出会ったが、普通に日本語で会話するので、外国に来たという感覚がなかったのも覚えている。

台湾の人が「中国が入ってきたので、北京語を公用語にされたので使わざるを得ず、身内では台湾語で、日本統治時代に日本語を習ったので、言わば言語では三重生活で面倒だ。これに何れは英語も加わるのでは」と笑いながら愚痴っていたのが印象的だった。台湾の人に「貴方の顔は世界中何処に行っても外省人(=中国本土の人)で通用する」と保証され、将にアメリカ全土で繰り返して間違われた。自尊心が傷ついた。

フィリピン:
英語圏のような感じで、スペイン語訛りでも綺麗な表現で話す人が多いので感心した。何となく垢抜けているかのように感じた国だった。但し、現地の取引先の社長の息子に案内されたマカテイのIntercontinental Hotelの入り口に、自動小銃を持つガードマンが立っているのには、正直なところ、度肝を抜かれたし恐怖を感じた。

有名はRoxas boulevardのナイトクラブに案内されると、入り口に「fire armsを持っていれば預けろ」と掲示があったのも心胆を寒からしめられた。社長の息子に「バロンタガログ」を誂えると良いと勧められて、仕立屋に行った。彼は「お客を連れてきた」と指摘してリベートを取ったのは印象的すぎた。英語では“in other words”が「イノルデルウオルズ」と聞こえるのが凄かったのを覚えている。

シンガポール:
ここでの取引先はインド人の輸入商で、印刷会社に国策パルプの印刷用紙を納入していた。初めてインド人に出会った。インドの商人には兎角の噂があるが、何と言うことなく任務を達成した。ここで印象に残ったことは、圧倒的に多い中国系の人たちは所謂シンガポールEnglishを操るが、仲間同士では広東語か北京語か知らなかったが、中国語に切り替えていたこと。

綺麗な街だったが、その美観を保つ為なのだろうか、色々と細かい規則があって、街中を歩く時には細心の注意を払わねばならず、ピリピリさせられた。インド人に「これがインドで食べられている本当のカレーライス」という店に案内された。驚くほどには辛くなかったが、日本の「ライスカレー」とは明らかに別物だった。

香港:
最後の目的地。今になって言える事は「シドニーとヴァンクーヴァーを足して2で割って、少し汚くしたら香港になるかも知れない」という感じ。ここでも、中国人(華僑)が経済を支配しているのはフィリピンもシンガポールとでも同じことだと、東南アジアを知らなかった私にも直ぐに解った。言葉の点では、矢張り元はUKだなと思わせられた。

既に取り上げたことだが、ここで泊まったEmpress Hotelでの出来事。朝エレベーターホールで出会った高級に着飾った小母様に、いきなり「お早う御座います」と声をかけられて、ドギマギしたこと。「何で知らない人が」と思えば「貴方日本人でしょう。外国で出会った場合には、知らない相手もこうやって挨拶を交わすのが礼儀と心得なさい」と説教された。「何だ!?」と感じた。

異文化:
だが、この教訓はアメリカに行くようになってからは、非常に役に立った。即ち、そう言う異文化が存在しているのがアメリカだったのだから。あの小母様は、海外経験が豊富で、偶然見かけた礼儀知らずの田舎者を諭されたのだと解釈することにした。どういう異文化というか仕来りを示す具体的な例を挙げておこう。

既に取り上げたことで、商社の若手がウエアーハウザーの本社の長い廊下ですれ違った小父さんが私の後任に「Hi, Paul」と片手を挙げ、Paulも“Hi, Steve.”と片手を挙げて答えた。「あれ、誰ですか」と尋ねると「社長だよ」だったそうだ。「社長でも、あれで良いのですか」と訊いてしまったとか。「当たり前だろう」とPaulは答えたそうだった。異文化とはこんなものである。

トランプ大統領とプーチン大統領の会談に一言

2025-08-19 06:36:43 | コラム
今頃になって一寸気になったことが:

昨18日に、杉山晋輔元駐アメリカ大使のTBSでの発言の内容が非常に印象的だったので、その辺りから振り返ってみようかと思う。

杉山大使はトランプ大統領がプーチン会談に臨んだ際の側近の人選について「アメリカ側の側近は何れも外交の分野での経験を積んでこられた訳でもなかった。一方、ロシアの老練なラブロフ外相などは、2004年から21年も務めている経験者。そう言う者たちとの交渉でのアメリカ側の苦境は避けられなかったのでは」と指摘された。この視点には大いに感銘を受けた。

国際交渉を担当する者は豊富な知識や明晰な頭脳よりも、数多くの修羅場を踏んできた者だけが持つ勘や、熟練度や、その場での判断力が備わっているか否かが物を言うのではなかろうか。杉山大使の指摘は、将にその現実的な面を表現しておられたと聞いた。

一方で、トランプ政権の人事は大統領に対する忠誠心を重んじるあまり、やや専門性を欠くとの印象を免れないのではないか。金融畑出身の側近を通商や安全保障の場に立たせるのは容易なことではなく、経験の不足が交渉の行方を左右してしまうのではないかとの懸念は拭えない。

私は「外交の分野における国際交渉は『経験が必要な世界』である」と、経験からも認識している。この原則を軽んじると、結果として劣勢を招きかねないのではなかろうか。杉山大使の指摘を「この原則を改めて思い起こさせてくれるもの」だったのである。

8月18日 「異常高温・高湿度の下での健康管理」と訂正しました

2025-08-18 08:48:59 | コラム
体調の維持と管理は難しいだろうな:

甲子園の野球:
昨17日は何気なく見た横浜高校の織田投手の体つきが何となくほっそりとしていて、前の試合の時の絶好調と見た体形と違うようだったし、前傾していた。それでも9回を投げきって「5安打、完封」だった。だが「何故、一夜にして体形が変わったかに見えたのか、表示では球速が出ていても伸びが感じられないかな」とは感じながら見ていた。

ところが、新聞報道等によれば   8月15日夜から食あたり(胃腸炎)で、翌16日は練習を欠席し、それでも本人が「監督、信じてください」「絶対投げます」と志願したので監督が起用した。試合当日はチームバスではなく別の車で移動するほど体調を考慮されたが、試合では106球も投げて完封した」と出ていた。

なるほど、あの猛烈で苛酷な気象条件で、しかも屋外で野球をすれば、足がつってしまう以外にも、織田君が示したような内科的な障害も生じる危険性もあると、改めて理解した。その弱っていただろう体調で、あの兵庫県の異常高温と高湿度の条件の下でも完投・完封した高校2年の織田君の精神力は賞賛に値すると思う。準決勝戦まで一日の休養日が入るので、その間に精々静養させたいものだ。

この織田君の内科的な問題の他に、何人かのグラウンドで足がつって歩行不能になって選手も見た。高野連が如何に試合開始の条件等に工夫を凝らしても、高校生たちは自然がもたらす悪条件を克服しきれないようなのだ。また、スタンドで一所懸命に応援する子供たちとその父兄たち、一般の観客も熱中症対策は怠りないとは思うが、さぞかし苦心惨憺だろう。「地球上の気象条件の悪化」には未だ人智が及ばないようだ。

先日もフットボールを大学まで経験していた息子たちと、この問題で語り合った。彼等は「最早、到底豊富な練習量で鍛えるとか、精神力を養うことで乗り切れる気象条件ではない。甲子園球場を屋根付きで冷暖房完備に改造するしか対策はないのでは」と見ていた。私も同感である。だが、そこまで行けばグラウンドは人工芝にするとの条件も出てくる。国立競技場のように、「予算」の問題も生じるのだ。

地球温暖化対策:
トランプ大統領は「地球温暖化などフェイクだ」という説を唱える方もおられる。だが、現実は何時終わるのかも知れない30度どころか40度を超える状況か各地で続いている。では、春休みに移すかと言えば、既に選抜大会が存在していると言うような、開催時期も問題ではないのか。

私は「時代は強烈に悪化した気象条件、乃至は高温・高質と多雨の下で、我々人類が如何に耐えて行くかの根本的な策を講じなければならないのでは」と考えている。男性も日傘さすかどうかの問題でもないだろう。この気象条件の変化にどのように対応するかの対策は、甲子園に屋根を付けるかどうか問題よりも、遙かに優先順位が高い案件であると思う。