新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

小室圭氏NY州弁護士試験失敗に思う

2021-10-31 08:12:48 | コラム
こういう事態もあり得たのだった:

私は小室夫妻の件にはもう触れないつもりだったが、昨日からマスコミが騒ぎ始めていた「小室氏不合格」の報道で模様が変わったので、また取り上げようと思うに至った。

先ずは“The Firm”から。私は1991年に刊行されたJohn Grishamの“The Firm”は読んであったし、トム・クルーズ主演の映画も見ていたので、私の守備範囲外の“bar exam”(弁護士試験)等のことは少しだけ承知していた。余計なことだろうが、映画よりも小説の方が何倍も面白かった。小説では新卒で法律事務所に採用された主人公は、所長から厳しく繰り返し「必ず弁護士試験に合格してこい」と言われていた。小説のことだが、小室氏のように受験してから入所するのではなかったと記憶している。

昨日の午前中にMLBのWシリーズを見ていると、BSニュースで「発表された合格者の名簿のKの項に小室はない」と報じていた。「なるほど、こういう事態もあり得たのだ」と思わせられた。新規受験者の合格率は70%超とあったから、まさか不合格になるとはご当人も予期してはいなかったのではないのかな。

一方では、女性自身が報じるところでは夫妻が住む100㎡のアパートの家賃が80万円とあったから、試験に失敗してパラリーガルの儘ならば600万円の年収となって、生活は成り立たないのではないのだろうか。だが、私はそれ以前の問題として、雇用主であるLowenstein Sandler(RS)が小室氏を雇い続けるのかを疑いたくなる。彼は援助してくれた奥野弁護士に「申し訳ない」と謝ったそうだが、それで済む問題なのだろうか。

それ以外に、私はマスコミの報道姿勢を責めたいと思っていることがある。それは「真子さんがNYの某美術館に勤務して、年収1,500万円を得る」と予測していること。アメリカに移住して、いきなり就職とはあり得ない気がする。私が30年ほど前に現地で知らされたことは「移住してきた外国人の家族からは1人にしか就労ヴィザは出ない」ということ。これは香港から本社に転勤してきたニュージーランド人のマネージャーとオーストラリア人の奥方の夫妻からも聞かされていた。同じ事は駐在員たちからも聞いていた。だが、21世紀の現在では変更されたのか。

彼らマスコミは皇室出身の真子さんならば、特例で就労ヴィザが一発で取れると言いたいのだろうか。この就労ヴィザは雇用主が申請するものだそうだと聞いている。我が友のYM氏の場合には大学教員等の特別なヴィザなので、本人がアメリカ大使館に申請して簡単に取得していた。

他に私が不審に感じていることは「第一に真子さんは未だ日本にいるのだから、アメリカで生活するのに最も必要だとされるSocial security number(SSN)はこれから取得するのだろう」という点だ。それが無くては銀行に口座も開けないのだからローンは組めないのだから、生活必需品の車だって買えないのだ。小室氏は奥野事務所から援助を受けていたのならば、銀行に口座があって、そこの送金されていたのだろうと推定できるから、SSNは持っているのだろう。マスコミは何故こういう点を解説しないのか。

マスコミの連中はそういうことを知らないはずがないにも拘わらず、シレッとして美術館に勤務できるなどと言うのは、一般人を惑わすフェイクニュースではないのか。そんな彼らは既に「RSは未だ小室氏の就労ヴィザを申請していない」と報じているのだ。これだけでは中途半端な報じ方ではないのか。

小室氏夫妻に関して、意外な展開になってきたので、敢えて私が少しだけ知る限りの情報を基にしてマスコミ報道を批判したまでである。

カタカナ語の面白さを追求して見た

2021-10-30 09:02:01 | コラム
カタカナ語を排斥や批判するだけではないのだ:

私はこれまでに色々な形でカタカナ語批判を展開して来たが、残念ながら余り受けていないようだった。今回もそれに懲りずに、今までとは違った角度からカタカナ語の面白さを分析してみた。その角度とは「同じ英語の綴りであっても、製造業者の理解が異なるか、または時と場合によっては、異なったカタカナ語になってしまう(されてしまう?)」ということだ。以下に、具体的な例を挙げていこう。アルファベット順にはならないが“O”を“oo”のように二つ続けた例が、最も私の興味を惹いたので、ここから始めて行こう。

“oo”をカタカナ語化すれば:
母音の話である。この綴りが入っている単語がどれだけあるのかと思って、試みにアルファベット順に並べて辞書で発音を確認してみた。すると、驚くほど沢山あった。しかも“book”のように詰まる音の「ブック」となるものと、“boot”のように「音引き」というか「ウー」となるものに別れていた。

詰まる音の例を挙げていくと、cook、foot、good、look、rookie、mook、took等があった。中でもrookieは以前から指摘して来たことで、戦後間もなくだったと記憶するが「アメリカでは野球界の新人を「ルーキー」と呼んでいる」とラジオで紹介された。それ以来rookieは「ルキー」、または「ルッキー」となることがなかった。

次に「ウー」のように長くする例にはboot/s、hoot、moot、root、shoot、toot、zootなどがあったのだ。この後に紹介する例でも、カタカナで表記する前に英和でも何でも辞書を引く手間を惜しまなければ、正しいというか英語本来の発音に近い表記になったと思うのだ。

“K”のカタカナ語化:
これはKが綴りの終わりになっている単語が、英語の通りに「ク」とはなっていない例である。それらは“deck”が「デック」とならないで「デッキ」となっているし、“milk shake”は「ミルクシェイク」ではなく「ミルクセーキ」となっているようなことだ。また“stick”即ち「杖」は「ステッキ」となっているのだ。余談になるが、“deck”は野球用語では「ネクストバッターズサークル」となってしまっている。アメリカ人の表現では“Shohei is on deck.”なのだ。どうして、デックがあのようなバッターに所有格のSまで付けたカタカナ語になったのだろう。

“R”のカタカナ語化:
これまでに“Kordy” や“Moderna”を例に挙げて「散々Rを『ル』と表記するのは駄目だ」と批判してきた。だが、勝手にこのような英語の発音とは異なる「ル」にしているカタカナ語は未だ未だあるので、この際並べてみようと思う。“cork”は「コルク」のことだが、英語では「コーク」だ。一寸難しい「モルヒネ」は“morphine”で「モーフィン」なのだ。「レトルト食品」の英語の綴りは“retort”で「りトート」である。野茂投手で有名になった「トルネード投法」は“tornado”で「トーネイドウ」なのだ。どれにも「ル」とはなっていないのだ。

結び:
再度言っておくと、「ここに取り上げたような英語の通りの表記にせよ」と主張しているのではない。多くの方が指摘されたように「最早日本語として広く通用してしまったのだから、あのままで使って良いじゃないか」だと思っている。私の意図は飽くまでも「それはそれとして、本当はこうなっているのだと承知して貰えれば、それで結構」なのである。「ルーキー」と言ったって解ってくれる優しい人もいるだろうから。


10月29日 その2 「MLBでは・・」の訂正です

2021-10-29 09:32:33 | コラム
我が国とアメリカとは違うのだ:

このところ、午前中はNHKのBSで中継されていたMLBのプレーオフという、リーグ優勝にもって行くDS(とあったと思うが)とCSの試合に加えて、World Seriesも2試合見てきた。そうする理由は、北村維康氏も指摘しておられたような「眼前にある現象的なくだらない ニュースばかり追ひ求める。」こととか、ニュースショーなどよりも野球の方が無難だと思っているからだ。その少し前までは、NPBの両リーグでの優勝を目指して懸命に努力していたスワローズとバッファローズの野球も見ていた。

MLBの野球の質というか根底に流れている要素を文化比較論的に言えば「個人の能力と主体性に立脚した競技である」なのだが、それは見方を変えれば「個人事業者の集団が争っている面白さ」と言えると思う。そこに見えてくることは「我が国との野球だけのことではない根本的な文化の違い」が、これでもかと言うほど現れていた。

即ちNPBの野球を見ているとテイームの全員が優勝という一つの目標に向かって懸命にプレーしている直向きさというのか「全体のために」プレーしている様子が、痛いほど伝わってくるのだった。これこそが岸田総理が就任の時に掲げられた「全員野球」のように、全員が一丸となって目標達成に向かって突き進もうという我が国の精神的な美徳であると思う。

一方のMLBを見ていると、1980年代の在職中から現地で見ていて「何かが違うな」と感じさせてくれていた要素だと思う。即ち、彼ら北と南のアメリカ人たちがやっている野球は「各人が自分の為に投・攻・守・走の何れかの面で『目に物見せてやろう』とばかりに全力で野球をやっている」のであって、「全体(テイーム)のため」とか「皆のため」とか「球団のため」のような要素を余り感じさせてはくれないのである。

以前から指摘して来たことで、我が国の野球界の言葉でいう「テイームバッテイング」などの努力は見かけないし、我が国ではマスメディアも尊んでいる「自己を犠牲にしてテイームに尽くす」との美しい精神の発露である「サクリファイスバント」などは滅多に見ることが出来ない。そんなことをしたら「個人事業者は誰にも目に物見せられなくなるからだろう」と、私は解釈している。MLBの選手たちは「球団」という場を借りて自分の店を出し、そこでどれだけ成績を挙げ収入を増やすかに全力を挙げているのだと見ている。

その為には自分の能力を最大限に発揮できる場を自ら選ぶか、他球団から勧誘されるかで移動を続けているのだろうと思う。それが証拠にテレビの画面に出てくる経歴を見ていれば複数の球団を渡り歩いてきていると解る。NPBのように「その球団一筋に20年」などとマスコミに賞賛(しているのだろう)されている例は希だ。「アレッ」と感じさせられるほど「確かここでCSを戦っている球団の所属ではなかった」と思わせられたのが、大谷翔平君のAngelsにいた思った大選手のPujols(プホルス)がDodgersで出ていたりするのだ。

回りくどい言い方をしてしまったが、要するに「アメリカの個人事業主たちはしばしば最善の環境を求めて移動し続けていく」のだと言いたいのだ。即ち、「移動するため、移動できるためには他球団か他社から勧誘されるような能力というか腕を磨いておかねばならない世界である」ということなのである。ここまではMLBの野球界でのことを取り上げて語って来たが、ビジネスの世界こそがそのような個人事業者たちが最善の場を求めて次なる場に移転していくのである。

以前から指摘し続けてきたことで、製造業の世界では4年制の大学の新規卒業者を我が国の文化であるように定期採用なしないのである。故に、大企業を狙うためには中小企業で実力を付けるか腕を磨いて勧誘されるのを待つか、自分で目指す会社の特定の事業部を選んで売り込んでいく手段を採ることになる。言い換えればMinor leagueで懸命に練習をしておくとでもなるだろう。それ以外の方法は4年間の実務経験が応募の条件とされている、可能ならば有名私立大学のビジネススクールで2年間勉強して、MBAとして採用されることを狙うというものがある。

さらに、希望していた会社に即戦力として中途採用されても、その会社に長期間勤務し続けているようでは「能なし」と看做されてしまうのがアメリカなのだ。それは同業界であろうと他の業界であろうと、2社も3社も移動してきた経歴が能力の証しとなる世界なのだ。その辺りを「常に2~3社からの勧誘(“job offer”というが「ジャブ・オファー」である)を受けていて一人前だ」などと言われている。現に、不肖私でさえジャパンの社長に「ジャブ・オファーを持っていないか」と詰問されたことがあった。

この辺りの文化の違いを、私は「彼らは現在勤務している会社に対する忠誠心は極めて希薄であるし、会社側もそれを期待していないのだから、そんな連中のための福利厚生設備など用意しない」と述べてきたのだった。それだから、彼らは我が国の製紙工場の訪問して、その周囲にある社宅群や豪華な管理職向けの社宅アパートに驚くのだった。これなどは単なる文化も違いなのだが、それを知らずにお互いに相手国を訪れて驚くのだということ。

今回は文化比較論を述べてきたつもりなので、敢えて最後に持ってきたが、これを言いたくて縷々述べてきた訳ではないが「我が国の報道機関の連中や有識者の方々はこのような基本的な文化の相違点を何処まで理解し、認識ているのだろうか」と思っているのだ。いや、マスメディアに何処まで心得て報道しているのかと問いかけたいのだ。

彼らは小室圭氏がニューヨークの(中堅級と報じられていたが)法律事務所に高額な初任給で採用されて良かったと騒ぐが、それが彼が目指す最終到達点ではあるまい。一般論で考えれば、そのLSという事務所で新卒の弁護士が一生勤務し続ける訳ではないと思う。そこから個人事業者としての将来は、自分の能力と実務の場で鍛え上げた実力で切り開いていくものなのだ。


MLBでは個人事業者の集団が野球をやっていた

2021-10-29 09:20:19 | コラム
我が国とアメリカとは違うのだ:

このところ、午前中はNHKのBSで中継されていたMLBのプレーオフという、リーグ優勝にもって行くDS(とあったと思うが)とCSの試合に加えて、World Seriesも2試合見てきた。そうする理由は、北村維康氏も指摘しておられたような「眼前にある現象的なくだらない ニュースばかり追ひ求める。」ことの方が、ニュースショーなどよりも野球の方が無難だと思っているからだ。その少し前までは、NPBの両リーグでの優勝を目指して懸命に努力していたスワローズとバッファローズの野球も見ていた。

MLBの野球の質というか根底に流れている要素を文化比較論的に言えば「個人の能力と主体性に立脚した競技である」なのだが、それは見方を変えれば「個人事業者の集団が争っている面白さ」と言えると思う。そこに見えてくることは「我が国との野球だけのことではない根本的な文化の違い」が、これでもかと言うほど現れていた。

即ちNPBの野球を見ているとテイームの全員が優勝という一つの目標に向かって懸命にプレーしている直向きさというのか「全体のために」プレーしている様子が、痛いほど伝わってくるのだった。これこそが岸田総理が就任の時に掲げられた「全員野球」のように、全員が一丸となって目標達成に向かって突き進もうという我が国の精神的な美徳であると思う。

一方のMLBを見ていると、1980年代の在職中から現地で見ていて「何かが違うな」と感じさせてくれていた要素だと思う。即ち、彼ら北と南のアメリカ人たちがやっている野球は「各人が自分の為に投・攻・守・走の何れかの面で『目に物見せてやろう』とばかりに全力で野球をやっている」のであって、「全体(テイーム)のため」とか「皆のため」とか「球団のため」のような要素を余り感じさせてはくれないのである。

以前から指摘して来たことで、我が国の野球界の言葉でいう「テイームバッテイング」などの努力は見かけないし、我が国ではマスメディアも尊んでいる「自己を犠牲にしてテイームに尽くす」との美しい精神の発露である「サクリファイスバント」などは滅多に見ることが出来ない。そんなことをしたら「個人事業者は誰にも目に物見せられなくなるからだろう」と、私は解釈している。MLBの選手たちは「球団」という場を借りて自分の店を出し、そこでどれだけ成績を挙げ収入を増やすかに全力を挙げているのだと見ている。

その為には自分の能力を最大限に発揮できる場を自ら選ぶか、他球団から勧誘されるかで移動を続けているのだろうと思う。それが証拠にテレビの画面に出てくる経歴を見ていれば複数の球団を渡り歩いてきていると解る。NPBのように「その球団一筋に20年」などとマスコミに賞賛(しているのだろう)されている例は希だ。「アレッ」と感じさせられるほど「確かここでCSを戦っている球団の所属ではなかった」と思わせられたのが、大谷翔平君のAngelsにいた思った大選手のPujols(プホルス)がDodgersで出ていたりするのだ。

回りくどい言い方をしてしまったが、要するに「アメリカの個人事業主たちはしばしば最善の環境を求めて移動し続けていく」のだと言いたいのだ。即ち、「移動するため、移動できるためには他球団か他社から勧誘されるような能力というか腕を磨いておかねばならない世界である」ということなのである。ここまではMLBの野球界でのことを取り上げて語って来たが、ビジネスの世界こそがそのような個人事業者たちが最善の場を求めて次なる場に移転していくのである。

以前から指摘し続けてきたことで、製造業の世界では4年制の大学の新規卒業者を我が国の文化であるように定期採用なしないのである。故に、大企業を狙うためには中小企業で実力を付けるか腕を磨いて勧誘されるのを待つか、自分で目指す会社の特定の事業部を選んで売り込んでいく手段を採ることになる。言い換えればMinor leagueで懸命に練習をしておくとでもなるだろう。それ以外の方法は4年間の実務経験が応募の条件とされている、可能ならば有名私立大学のビジネススクールで2年間勉強して、MBAとして採用されることを狙うというものがある。

さらに、希望していた会社に即戦力として中途採用されても、その会社に長期間勤務し続けているようでは「能なし」と看做されてしまうのがアメリカなのだ。それは同業界であろうと他の業界であろうと、2社も3社も移動してきた経歴が能力の証しとなる世界なのだ。その辺りを「常に2~3社からの勧誘(“job offer”というが「ジャブ・オファー」である)を受けていて一人前だ」などと言われている。現に、不肖私でさえジャパンの社長に「ジャブ・オファーを持っていないか」と詰問されたことがあった。

この辺りの文化の違いを、私は「彼らは現在勤務している会社に対する忠誠心は極めて希薄であるし、会社側もそれを期待していないのだから、そんな連中のための福利厚生設備など用意しない」と述べてきたのだった。それだから、彼らは我が国の製紙工場の訪問して、その周囲にある社宅群や豪華な管理職向けの社宅アパートに驚くのだった。これなどは単なる文化も違いなのだが、それを知らずにお互いに相手国を訪れて驚くのだということ。

今回は文化比較論を述べてきたつもりなので、敢えて最後に持ってきたが、これを言いたくて縷々述べてきた訳ではないが「我が国の報道機関の連中や有識者の方々はこのような基本的な文化の相違点を何処まで理解し、認識ているのだろうか」と思っているのだ。いや、マスメディアに何処まで心得て報道しているのかと問いかけたいのだ。

彼らは小室圭氏がニューヨークの(中堅級と報じられていたが)法律事務所に高額な初任給で採用されて良かったと騒ぐが、それが彼が目指す最終到達点ではあるまい。一般論で考えれば、そのLSという事務所で新卒の弁護士が一生勤務し続ける訳ではないと思う。そこから個人事業者としての将来は、自分の能力と実務の場で鍛え上げた実力で切り開いていくものなのだ。


10月28日 その2 地球温暖化対策を考えると

2021-10-28 10:09:31 | コラム
電気自動車への転換が重要だそうだ:

「重要だそうだ」と言っただけで、私には「それほど重大で何としても成し遂げるべき対策か否か」などが解るものではない。このような地球の温暖化防止を考えるときに、以下に申し上げるように「犬が尻尾を追いかけてグルグル回っているのと同じでは」という気がするのは何故だろう。

だが、報道機関によれば「アメリカにおける電気自動車(EV)の最大手であるテスラが、ハーツレンタカーから10万台を受注したことで時価総額が1兆ドルを超えて、我らのトヨタ自動車を追い越した」と大騒ぎである。EUでは2035年までだったかにEVのみにすると決めたとか聞いている。結構なことなのだろうと思う。来月だったかのCOP26に岸田総理は出席されると決められたそうだ。小泉前環境大臣は環境浄化の一対策として、レジ袋の有料化を残された。あれもこれも環境保護対策である。

私は1994年1月までの在職中に、アメリカと我が国での紙パルプ林産物業界に対する逆風とも言いたい色々な環境問題とその保護対策に翻弄されてきた。最も解りやすい例は、未だに「ペーパーレス化」を推進しておられる業種や会社があるように「紙パルプ林産物産業界は森林を乱伐して環境を破壊しているだけでなく、パルプと紙の製造工程で大気汚染をしている」かのように思われているのだ。そこで、使用済みの古紙を回収し再生することは、環境保護と浄化に貢献すると固く信じておられる方々は多いのだ。

これに対して反論するのは飽きた。だが、元中部大学教授の武田邦彦氏は「古紙を回収し再生する過程では膨大なエネルギーを浪費しているので、経済的には大したメリットはなく、環境保護にも寧ろ逆効果だ」と指摘されている。紙パルプ林産物業界出身者としては極めて尤もな議論であると解る。

武田邦彦氏の主張を裏付ける経験談を敢えて再録してみよう。我がWeyerhaeuserの事業部では環境問題華やかなりし時に、ワシントン州知事の「使用済みの牛乳パックと紙カップを回収再生して製紙原料に充てて環境保護に貢献せよ」との強力な要望の下に、工場内の古紙再生装置(Pulper)を活かすべく、隣のオレゴン州をも含めて先ず回収作業から入った。この回収・再生の業務の前提にあることは「パルパーを1日24時間、365日回していないことには採算は採れない」点なのだ。そこには、今までになかった人員を4直3交代で揃えるからという事まであるのだ。

その為に、直ちに生じた問題は「ワシントン・オレゴンの2州だけでの回収ではパルパーを回すだけの使用済みのパックもカップも回収できなかった」ということ。そこで内陸のアイダホー州や遙か南部のカリフォルニア州の北部までトラックを走らせねばならなくなった。だが、それでも不十分だった。副社長は州知事に「絶対に経営的に成り立たない事業であるとの前提で取りかかる」と断ってあった。結果として知事に「我々は多額のトラック運賃を再生していたことになったので、事業を辞めます」と申し出で即座に了解させて終わった。

古紙の回収・再生は良いことなのは間違いない。だが、回収には人件費も輸送費も保管料もかかってくるのだ。そして再生の工程ではエネルギー(電力)も消費されるのだ。その再生された原料を同じ工場内で紙に再生産できれば良いが、他社に販売して輸送すれば運賃が発生するという寸法である。武田邦彦氏はこういう点を指摘しておられたのだ。いや、我が副社長がワシントン州知事に申し入れて断念させた内容と全く同じである。

目をEVに転じてみよう。私には全く具体的なことは解らないが、EVというからには電気で動いている自動車なのだろう。電池を積んで走っていると聞くが、その電池でも充電の必要があるらしく、ガソリンスタンドならぬ電気スタンド(屁理屈を言わせて貰えば「電気ステーション」だと思うが)をそこかしこで見かける。論旨を飛躍させるのかも知れないが、そのスタンドで使う電力は何処かで原発だけではない火力か、新規に投資が始まった高価な何とか光パネルで発電されたものではないのか。第一に自動車生産にもエネルギーも人件費もかかっているのでは。

エイヤッとばかりに言えば「EVによってガソリン車が出していた排気ガスはなくなっても、その電力を供給する発電が火力では完全に排気ガスを制御できるのかな」となって、武田邦彦氏の主張である「古紙再生が必ずしも環球改善か保護に貢献しない」に戻ってしまうのではないだろうか。勝手なことを言えば「電池を生産する過程でもエネルギーは消費され、電力だって必要なのではないのかな」となってしまうのだ。また、人件費だったかかるだろうと思うが、何れはAIかロボットで自動化すると言われそうだ。

私には良く解らないが、地球温暖化の防止と環境保護と改善という大目的のために採られる手段は、何となく堂々巡りというか、英語に言う“head chasing the tail”のような気がしてならないのだ。私の考え方は何処かで方向を見失ってしまったのだろうか。