新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

英語を学ぶ際に注意すべき事柄

2016-04-30 15:37:44 | コラム
品位のある英語を身につけよう:

英語は万人に強制すべきものか?:
つい先頃、ある機会があって「私の英語の勉強法」のようなものを簡単に纏めてみた。そこには文字数の制限があって思うところを全て盛り込めなかったので、その原稿とは関係なしに「私の思う英語論」をあらためて纏めてみた次第。

「私は我が国では英語などを万人に強制すべきではない」と主張し続けてきた。それは「我が国は世界でも希な自国語で世界最新の技術であろうと文献であろうと学べる国であるから何も英語を徹底的に学ぶ必要はないのでは」という意味である。英語は例えばそれを職業としてかあるいは学術研究の手段として絶対的に必要である人たちが極めていけば良いものだ。ましてや、我が国の人たちが、英語で外国人と本当の意味で意思の疎通を図る必要がある場面に出会う確率などは極めて低いだろうとことは保証する。

支配階層の英語:
これは私の英語論を仏文学者のTK博士が批評して指摘したこと。私はアメリカでは良く言われる「1%の人たち云々」という層に属する人たちの世界では「文法を間違えてはならない」、「下品な言葉や表現を使ってはならない」というほぼ絶対的な必要性があると主張するのだ。こういう水準にある人たちの世界でも通用するEnglishを目指さないことには、品位と知性に欠けたと言うか下品な英語になってしまうのである。これは避けなければならないこと。即ち、英語を突き詰めて勉強しようとする際には「如何なる水準にある英語を目指すべきか」という意味である。

英語の品格:
これは何がおかしな表現でか文法を誤った英語なり文章なりを指している。どれが下品な言葉かということを弁えよということ。最も注意すべきは「汚い言葉」と訳されている”swearword”で、これを使うと「社会的に下層階級」と見なされると知るべきだ。これは屡々”slang”と混同されているが、全く別な範疇にある言葉だ。その例を少しだけ挙げれば”God damn it.”であるとか、”Shit!”であるとか”Oh, my God.”のようなものだが、そういうものであるとは我が国の教育では知らしめていないようだ。なお、”slang”は「隠語」や「符帳」の類いを指し、下品な言葉とは別物だとは既に述べた通り。

発音:
品格の問題で留意すべきことは「発音を正確にしようと心がけること」がある。これは必ずしも綺麗なnative speaker並の発音にすることではなく、明確で相手が聞き取りやすいように発音することを意味する。さらに、同じEnglishでも英連合王国(UK)、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドにはそれぞれ独自の発音と訛りも方言もあるので、その中のどの国の英語の発音を選ぶかは慎重を期したいと言いたいが、我が国の学校教育だけで学んで英語の知識では「どれがどれだか俄に判断出来ない」のが難しいところ。

しかし、私は全世界で最も広まっているのはアメリカ式の発音だとは考えているが、ヨーロッパでは地理的な条件もあってQueen’s Englishの発音が最も普及している。私はアメリカとの縁が最も深かったので、アメリカ式に準拠しているが、実際にはそれとUK式の中間になる発音をしているようだ。

訛りと方言:
言い出せば限りがないが、英語圏の諸国には言わば「訛り」があるし、それぞれの国独特の発音や方言があるもの。当然のことである。その訛りや方言を聞き分けて、その国のどの英語が正調であるかを知らないと、アメリカ人のダニエル・カールが山形弁を覚えてしまったような結果になる危険性が高いのだ。これは、避けねばならぬと承知して欲しい。

我が国の学校教育だけしか知らないで育てば、そういう判別をすることは不可能だろうと経験的にも考えている。私は「アメリカ西海岸の英語が最も無難である」と薦めてきたが、異論を唱える方もおられるのは確かだ。それは英連合王国(United Kingdom)のQueen’s Englishこそが英語だと思っておられる方々に多いそこには異論を唱える必要もない。それは見解の相違でから。

私は育った環境と、長年アメリカ(それも西海岸に本社を置く)会社に勤務したので、西海岸の英語を正調であると唱えているのだ。自らの信じるところを訴えているに過ぎない。何れにせよ、品格と教養を云々されるような英語を身につけてはならないと認識して頂きたい。

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街には未だデフレの風が吹いていた

2016-04-29 17:07:15 | コラム
暫くぶりにスーパーマーケットを回って:

本29日は猛烈な南風の中を、すべり症の手術の結果が上々で従来通りの歩行が可能になった家内と、早稲田通りの高田馬場からさらに小滝橋方面に寄った2軒のスーパーマーケットに買い物に出かけてみた。具体的には「おおぜき」と「西友」(=ウオールマート)である。風の強いのには些か辟易となったが、何とか無事に歩ききった次第。

おおぜきは此処百人町から高田馬場界隈では人気店のようで、店内はゴールデンウィークとやらの初日であったことも手伝ってか、かなりな混雑。その中をあのプラスティックのカゴを抱えて歩き回るのは容易ではなかった。買い物客の入りという点では、JRの高田馬場駅により近い西友の方が空いていたのは消費者の価格に対する敏感さを良く表していると思って観察していた。

私は遺憾ながら専業主夫でも何でもないので、両店の販売価格の具体的な比較までは出来ないが、55日間も臨時に家計を預かった経験から見れば、末端では未だ未だ価格競争が続いており、両店が所謂目玉商品(英語では”loss leader”と言うのも面白い)としてチラシに載せている商品の価格は、とてもアベノミクスが目指している「2%のインフレ」にはほど遠いものがあると痛感させてくれた。

陳腐なことを言うのをお許し願えば、実質賃金が上昇したわけでもなく、非正規雇用が減少していない状況下では、小売業者がこういう安売りの手法に訴えてくるのだろうと実感させてくれた。目玉にしても、それはメーカーなり卸売業者の了解の上でつけた値段であるのだから、何処も実損にはなっていない以上、継続されると解釈している。

また、家内の約2ヶ月間の空白を挟んだ小売価格についての知識は未だ正確であり、間違いなく両店のいずれかが安く出しているものを買うことが出来た。マイナス金利政策であるとか、消費税率の引き上げをどうするか等の議論があるようだが、消費者の自己防衛の姿勢は堅持されていると見えた。解りやすく言えば、この状況下で消費税率の引き上げなどを実行すれば、それが主婦層の購買意欲を減殺するのは当然の帰結のような気がする。現在の景気は舛添都知事が好き勝手に公費を使っていることを許すような状態ではあるまい。
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4月28日 その2 Jazz Vocal Collection/奇跡の競演

2016-04-28 16:18:11 | コラム
小学館さん、有り難う:

そういうCD付きの雑誌を小学館が創刊したとは新聞の広告で知ってはいたが、なかなか入手するまでには時間が取れずにいた。そこに「頂門の一針」で室佳之さんがその雑誌を買われたと知ったので、本日ジムの帰りに大枚500円を叩いて購入した。高田馬場駅前の芳林堂では最後の一冊のようだった。CDの副題には「奇跡の競演」とあったが、こういう”compilation”ものは数多く出ている。

早速PCのBGMとして聴いてみた。最初がエラとルイの”Summertime”。別のCDも持っているし、LP時代にもあった。名演の中に入れても良いだろう。次はエラの”I love Paris”で既に聴いたことがある。3番目のHoliday(断固としてホリデーではないが)の”Yesterdays”は何処かにCDで持っている凄い名唱。4番目のSarah Vaughanの”Lullaby of Birdland”も良いが、これも持っている。次の”How long has this been going on”を歌うCarmen McRaeはただ一人好みではない歌手だが、上手いことは上手い。

5番目は落涙ものでAndrews Sistersの”Bei Mir Bist Du Schon”。この曲というかアンドリュース・シスターズの歌は往年の好みで、方々で中古のCDを探したが発見出来ずにいたので、「小学館さん、よくぞ載せて下さいました」だった。だが、こうやって後期高齢者ともなって聴いてみるとそれほど上手いコーラスでもないような気がしたのは・・・・だった。それに、何故か彼女らが”Bei mir”と歌う箇所に南部訛りが聞こえるのが意外だった。「昔はものを思わざりけり」だったのかも。

7曲目のHelen MerrillはBrownyの伴奏が良すぎるので評価してこなかったが、こうやって聴くと「案外上手いじゃないか」となった。8曲目のAnita O’dayの”Love me or leave me”は矢張り「凄い」という部類。8曲目のChet Bakerと最後のNat King Coleはあってもなくても同じというのが偽らざる評価。粟村政昭氏がいみじくも言われた「何で男性のヴォーカルのアルバムは人気がないのか」にあらためて賛意を表する次第だ。

でも、ジャズヴォーカルに少しでも興味か関心がおありの向きには「500円はお買い得」としてお勧めしたい好企画ではある。
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自民党のオウンゴール

2016-04-28 15:39:02 | コラム
安倍内閣の危機か?:

28日の産経の阿比留瑠比の「極言御免」には、宮家邦彦氏の”あるニュースキャスターがジャーナリズムの最大の役割を「権力を監視する『ウオッチドッグ』であること」と述べていたことに強い違和感を表明する”とあった。”watchdog”などとは懐かしい言葉で、こんな重大な場合でなくても、軽く皮肉をい言う時にでも使っていた記憶がある。私も宮家氏が指摘されたような違和感を禁じ得ない。ジャーナリズムというかマスコミの思い上がりともとれる表現だ。

昨夜参加したある勉強会でも「我が国のマスコミのように妙な反権力感覚に酔いしれているのは奇観だ。アメリカの有名紙のようにハッキリと何党を支持すると言うような立場を表明した記事を書く方が解りやすい」という我が国のマスコミ批判をする人がいた。私のこの方のようにマスコミと言うべきかジャーナリズムと言うかどうかは別として、これまでにウオッチドッグ的にマスコミ批判をしてきたつもりだ。

何となく焦点がぼけたような議論から入っていったが、私が言いたかったことは近頃の週刊文春と週刊新潮の特ダネ的特集記事ではこの「監視役」ないしは「お目付役」を通り越した時の権力者と内閣の大小の問題点を殊更に採り上げて、監視すると言うよりも寧ろ貶めようとしているのではないかとすら思わせてくれる点が見える。私はこのやり方は一般受けするだろうが、少なくとも参議院選挙だけは確実に迫りつつあるこの時期には、罪なき一般の有権者乃至は無党派層に反安倍内閣と反自民党の機運を醸成するのではないかと恐れている。しかも、民進党以下の野党は小躍りしてその波に乗ろうとしているので、私には彼らにはその意図すらあるのだと感じさせるのだ。

確かに安倍内閣の閣僚には甘利元大臣に代表されるような失態もあるし、マスコミ好みの高市総務相のような「誤解」されやすい発言もあった。また宮崎謙介を最悪の例とする醜態や大西某のようなデタラメを言えば、ウオッチドッグに噛みつかれてしまうのは自明の理だ。そこにこの度は私でも遅きに失したと思ってしまう熊本大地震の「激甚災害指定」の閣議決定の遅れもある。それだけではなく、あの松本文明の失態があってはドッグどもの思う壺ではないのか。全て自民党の「オウンゴール」ではないか。相手に得点能力がないからと言って軽く見ていては駄目だ。慢心しているからそういう目に遭うのだ。

私はドッグどもは本気で安倍内閣を追い落としてあの悪夢だっただけではない、我が国を景気回復は言うに及ばすあらゆる面で劣化させ、日米関係を悪化させた民主党政権というのか民進党中心の野党連合に政権を取らせようと企んでいるとしか思えない。あの3年有余の間にどれほど我が国が退化し、慰安婦問題等で世界で晒し者になったかを考えるべきだ。彼らはそれを望むのか、それが監視役の役目だとでも認識しているのかと問いたい。

先日も畏友尾形氏と語り合ったのだが、「安倍総理が我が国の史上最高最善の政治家であるか否かは知らない。だが、現在の議員の中では望み得る最高にして最善の総理大臣ではないのか」との点で意見が再度一致した。その総理が背負っておられる我が国の命運とその内閣を危うくするようなことが監視役の務めなのかと彼らに問いたい。務めさえ果たせば「お国のこと」などどうでも良いのかと尋ねたいのだ。安倍内閣を危機に陥れることが彼らの役目だとでも思っているのか。

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「~して貰って良いですか」

2016-04-27 07:11:58 | コラム
過剰敬語:

先頃、疑問に思って採り上げた掲題の「~して貰って良いですか」のような言い回しに対するついて、国文学者のKS氏から下記のような意見が寄せられたので、此処に紹介する次第。

>引用開始
お尋ねの件ですが、このごろ「過剰敬語」というのがしばしば問題になっています。

特に相手にモノを頼む際にそうなることが多いようです。「お願いします」で充分なところを「お願いできますか」と言ってしまうなど。 私も「月曜日締め切りでお願いします」と言えばいいのに、ついつい「月曜日締め切りでお願いできますか」と言ってしまいます。

最近の若者は、昔以上に空気を読む習性があり、相手に拒絶されること・相手に負担をかけたと思われることをおそれます。それがこの「お願いできますか?」的な「疑問文」の蔓延につながっているようです。

場合によっては、「月曜日の締め切りでお願いしてよろしいでしょうか」とか「月曜日のしめきりでお願いさせていただいてよろしいでしょうか」とかどんどん敬語がエスカレートしていったりします。それで「必要な範囲を越えて過剰な敬語は、かえって意思伝達を不明確にする」ということで、就活生や新入社員を教える立場の人間は、「ただ敬語は重くすればいいというものではない」という指導をしているみたいです。

「してもらっていいですか?」も、こうしたトレンドを受けて発生してきたいいまわしだと私は考えます。 「してください」だと、自分の意志に相手を従わせようとした感触が残るのでしょう。

言葉はたしかに世につれてかわっていくもので、たとえば「貴様」や「おまえ」はもともとは「敬称」でした。しかし、「してもらってもいいですか?」はそういう変化とはまた違う、「人間関係の過剰な閉塞感」に根ざした言いまわしだと私は感じます。

言葉の「経年による自然な変化」は、年長者から見ると「乱れ」のように感じられても、そこに一定の合理性があります。しかし「敬語の過剰・インフレ」は、大したことではないことを物凄く重い敬語で言うことで、重々しい敬語をつかうべきオケージョンとの落差をなくしてしまうわけですから、そこに合理性があるかどうかは微妙です。

そういうわけで、私は「してもらっていいですか?」的な言い方にあまり好感を持っていません。おそらく割合早く、消えていく言いまわしなのではないかと見ていますが、どうなるでしょうか。
<引用終わる

私は「国語教育が乱れた結果で敬語の使い方が若い者たちに徹底できていないこと」が「~して貰って良いですか」のような奇怪な表現を生み出したと思っていたが、過剰敬語であるとは知らなかった。KSさんのお陰で勉強になった次第。KSさんに感謝して終わる。

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