新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

10月31日 その2 新宿から内幸町を経て有楽町へ

2018-10-31 15:08:54 | コラム
東京と時代の変化を実感した:

昨30日は何年振りかで内幸町でバスを降りて、みずほ銀行というのか旧第一勧銀の本店、NTT、以前は確か大和ビルと言っていた建物というか日比谷公園の反対側を歩いて、懐かしき帝国ホテルのロビーを通過した。1993年まではW社の我が事業部が定宿にしていたホテルだったので、大袈裟に言えば数年間はこのホテル内にいた時間の方が我が家で過ごした時間よりも長かっただろうと思う。

それは、先ず朝8時には集合して出張してきている副社長かまたはそれ以外の連中と当日のスケジュールの再確認と作戦の確認か見直しのブレックファストミーテイングが始まって、1日中都内を駆けずり回って夕刻にはホテルに戻り最後のミーティング。大方はそれから得意先との夕食会。それまでの感に本部側は所謂“wash and change”でシャワーを浴びて着替えの時間。その間に私はホテルの施設を利用してシャワーかプールで時間そ過ごしていた。

その帝国ホテルのロビーには流石に新宿区百人町とは違って、キチンとした服装のアメリカとヨーロッパの外国人が数多く行き来していた。久しぶりに接した風景に気後れして暫くロビーの傍らに椅子に座ってそういう模様を眺めていながら「こういう世界に嘗ては俺もいたのか」とやや感傷的になっていた。だが、往年と比べれば明らかに外国人(西洋人?)の数は減少しているように感じた。恐らく、フォアシーズンズを始めとしてアメリカ系の大きなホテルが増えた為かと思った。

ホテルを出て我が懐かしき旧国策パルプ(現日本製紙)のビルのあった辺りを歩いたのだが、向かいにあった三信ビルもなくなっており、周辺にあった店で残っていたのは小料理屋の岩崎のみだったがシャッターが降りていた。だが、通りがかった元は「国定」といったブルーコメッツの井上某の実家だった後の料理屋の老人に聞けば、岩崎は未だやっているそうだし、店主の区さんが亡くなった中華料理の名店・慶楽は夜のみの営業となってしまったとか。彼は75歳だそうだが「そんな時代を知っている人が未だいたか」と懐かしがってくれた。

昨夜の目的地は有楽町駅前の新有楽町ビルだったのだが、ここにはW社の世界最大のと言って良い当時のJ製紙の本社があったので、私は恐らく人生の3分の1ほどはここを訪れていただろうと冗談を言ったほどの場所。だが、リタイア後に24年も経てば様変わりで「これが慣れ親しんだ新有楽町ビルか」と疑ったほど。兎に角久しぶりに都心に出れば、アジア系の外国人に出会うことが俄然少なくなるのが、新宿との大きな違いだろう。周りからも日本語以外に英語が聞こえるのも不思議な感じがする。

18時過ぎに山手線で新大久保駅に戻れば改札口は工事中の所為もあって大混雑だし、矢張り外国語しか聞こえてこないのだ。都心(副都心ではない、正規の都心?)しかご覧になっていないだろう安倍総理や国会議員、高級官僚には理解しがたいだろうが、要らぬ法改正をしたり規制を緩めれば、ここ新宿や噂に聞く池袋のような荒廃した状態が生じ、我が国を食い物にしようと企んでいるとしか思えない外国人が増えるのは間違いないと思う。

その連中に税金を浪費させられ、国民保険を食い物にされ、犯罪を企まれる危険性が非常に高いことは、難民というか移民を好意的に受け入れたEUの諸国を見れば明らかではないのか。働き手の不足を外国人で補いたいというのも解らないでもないが、ろくに働こうともせずに「自分がやりたいことが見つからない」であるとか「この会社は自分の性に合わないから辞める」などとほざく若者たちを改心させようとは考えないのか。我々の時代には「自分がやりたいことではなかった」などと御託を並べていられなかった。今は良い時代になった者だ!?

私はGHQの日本人を骨抜きにしようという教育改悪の狙いの成果が着々と実を結んで、現代のような勝手好き放題をする若者が出てきたし、ハロウィーンなどという馬鹿騒ぎに現を抜かす阿呆を育ててしまったのだと思っている。私は少しは外国を見てきた経験上も言うのだが「自国を離れてと言うか捨てて外国に機会を求めるという連中には碌な者はいない。圧倒的大多数は食い詰め者だ」と断言する。好い加減に外国人崇拝というか依存を辞めるべき時だ。

これが久しぶりに本当の都心に出てきた後の偽らざる感想である。


韓国には呆れて物も言えない

2018-10-31 08:39:02 | コラム
予想通りの判決だったが:

韓国の最高裁が上告を棄却して「徴用工への日本企業の賠償を確定させた判決」を下したのは甚だ遺憾ながら、現在の歪んだ文在寅政権下ではあり得ることと予想していたので、大いなる驚きとは受け止めなかった。だが、論外である。彼らはこの判決が引き起こすだろうという後に発生するだろう問題などをを全く考えていないと思わせてくれた。

私は以前に「韓国は国家としての体を為していない」と、何処かで何方かに語った記憶がある。それは1971年に初めて戒厳令下の韓国に出張し、輸入の交渉をして欺かれ、それ以降業務を含めて今日まで5度も渡航した経験からも言っていることだ。

私は5度の渡航の間に会話の手引きのような本も使うには使ったが、現地の人たちにも教えられ、また街中の買い物等やホテル等での会話で自然に韓国語を、英語で言う“I picked it up myself.”で覚えて、こちらから言うこと程度は言えるようになった。これは韓国という国を理解するのに少し役に立ったと思う。それに現地の中小の規模になるだろう財閥のオウナーにも親しくして頂き、リタイア後も交流が続き色々と学ばせて貰える機会もあった。

また、日本語世代の方たちからも日韓相互の文化の共通点も違いも聞かせて貰えたし、対日感情のことも聞かされた。更にW社にはソウル事務所があり、そこの所長にも私的に韓国を訪れた際にも方々を案内して貰えたし、慶州への旅行も勧められて仏国寺も訪れたし、色々とビジネス面の話を聞ける機会もあった。

そういう色々な機会を通じて、韓国という国の国際的に見ても、法律的に考えても、道徳的にも好ましいとは思えない事柄にも接してきた。何が言いたいのかと言えば「歴史的にもそういう環境が醸成されている国になってしまっていれば、現在の極度に偏向したと言うよりも左に傾いた文在寅政権下では、この判決が出てくるのは極めて遺憾ながら自然の流れである」としか受け止められなかった。即ち、正常な政治と道徳の理念がある国ならば、あり得ないことをする国だという意味だ。

ここから先に我が国というか安倍政権がどのように対応されるべきかは明らかだと思うが、私は以前から「韓国と国交断絶まで行かないまでも、我が国が経済的に韓国を捨てたならば如何なる結果になるだろうか」と考えていた。勿論、サムソン等の韓国経済の杖と柱である企業等は困窮するだろうが、我が国の企業にも跳ね返りは当然やってくる。それくらいの危険を犯さない限り、韓国という国は自国がどれほど曲がっているかというか間違っているかが解らないだろうと思っている。情念と感情が法律よりも優先する国情に対しては、それくらいのことをやらないと理解しない国民性だろうと思っているのだ。

私は1971年にソウルで南山(ナムサン)に上がって街を見下ろした際に「韓国の家並みというか家は我が国と同じですね」と案内してくれた日本語世代の取引先の社長さんに何気なく言ったところ「何を仰るのですか。日本の文化は中国に起源があり、それが我が半島を経由して入っていき出来上がったのです。その点をお忘れになっては」と厳しく言われたのが忘れられない。

また、財閥のオウナーには確か当時は一般人は立ち入り禁止の板門店に案内されて、北側が見える場所に案内されたこともあった。そこには北に向いたトーチかがあって機関銃の銃口は北に向かっていたのには脅威を感じた。オウナーはそれを指さして言われたことは「我々はこうして命を賭けて北と共産主義からの脅威に対抗して守っています。それにも拘わらず、日本では共産党を公認したりしているとは何事ですか」だった。「これが韓国が持つ二面性か」と思わせてくれる二つの経験だった



10月30日 その2 ハロウィーンの馬鹿騒ぎに思う

2018-10-30 10:28:44 | コラム
あれは最早我が国の文化である:

未だその日が来ていないのだが、テレビでは連日渋谷の交差点での馬鹿騒ぎを超越した乱暴狼藉が放映されている。論評する気にもならないアホらしいことだが、中には白い外人も混じっているように見えるのには、開いた口が塞がらない。Halloweenなどと原語ではなく「波浪院」とでも表記せよとも言いたくなる。我が国では外国のその起源がある物事を日本的に昇華させて発展させて別個な形にする特技があるのは良いが、これと言い一時のクリスマスのホテル騒ぎと言い決して褒められたことでは無いと思う。

そこで、あらためて私がアメリカ出張中に3度は経験した、かの国での“Halloween”の様子を回顧してみよう。正直なところ、全くこの習慣というかお祭りの知識も関心もなかった私は、本社内に魔女の仮装等をした女性が闊歩しているのを見て「変わった人がいる日だな。何だろうな」とは思ったが、敢えて誰にも仮装のことを尋ねずにお終わった。実は「感謝祭」(=Thanksgiving Day)の時にも一度だけそうとは知らずにサンフランシスコにいたことがあったが、この件は後で触れよう。

3度目のハロウィーンの時は偶々最大の取引先の上場企業の常務さんが来訪されたので、当夜は副社長の自宅での夕食会という最大級のおもてなしとなった。彼の自宅の玄関に置かれた大きなガラス瓶に沢山のキャンディーが入っているのは承知していた。すると宴もたけなわの頃に玄関に大勢の仮装をした子供たちがお定まりの“Trick or treat”と言ってやってきた。それにキャンディーを配って終わりだが、後からも1~2組がやって来た。それだけの静かなお祭りだった。常務さんも「何だこれだけのことか」と学習されたのだった。

その日の午前中だったかに私と副社長が外出することになって、駐車場への近道になる隣接した事業部の中を通過した。そこの応接用のテーブルに4名ほどの男性が何か打ち合わせをしていた。副社長は「邪魔して悪いな」と断った上で“You guys look great in businessman’s costume.”と言ったのである。言われた方も然るもので“Thanks, we tried.”と切り返して大笑いとなった。こういう台詞を和訳するのは野暮だが「お前らビジネスマンの仮想が良く似合っているじゃないか」に対して「どうも。こっちも何とかしようとやってみたんだ」辺りになるか。

そこで感謝祭だが、その日はサンフランシスコの営業所長の自宅の夕食に招待されて一泊することになった。それはとても想像もしてなかった厳粛なものだった。親戚一同が招待されていて、そのDinnerの前に全員が立ち上がって手を繋いで賛美歌を合唱してから着席して、家長である営業所長がお祈りを捧げてから食事開始となるのだ。その呼び物である七面鳥の丸焼きは噂に聞いていたようにパサパサで決して美味とは言えないが、後から後から勧められて何とか割り当ては消化した。

食事の後では家長がピアノを、奥方がヴァイオリンを、双子の息子がトロンボーンとサキソフォーンを、お嬢さんがフルートを演奏するという具合の一家が総出で感謝祭に因んだ曲やクラシカル音楽を楽しそうに演奏しながら皆で会話を楽しむという宴会が深夜まで続いた。偉そうに言えば、私の英語力とアメリカ慣れをを以てしても絶えず会話の輪の中に入っていくのは容易ではなかった。正直な感想は「異文化とは何か」をイヤというほど経験した一夜だった。

実は、リタイア後の2000年の4月にはシアトルで「復活祭」(=Easter)も経験していたが、これはまた別の機会に。


Jazzも語ろう

2018-10-30 07:56:02 | コラム
久しぶりにピアノのジャズを:

本日は29日に10日振りでブロック注射を受けてきたので心身ともに快調である。という次第で暫く振りにジャズを語って見ようかという気分になった。昨夜はブログの原稿を打つ間にレッド・ガーランド(Red Garland)の“If I were a bell”を流していた。これはご存じの方が多いかと思うが、かのマイルス・デービスの“Relaxin’”の中でのガーランドのソロで、デービスのアルバムである以上彼のソロで始まり、ガーランドのソロはその後のジョン・コルトレーンの次となる。

ガーランドは確か前身はボクサーだったと聞いた記憶があるが、私はピアニストとしてはさして評価していなかったし、彼自身のアルバムはLPでもCDでも買った記憶がない。だが、このソロだけはかの粟村政昭氏も推薦された出色の出来で、褒めすぎた言い方をすれば「玉を転がすような」とでも言いたい流れであり軽快で快適なソロで、何度聞いても粟村氏が評価されるのも尤もだと思って飽きずに聴いている。

だが、昨夜はあらためてこの曲だけをじっくりと聞いてみた。その感想は「矢張り綺麗なソロであるのは間違いないが、音の粒が揃っていないようにも聞こえるし、クラシカル音楽の素養がないのかどうかまでは知らないが、タッチも綺麗とはいないかな」という辺りになった。でも、そんな屁理屈を言わないで聴けば「良いじゃないか」、「素晴らしいじゃないか。矢張りガーランドの傑作だ」と思っていれば良いと思う。

この他に私が傑作だと思って聴くソロにビル・エバンス(Bill Evance)のかなり初期のアルバム“Everybody Digs”に収録されている純粋のソロの“Pease Piece”が華麗にして叙情的で素晴らしいと思って愛聴している。実は、これも粟村氏が「エヴァンス初期の傑作」と推奨しておられる作品だ。何時聞いても後年のエバンスとは一色も二色も違うかなと思うが、その基調にある「耽美的」な特徴が既に十分に出ていると思う。

実は、私はこの“Everybody Digs”はLPもCDの持っていないのだが、30年近く前にここ百人町が長閑な場末のだった頃に、雑貨屋風の店で確か¥300程度のコンピレーションもののCDを買ったら入っていたのだ。それだけにエバンスの選りすぐりの演奏が入っているのが有り難かった。後年SBSのラジオに出演させて頂いた頃に定期的主演以外の企画で「ビジネスマンの服装学を語る」という35分番組に出たことがあった。これはシテイボーイズと言う斉木しげるという大竹まことの仲間が司会をしていたレギュラー番組だった。

プロデューサーにバックで流す音楽の選択を任された。そこで私は迷わずに件のCDを持参して、この中の“Peace piece”にしたいと申告した。彼は先ず全曲を聴いてから決めようと言って聴き始めた。しかし、かの曲を含めて途中まで聴いて「これならば全部流しましょう」と決定した。「ビジネスマンの服装学」は私が得意とし最も好む話題であり、独特のようでもアメリカの金融業界に始まった服装学はアメリかでは支配階層ではほとんど常識に近いのだ。だが、我が国にはほとんど知られていないが残念だ。

そういう点を斉木しげると女性のキャスターの巧みな司会でアッという間に語り終えたと思ったら35分が経過していた。バックにエバンスの音楽が流れていたなどとは全く気がつかなかったほど一所懸命に語っていた。告白しても良いとは思うが、35分に収まるようなシナリオは自分で書いておいたのである。終わってホッとしてスタジオを出ると、プロデューサーさんも「どう収まるかと気にはなっていましたが、本当にアッという間の35分でしたね。ご苦労さでした」と労ってくれた。

回顧談はこれくらいにして話をピアノソロに戻すが、上記2曲以外に好む演奏は未だ未だあると思うが、後はじっくりと考えた上で別の機会に譲ろうと思う。


体調不備と戦う日々

2018-10-29 15:45:13 | コラム
体調不備と老化とBGM:

昨年の10月に気象病と言うのか、気温と湿度の変動に体が付いていけずに首筋を中心にして体中に凝りと筋肉痛が発生して苦しめられた。当時はこれは一過性であり、気温と湿度の変動が止めば治るものだと見込んでいた。だが、何故かそうは行かずに掛かりつけのクリニックの先生からは「一種の自律神経失調症だ」とまで診断されて1年が過ぎてしまった。その間に、本日もその医師に告知されたのだが「その間に年齢相応に体の方々で老化が進んだと言うこと」だそうだった。

昨夜も中々寝付けないでいる間に何となく寒気がして来たので「またか」と思って熱を測れば37.0度程度のこと。10月になってからはこういう状態が2~3回発生して睡眠不足となってしまうようになった。そこで、今朝は何とか早く起きて少しだけ朝食をとって痛み止めを服用し体調を整えて、そのクリニックに9時前に入った。して頂ける治療もブロック注射と解っているのだが、その注射を受けた直後にはケロッとなって、医師にも「ジムに行っても良い」と許可が出るのだ。

今朝は流石に本格的な運動までする気がせずに、先ずはマッサージチェアに15分かかって体をほぐしてから、少しストレッチをやって体を温めた。それからシャワーを浴びてジェットバスに入って血行を良くして気分良く帰宅したのだった。こんな事を繰り返していたのでは埒があかないのだが、何分にも先日の国利国際医療研究センター病院での心臓の超音波検査の結果が悪かったことで多少以上弱気になっているので、中々精神状態が回復していないのが情けないのだ。老化とはこんなものかと漸く解る気がするのだ。

今はBGMにショパンのピアノ曲を流しているが、クラシカル音楽は聞き流していられるので文章を書く(打つ)邪魔にはならないが、長年聴いてきたジャズだとついつい聴いてしまって先に進まないことが多いのだ。オスカー・ピーターソンなどは流れるようなリズムもあり調子が出るかと思ってかけてみるが、どうしても聴いてしまって思うように考えが進まずに指が動かなくなってしまうのだ。

話が本筋の体調のことから外れてしまったが、こうやってブログの毎日更新を続けているのも「やり遂げる」という挑戦を続けて、少しでも気象病と自律神経失調症と自然に進行する老化現象と戦おうとしていることなのである。BGMもその助けになるかと思って忘れずに流している。でも、何故クラシカル音楽だと聞き流せるのかが、我ながら解らないのだ。明日はジャズに戻してみるかと考えているところ。