ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

カタクリの花を見に行きました

2010年04月25日 | 季節の移ろい
 4月24日に春を告げるカタクリなどの野草を見に行ってきました。長野県立科町の津金寺(つがねじ)の裏山は、春のカタクリから始まり、秋の萩までの野草の花が次々と彩る古刹(こさつ)です。5月は山吹の花が咲き乱れ、6月下旬には蛍が飛ぶそうです。裏山は昔の自然が残っている「津金寺自然探索園」になっています。

 4月下旬に入って寒い日が続いたため、カタクリは開花が遅れていました。

 本堂の観音堂や阿弥陀堂の裏山は杉木立(こだち)の木漏れ日の中でカタクリやアズマイチゲ、イカリソウ、シロバナエンレイソウ、ニリンソウなどの春の主役が所々で咲き始めていました。咲き始めのために花の群生とはいえない感じでした。


 裏山の下の方の日当たりがいい場所では、カタクリやアズマイチゲがいっせいに花を咲かせて緑の絨毯の中に花が映えていました。カタクリの花はピンクの濃さがいくらか違うものが混じっています。午後の日差しがカタクリの花の背後からあたってピンクの色を際立てさせていました。
アズマイチゲは多くがまだ背が低く、花も小さく、一見するとまるでニリンソウの蕾のような感じでした。

 そのニリンソウは当然、群生しています。裏山なので午後になって日差しが弱くなり始めたため、白い小さな蕾が風に揺れるばかりです。イカリソウも咲き始めでした。シロバナエンレイソウも咲き始めで、花がやはり小さいと感じました。書院の裏側にはヒトリシズカも咲いていました。5月末に咲く九輪草は葉の芽が出始めたところでした。

立科町は長野県東南部の佐久市と上田市の間に位置します。八ヶ岳連峰の麓の部分と、千曲川に近い部分などが混じった町です。小諸市や上田市の桜の名所が満開を過ぎて葉が伸び始めているのに対して、立科町の津金寺は桜がやっと満開になり始めました。標高が約700メートルと高いために桜の開花が遅いそうです。

 津金寺は大宝2年(702年)に大和薬師寺の行基(ぎょうき)が仏教敷衍(ふえん)の拠点として設けたと説明されています。当時は相当草深い地方の寺だったような気がします。伝教大師の最澄(さいちょう)などが学僧を育成する「天台談義所」を設けた結果、信濃の国の地方学問所として存在感を示してきたそうです。天台宗の最も古い談義所だそうです。ここは冬が寒いところです(この寺の少し先が笠取峠です。峠付近には、別荘地の「学者村」があります。夏涼しいということは冬は寒いのではと思いました)。こんな山麓で学問するだけでも修業の場だった気がします。学問をするには静かな環境が大事だと思いますが、食糧を確保するだけでも大変な場所だった気がします。

 戦国時代は武田信玄が庇護したことから、この寺の紋は「武田菱」です。たぶん、川中島の合戦では手勢が通過したところでしょう。天正10年(1582年)には織田信長の一派の兵に全山を焼かれて縮小した後、江戸時代に小諸藩の祈願寺として再興されたそうです。こんな片田舎にも日本の歴史の積み重ねがあることを少し知りました。司馬遼太郎の街道シリーズに紹介されていてもいい場所だと思いました(未確認です)。

 カタクリが開花する時期は、檀家の方がボランティアとして手伝います。入り口などで、野草の説明書を手渡しするなどの手伝いです。「入り口のテントの中は今日は寒い」とボランティアの方が言っていました。寺の周囲は米とリンゴの二つを主に栽培する農家が多いそうです。春が遅く、裏山などからわき出る清水は冷たいので、工夫して田んぼをしていると思います。現在は、「五郎兵衛米」(ごろべいまい)という自主ブランドのお米が好評だそうです。佐久市(旧浅科町)の国道沿いには、この浅科五郎兵衛米を紹介する看板が立っています。農家の努力の一端です。こうした積み重ねが大事と感じました。