~ 喜怒 色に顕わさず、という一句を読んで、ハツト思うて大いに自分で安心決定(あんじんけつじょう)したことがある。
これは「ドウモ金言だ」と思い、始終忘れぬようにして独りこの教えを守り、
ソコデ誰が何と言って誉めてくれても、ただうわべに程よく受けて心の中には決して喜ばぬ。
また何と軽蔑されても、決して怒らない。
(「福翁自伝」より)
たしかに、理不尽なことがあって、怒ったところで物事は好転せず、むしろ悪くなることが多いはず。
ならば、無駄な精神の疲弊は避け、いちいち振り回されることはやめる。
自分のコントロールできることに集中、すればよいのだ。
福沢は、「喜怒 色に顕わさず」をポリシーと決め、
反復して口に出して、「始終忘れぬようにして独りこの教えを守り」、
身に”技として”しみこませていった、ということです。
福沢は、蘭学を志していた際、兄弟子の計略に際して、このように記しています。
~「何と卑劣千万、ソンナ奴があるものか。モウ自棄だ。大議論してやろうかと。」
しかし、結局、福沢は
~「今アノ家老と喧嘩をしたところが、負けるに極っている。」
~「アンナ奴と喧嘩をするより、自分の身が大事だと思い直して」という按配です。
そしてこうも記しています。
~「小生あえて奥平様を怨むにあらず。ただ世禄を嫌うのみ。」
この『”ひと”と”こと”を分けて考える。』、『”ひと”につかず、”こと”につく。』という考え方は肝だと感じます。
自然と、偏狭な思いにとらわれることなく、広い目で考えることができるようになると思うし、
”情に棹差せば流される”的なこともなく、自分の中にブレない軸を持つ訓練にもなるように思います。
※ あまり、説教っぽい(自分に対する説教ですが)のが続くのもどうか、と思い今日はこのへんで、と思ったら、先日ブログで書いた美輪明宏さんの”腹6分目のつきあい”について、この本、「座右の諭吉」でも言及していて、ちょっとびっくりしました。
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