ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

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負けたり、負けたり、する ~ tug of war

2012年10月20日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

誰もが負けたくはないし、負けを認めたくもない。

それは、"決して負けを認めないことが賢い生き方であるとする当代の風儀に従順なせい"、なのかもしれない。

「勝ち負け」というと勝負の世界に限られた話のようにきこえるかもしれませんが、
「優劣」と読み換えてみると、ウチダ先生の指摘することは、我々の生活のあらゆる場面についてまわるように思えます。
目にするのは、それとは気づかなくても、どんなに優れているかを誇示する、
いわゆる” 自慢マーケティング”モノだらけ。
(ワタシは弱くて、みみっちくて、きたなくて、いやらしくて、邪悪です、ってのは少ないです。)

家庭でも学校でも会社でも、私たちは「どうやって競争に勝つか」を教えられる。
あらゆるメディアが「勝つ」方法をうるさく教えてくれる。(株式投資で、競馬で、恋愛ゲームで。)

しかし、現実の生活では、私たちは決して「勝ったり、負けたり」しているわけではない。
むしろほとんどの場合、私たちは「負けたり、負けたり」しているのである。

究極の勝負が、生き死に、にあるのであれば、誰しもが例外なく、確実に訪れる敗北に向かっている。
人間は構造的に敗者なのだ、ということを基礎にして、勝負をとらえ直す必要がある。

4000校以上が出場する高校野球、あれだけの時間とエネルギーを投じながら、
勝利するのは一校だけで、残りはすべて敗者である。
「どうやって勝つか」を会得することが目的なのであれば、これほど「費用対効果」の悪い教育事業はない。
参加者のほとんど全員が敗者であるイベントが教育的でありうると考えるのは、
「適切に負ける」仕方を学ぶことが、人間にとって死活的に重要だということを私たちが知っているからである。

"教育は「費用対効果」や「市場原理」といったビジネス・タームで語るべきではない。
 これは教師としてどんなことがあっても譲ることのできないギリギリの防衛戦である”、

”この平明な真実を踏まえて発言しているひとは、少なくとも教育行政の中枢にはいない”、

”教育について大きな声を上げて語っている人間のほとんどは、
「教育はビジネスだ」ということを自明の前提にしている。

教育施策を巡る議論さえも、論者たちのほとんどは
「どちらの提言する施策の方がより費用対効果がよく、より多くの経済効果をもたらすか」を競うという、
「ゲームのルール」そのものには疑念を差し挟まない。”

と語るウチダ先生の熱さに心打たれました。

「ゲームのルール」の了見のなかでしか物事を考えられない、物を言うことができない、
ということの浅薄さ、精神の荒廃、に対する指摘。

別に負けをススメてるわけでもないし、負けたいわけでもないが、
「負ける」ことがむしろ当たり前なら、勝つことばかりを前提にするのではなく、
「どう負けるか」、「負けてからどうするか」、という前提にたつことの方が大事なのではないか

負けたことを、他の誰のせいにするでもなく、自分の責任だ、と受け入れ、
ベストを尽くしたから改善努力の余地はない、と言わずに、それでもなお改善点を見いだし、
このような不具合を伴いながら ここまでやってこられたことを周囲の人々に「感謝する」、

そのような語法をもって、敗北を総括し、とらえ直す。

ただひたすらに不快な後味を残すような「無意味な敗北」を引き受けるのではない、
そのような負け方がある、そのようなことを高校球児の敗北にすら学ぶことができる。 

エートスとは聞き慣れない言葉であるが、「社会認識の基軸」のような意味。
第二次世界大戦を境にして、日本人のエートスは、断絶ともいうべき転換を強いられた。

~  天皇制や封建的家族制度のうちにおのれの戦前的「半身」を深々と残しているせいで、
   費用対効果や市場原理といった「グローバルな」世界思想をためらいなく選ぶことができないという不自由さ、
   それが結果的に昭和人に例外的な知的深みを与えた。
   人の知的な深みは、その人が抱え込んだ葛藤の深さと相関する

仕事をすることの意味についても再考させられた。これはまたあらためて。

昭和のエートス (文春文庫)
内田 樹

文藝春秋

勝ち負けの向こう側にある、「どう負けるか」、「負けてからどうするか」という態度、
勝ち負けは大切だが、本当にリスペクトすべき尊厳や佇まいは、別なところにあるように思える。

リスペクトすべきところまでゲームのルールの枠内に支配されているようでは、ろくな者になれないのでは、
ということに、あらためて思いが至った、というわけなのです。

( ↓ ) unsung heroにも通じる、新しいperspectiveにふさわしい歌を。

~ 歴史ではエビデンスのないものは存在しないことになっている。
  何も起こらなかった場合には、その人の功績には誰も気づかない(本人さえも)。
  けれども、私たちの社会はそのようなunsung hero(その功績を歌う人のいない英雄)たちの無言の献身によって、
  かろうじて今あるようなものとして成り立っている。
  そのことを忘れるべきではない。

We Expected More
But With One Thing And Another
We Were Trying To Outdo Each Other
In A Tug Of War 
僕らはもっと期待していたけど、
所詮 戦いの拮抗の中で お互いを打ち負かそうとしていただけだった

In Another World In Another World
We Could Stand On Top Of The Mountain With Our Flag Unfurled
In A Time To Come In A Time To Come
We Will Be Dancing To The Beat Played On A Different Drum
違う世界でなら
違う世界でなら 僕たちは山の頂上に立って 旗を広げることができたろうに
やがて来る未来では
やがて来る未来では 僕たちは異なったドラムの様々なビートに合わせて踊っていることだろう

It's A Tug Of War
Though I Know I Mustn't Grumble It S A Tug Of War
But I Can't Let Go If I Do
You'll Take A Tumble And The Whole Thing Is Going To Crumble
It's A Tug Of War
これは綱引きだ
不平や愚痴をこぼしてはいけないのは分かってるが、いつだって拮抗した綱引きなのだ、
手を放したら、転落し、すべてが崩壊していく、人生は綱引きなのだから

In Years To Come They May Discover
What The Air We Breathe And The Life We Lead Are All About
But It Won't Be Soon Enough Soon Enough For Me
やがて来る時代には、みんな分かるだろう
僕らがどんな空気を呼吸し、導き出すべき人生がどういうものなのか
でも 僕にとっては それでは遅すぎる…

 

<2010/3/8 初稿>

<2012/10/20 再稿>

このtug of warと対をなすpipes of peace、を付けた記事は、巧拙はともかくよいテーマだと思っていたので、
ちゃんと対をなすようにしようと思っての再投稿です。
平和について語ろう ~ パイプス・オブ・ピース


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2 コメント

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えっと・・ (沙於里)
2012-10-27 00:03:32
読み逃げばかりでコメント遅くなりましたが~。
この曲、大好きです! こんな歌詞だったんですね。
洋楽は歌詞よりもフィーリングで聞く方なので、いつもこちらで目から鱗体験させて頂いてます
う~ん、久々に聴いても、いい曲 
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これはunrated songのひとつだと思います (沙於里さんへ)
2012-10-27 07:28:40
たしか、この頃までポールはyesterdayのイメージ、を避けてたのに、せきを切ったかのようにGeorge Martinと組んでオーケストラを使ってますね。
とても素直で、らしさが出るアプローチなので、ぼくは好きなのですが。
前衛的なアート好みのとこもいいですけどね(笑)
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