「金子由香利さん~生命と偶有性、終章」、「変性意識」、などで記事にしてきたことにも通じますが、
『 心的現実性 』こそが重要なのではないか。
~ 現代的な用法によれば、目の前にある机やコップこそが「具体」であり、信頼に足るもの。
一方で、言語や数学、自我といったものは「抽象」であり実在性が低い。
しかし、プラトンの体系にしたがえば、具体と抽象の関係は逆転する。
目を閉じて思い浮かべる観念の世界のほうが、
よほど確固とした精神世界における「具体」=「イデア」につながっている。
目の前のコップなどは、イデアの不完全な影にすぎないのである。
~ 現実は、私たちの生存を支える不可欠な条件である。
しかし、仮想が現実に比べて劣るというのでは決してない。
モーツァルトやアインシュタインといった創造的な天才の中では、
むしろ仮想が現実よりも魂に近かったのではないか。
そう、私たちの日常に起きている出来事だって、自分の変性意識を通した物事や事象であることに変わりはない。
必ずしも現実世界の出来事などの「物的現実性」に即したものであるとは思えない。
人間にはスコトーマ(盲点)があるが、自分が認識した範囲をもって客観的な現実だと考えてしまう。
そうやって、スコトーマによって絞り込みや取捨選択がなされた「物的現実性」がさらに、
変性意識によって変性された現実となってしまう。
大半は思い込みであったり、思い込みとまではいかなくとも、大なり小なり意識のフィルターで偏った見方をしているものだと考えれば、
現実と仮想、現実と非現実の線引きなんて結構いいかげんなのかもしれない。
シンプルに言うと、
自分が現実だと思っていることが現実なのだとしたら、それはもはや「心的現実」なのではないか。
それは現実と仮想(言い換えれば信念のようなもの)が混ぜ合わさったような世界なのではないか。
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「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書) |
泉谷 閑示 | |
講談社 |
私たちはよく、「でも現実は…」という言い方をしたり、「現実逃避」という言葉を使ったりします。
しかし、「現実」という言葉がこういう使われ方をするときには、必ず大切な何かが台無しにされる感じがある。
「そんな夢みたいなこと言ってないで、現実を見ろよ」というようなことを言われると、
水をかけられたようなシュンとした感じになる。
著者は身内の死に際し、焼かれたお骨を見て、
宇宙の中にある時出現し、そしてある時消えていく人間、
その中でどう生きたにせよ、最後はこのようにわずかなカルシウムとリンの固まりになって、そして土に還っていくのだ、ということを感じ、不思議な気持ちになったといいます。
そんな風に考えたときに、なぜそこまでみな「現実」が大事だと言うのだろう。
お金にしても、「これは百円」、「これは一万円」と、人為的に決めたルールによって成り立っているに過ぎないのが現実であって、
社会的役割にしても、例えば会社の重役のように限られた社会の中でのみ通用する偉さというファンタジーに基づいているだけの場合も多い。
私たちが「現実」という手垢にまみれた言葉を使うとき、多くが「ごっこ」の世界であり、
それが「こども銀行」か「日本銀行」かの違いでしかない。
そう考えると、現実/非現実という線引きにどこまで揺るぎない根拠があるのか、その線引きにどの程度の意味があるのかと疑問に思えてきます。
われわれが「現実」と呼んでいるものも数あるファンタジーのひとつに過ぎないのではないか。
より多くの人々が信奉するファンタジーが「現実」として特別扱いをされているだけではないのか。
私たちはどこかで、このことに目覚めていなければなりません。
いわゆる"現実"というものを知り、処世の技術を学んでいくことは、人が社会生活を送るうえで不可欠なこと。
しかし現実と呼ばれるものも実は線引きされたひとつの側面である、と思うことができれば、
シュンとなる必要もなく自由な気分を獲得できるのではないでしょうか。
そして物的現実、客観的現実に人は生きるのではなく、
知らないことや見えないことが大半である客観的現実のうち、見える部分だけを取捨選択して、あるいはさせられて、
自分の心や意識で感じる心的現実に一番の影響を受けながら生きている、
というのがほんとうではないだろうか、と思えます。
実際の現実世界において、なんらかの状況下に置かれ、プレッシャーがかかったりしても、
その現実世界を私たちがどう捉え、どういう風に反応し、対応していくのかは、
私たちに一番の影響を与える「心的現実」に反映された世界がどうなっているのかに最終的に依存する。
「物的現実」は、自分でコントロールするのは難しいが、
「心的現実」は、自分でコントロールしていくことができる。
ここに身につけるべき" 心の技術 " の要諦があるように思います。
年末、「道標」を歌う福山雅治さんを見ていて、
ややもすると照れ臭いような歌詞を、臆面もなく入り込んで歌っているがゆえに伝えることのできる力、みたいなものを感じました。
朝日新聞には、舘ひろしさんがヤセ我慢する男の美学について語っている記事がありました。
ボケナスでいることも大事だが、片や入り込むことのできる憑かれたような自分もいたほうがよい。
ドラゴンの道、意識のクオリア(意識の粒、質感)を磨いて実践してゆくとは、
このような心の在り方の技術を磨いていくことなのだな、と感じた次第。
長くなりますが、「自信」について、的を得たように感じたフレーズを抜き書き。
「我」に囚われるような「頭」が口出しする、小さな「理性」は、それの役どころをわきまえて働くことが大切。
人間の生き物としてのオリジナルな部分である「心」「身体」は元々そんなことには囚われておらず、自然の原理で動いているわけです。
この内なる「自然」は、大自然であり、宇宙であると言ってもよいでしょうし、宗教的に言えば、神とか仏性ということになるでしょう。
この人間に内蔵された「内なる自然」を信じることが「自信」なのではないか。
「自分」という言葉では、どうにも有限な一個人のイメージが付きまといます。
そういう限界のあるものを信じるということ自体、土台無理があるとも言えるわけで、
底がぬけて自然とつながっているような開かれた自分ならば、信じることもすんなり出来るのではないでしょうか。
~ 宇宙の中にある電子はすべて同じ質量と電荷を持っている。
「私」という意識の成り立ちについても、この世界の根本的な成り立ちに寄り添って考える。
~ 顔や人格、記憶といった表面上の因子を除去していく時、
「私」の中核にある自我の中枢は、無色透明な他者と等価なもので、本当は差異などないのではないか。
宇宙のもっとも根本的な中核的な構造と同じく、世界には本当はひとつの意識しかないのではないか。
今年も脳の活性化させて頂きます
やさしく語れるように今は仕込みの時期、
まずは引出しをふやしている感じでしょうか。
わからんときは、わからんと
またご指摘くださいませ。<(_ _)>
あ、書(じゃなくて字)見られてしまいましたか、お恥ずかしい、ポリポリ。(*_*;
今年もよろしく。