著者は言う。
「無時間的」な数学的思考、「時間的」な現実的思考、
どういう場合に時間を考慮に入れ、どういう場合に時間を無視するのか、を厳密に考察することが肝要だ。
アキレスと亀―時間の哲学と論理 | |
千代島 雅 | |
晃洋書房 |
アキレスと亀のパラドックスの前提そのものを否定したベルクソンという哲学者がいる。
ゼノンのような人たちは運動体が通過した「軌跡」としての「空間」と、「運動そのもの」を混同している。
そして、単なる軌跡としての空間が無限に分割可能であることを、そのまま運動に当てはめ、
運動も無限に分割可能であるかのように誤解する。
我々が生きている現実の世界における運動や行為は分割できないもの、不可分なものであり、
運動体がある場所から別の場所へ動くとき、
その運動は分けることのできない一つの全体をなしている。
一見当たり前のことを言ってるようにしかきこえないが、
私たちは、いとも簡単に、アキレスと亀のパラドックスに錯覚を起こす。
時間、空間、運動といったようなことは、私たちは自分中心にしか知覚できないから当然と言えば当然だ。
天体が動くのではなく、地球が動いている、と言ったガリレオのような思考にはなかなか至らない。
<時間は流れない>
流れは「流れないもの」を、
運動は「運動しないもの」を前提にしていることを忘れてはならない。
世界の系と時間の系がいっしょに動けば、私たちは流れに気がつかない。
「時空」の概念が示すとおり、世界(空間)と時間は表裏一体の関係にあるはずだ。
そもそも時間は流れないのであり、
生成する無常な世界が過ぎ去ることを時間が流れているように勘違いしているのである。
「時間」という言葉は「時刻」と比べて極めて曖昧な使われ方をしている。
「時間」は、世界と一対一の対応関係を保っている「時刻」とは異なり、もともと時計や数字とは無関係なもの。
時間の流れを現在から未来への方向を持った単純な一本の直線によって示すような粗雑な考え方
を改めるべきである、と著者は指摘する。
絶えず流動する世界の系「世界N」に対して、「時刻N」の系を考えてみる。
過去、現在、未来というが、現在がそのつど対応できる世界の状態はあくまでも「一つ」である。
(この考え方は量子論、シュレジンガーの波動の収束、を連想させる。)
「現在」は絶えず生成する無常な世界において次々と現れては消え去る多様な状態の一つ一つに連続的に対応し続ける。
そして、このように対応し続けながら、いつも「現在」であり続ける。
「現在」は、それに対応する世界の状態がどのように変わろうとも、常に自己同一を保つのである。
時間はいつも私のもとに「現在」としてとどまる。
世界は過ぎ去り、時間はとどまる、のである。
これは、時間の" 地動説 "だ、と思った。
動いているのは世界のほうであり、時間は常に"現在"として留まっているのだ。
運動している世界や時間と、その軌跡は違う。その軌跡を「時刻」でもって測っているだけなのだ。
時間は流れない。
ドラえもん 最終回 タイムパラドックス
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