日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

日本漢字能力検定協会叩きはなぜ?

2009-02-10 16:47:37 | Weblog
財団法人「日本漢字能力検定協会」(漢検協会)が儲けすぎだとマスメディアが糾弾の先頭に立っている。トヨタ、日産、パナソニックなど日本を代表する巨大産業が何千億という赤字を出して万単位の人員整理に走る中で、この漢検協会は年々業績を指数関数的に伸ばしているのが凄い。読売新聞によると《34年前、大久保昇理事長(73)が設立と同時に始めた漢字検定(漢検)の受検者数は、当初の670人から2007年度には272万人に増加、その資格は進学や就職でも優遇されるなど社会に広く浸透した。》(2009年2月9日15時59分 読売新聞)とのことである。

漢字検定の受験料が難易度のランクに応じて1500円から5000円であるが、年々受験者が増え続けていることは、この受験料が妥当なものとして受験者に受け入れられていることの証であろう。何か習い事をしている人なら、誰一人としてこの検定料が不当に高いとは思わないだろう。そうなると傍から口を挟むことではないように思うが、漢検協会が財団法人であるがために、《財団法人の公益事業について、指導監督基準は「健全な運営に必要な額以上の利益を生じないよう」と定めている。》(asahi.com 2009年2月9日15時1分)のだそうである。財団法人の公益事業と聞いても私にはピンとこないが、財団法人にするとどのようなメリットがあるのだろう。国庫補助とか税金面の優遇処置があるのだろうか。そこで財団法人を調べてみた。

ウィキペディアの「一般社団法人及び一般財団法人に関する法律」には《公益法人(社団法人および財団法人)は、これまでの主務官庁による許認可主義から、その事業の公益性の有無に関わらず準則主義(登記)によって簡便に設立することができる(ただし税優遇を受けるためには、後述する公益社団法人・公益財団法人に認定され、行政庁の監督を受ける必要がある)。》とある。asahi.comによると《文部科学省の銭谷真美事務次官は9日の定例記者会見で、日本漢字能力検定協会の問題について「是正に向け厳格に指導したい」と述べた。協会が理事長の親族企業に巨額の業務委託をしていたことについても「財団法人として適切な取引だったかきちんとチェックし、必要な指導監督をやっていく」と語った。》(2009年2月9日19時33分)とのことなので、漢検協会が文部科学省の監督を受ける立場にあることが分かる。このことから私は漢検協会が国庫補助はともかく税優遇処置を受けているのであろうと推測した。この税優遇処置にどの程度のメリットがあるのだろう。

《漢検協会、ファミリー企業に66億円業務委託 3年間で》(asahi.com 2009年2月9日15時1分)と言うことは少なくともこれだけの利益を上げているのであろう。税優遇処置を辞退したら払うべき法人税はどれぐらいになるのだろう。税金を払うと利益が吹っ飛んでしまうなんてことはあるまい。税金を払っても公益財団法人は儲けすぎたらいけないのだろうか。それなら私企業にすればいいのに、と私なんかは思ってしまう。それよりなにより、どのような基準で儲けすぎと見られているのだろうか。

漢検協会は検定試験事業のほかに漢字ソフトでも大きな利益を上げているとのことである。アイディアの勝利ではないか。私には漢検協会のやっていることで、誰かが損をしたわけはないと思っている。私は反対なのであるが、大学のようなところでも特許を取ることを勧めており、出願者に一定の利益を廻そうかと言うご時世である。漢検協会のアイディアマンを元来は褒め称えるべきであろう。誰もが損をしないまともな事業をやっていて、たまたま儲かりすぎたものだから利益の処理にアタフタとしたというのが実情ではなかろうか。現状が儲けすぎで、しかも個人の儲けにしてはいけないのなら、今回に限って利益を公益事業の基金に廻せば済むことであって、マスメディアの重箱の隅をつっつくような詮索は私には何の興味もない。

とペンを置きかけてふと気になった。誰もが損をしないまともな事業をやっていて、と上に記したが、げすの勘ぐりに引っかかってきたものがある。漢検協会がどれぐらい文部科学省の「天下り」を受け入れているのかは知らないが、文部科学省から見ればこれだけ利益を上げる法人は、さらに数人の「天下り」なり「渡り」を押し込む格好の猟場ではないか。ここに居るべき文部科学省の「天下り」がいないのであれば、文部科学省にとってはその分の利権を損した気になるのではなかろうか。しかし協会の事業の実態から見ると「天下り」はただの無駄飯食いであろう。「天下り・渡り」を押し込もうとする文部科学省とそれを拒否する協会のせめぎ合いが今回の事態を招いたと考えると話が面白くなるではないか。しかし、本当のところはどうなのだろう。




一弦琴「玉簪花」(ぎぼし)再演

2009-02-09 19:55:24 | 一弦琴
先週の土曜日、生国魂(いくくにたま)神社にある浄瑠璃神社に一弦琴の演奏が上手になるようにお願いしてきたので、その効き目がどうかなと思い、二年ぶりに「玉簪花」を弾いてみた。気のせいか唄いやすい。精進を重ねてまあまあと思えるレベルまで行けたらお礼に献奏するのもいいかもしれない。

山城一水 作曲 花崎采えん(王扁に炎)訳詞、昭和の曲である。

 秋ひそやかに ほかげのうつる 御簾(みす)すずし
 緑のしとねも ふせぎえぬ あけの寒さ
 南楼に ふえの音きこゆ
 おもひやる 壺のぎぼしの 花の萼
 一夜の西風(あきかぜ)に ひらきけむ
 夢よりさめてきく あけ烏 月も落ちぬ
 花の香 幽かにに ただよへる



大阪ミナミをぶらぶら 生国魂神社 二弦琴 レトロな喫茶店

2009-02-08 21:13:35 | Weblog
かれこれ半世紀前、学生時代を大阪で送った私は、仕事をやめて時間が自由になってからはよく大阪に出向く。用があってもなくてもぶらぶら歩きが楽しい。昨日はお天気に誘われてミナミにまで遠征した。地下鉄御堂筋線を動物園前駅で降り、①番出口から地上に出て左側のガード下をくぐってそのまま進むとそこが「ジャンジャン横丁」である。学生時代にちょこちょこ通ったところでもあり、闇市世代の私にノスタルジアを感じさせる。串カツ屋の前に並んでいる行列を見ると、その昔、米屋の前で行列を作って配給の米の順番を待っている自分の姿が思い浮かんでくる。

通天閣の近くの串カツ屋の行列に加わり、待つこと半時間ほどで串カツにありつけた。衣が主食代わりの腹ごしらえをしっかりとして、足の向くままに歩き出した。いったん天王寺に出てから谷町筋を北上して、ふと目についた横道に折れると藤原家隆の碑があった。家隆は藤原定家とともに新古今和歌集の選者の一人で、晩年この地に構えた庵に「夕陽庵(せきようあん)」と名づけたのが、夕陽丘(ゆうひがおか)と呼ばれているこの辺りの高台の名の起こりだそうである。また谷町筋を先に進むと織田作之助の文学碑のある口縄坂に出会い、石段を降りていくと戦前の古き良き時代にタイムワープしたかのような錯覚に襲われた。松屋町筋に出てさらに北上し、標示に沿って進むと生国魂(いくくにたま)神社に辿り着いた。大阪最古の神社で、起源は神武天皇の時代に遡るとのことである。境内社がいくつかあってその一つが浄瑠璃神社である。その前に一弦琴ならぬ八雲琴と呼ばれる二弦琴の創始者中山琴主(ことぬし)の碑があった。






浄瑠璃神社と中山琴主との関係がもうひとつ分からないが、八雲琴は文政三(1820)年に琴主が創案し、出雲神社などで献奏する音楽に用いられた。一弦琴を模して作られたようで、二弦が同律に調弦され両弦を同時に弾じるので複弦の一弦琴と見なすことも出来る。一弦琴とはことなり神道の宗教音楽的色彩の濃い楽器となり、大本教の典礼音楽に使われているそうである。そういえば昨日も境内で大本教の出口王仁三郎の文字を散見した。彼に関わりのある焼き物の展示会が催されていた。私の奏でる一弦琴とはつながりも深いようなので、私も芸能上達を祈念した。

江戸時代はこの神社の境内に芝居小屋や見せ物小屋が軒を連ねて多種多様な芸能が行われ、生国魂神社は上方伝統文化発祥の地と言われているとのことである。上方落語の祖・米沢彦八もこの神社の境内で芸を演じてそうである。また近松門左衛門の「嘉平次おさが 生玉心中」では生玉神社(とも呼ばれていた)馬場先の松原を最期の場と来たことは来たが、『馬場先の松原を最期場と心ざし。来たことは来たが、あれ見や、星さへ一つない雨空。たとひきれいに死んだりとも、血潮の体を雨に打たれ、むさい汚い死顔と笑はるるも口惜しい。この茶見世を最期場に極めんと、羽織うち敷き座を組めば、ともに寄添う床の上』と愁嘆場がこの境内の茶屋で演じられたのである。「曽根崎心中」ではお初と曾根崎の森で心中することになる大阪一の醤油問屋平野屋の手代徳兵衛が、奴に樽を担わせて生玉の社に着いたところ、『出茶屋の床より 女の声、ありや徳様ではないかいの コレ徳様々々と手を叩けば』とお初が声をかける。近松の心中ものは実録にのっとっているだけに、三百年の時の隔たりがあるものの、情景の描写に臨場感を覚える。茶見世、出茶屋とは男女の逢い引きに使われたのであろうが、生国魂神社の周辺にはその歴史の流れも脈々と息づいてであろう、現代風出会茶屋が林立していた。

西に向かうべきところを東に行ったり、右往左往しながら国立文楽劇場の前を通り千日前に着いた。歩きつかれたので一服しようかなと周りを見回していると、MF珈琲店の標示が目に入った。心斎橋そごうが2005年に改築オープンした時に、「なにわ遊覧百貨店」にあるこの名前の珈琲店に一度入ったことがあるが、多分その本店であろうかと思った。横道に入り込んだところにレトロっぽい店があった。中に入るとたばこの煙が立ちこめているのでやや恐れをなし、店の人に禁煙席があるかと聞いたら、ありませんとの返事が返ってきたのにまず驚いた。受動喫煙を防止を促す健康促進法もなんのそのである。出ようかとも思ったが別の店を探すのも面倒だし、またせっかく期待してきた店だからと思い直して空いたボックス席に腰を下ろした。

目の前のボックス席には40代か50代の男性が二人向かい合って座っていて、二人ともタバコを吹かしている。しばらく様子を見ていると二人ともチェインスモーカーで、煙が絶えない。斜め前の女性二人組もプカプカである。そうか、ここは喫煙者天国なんだと納得することにした。健康増進法が施行されてから5年、喫煙者は多くの公共の場から追い出されて行き場を失ってきている。それに同情してか、さすが大阪、お上のお達しに反骨精神で刃向っているのであろうかと勝手に想像した。

新しい客が入ってきた。元関取のような体格の立派な紳士で、スーツをぱりっと着こなしてネクタイも締めている。その人物を見た途端、前の席の男性二人がパッと立ち上がり45度の敬礼をした。国民学校時代、先生が教室に入ってくると級長の「起立、礼」の号令に合わせて児童は規律正しく敬礼をしたものであるが、まさにその再現であるのには呆気にとられた。が、私は直ちに事情を理解した。恭しげに話しかける二人に対して短く受け答えしていた紳士が、テーブルの上の勘定書に手を伸ばして取り上げると、二人はもう一度小気味の良い動作で頭を下げて紳士が奥の席に進むのを見送った。これではMF珈琲店、喫煙者に注意するどころではないのかも知れない。残念ながら反骨精神の可能性は薄れてしまった。

そう思って密かに周りを観察すると、ほぼ満席のほとんどの客が私の想像した素性のように見えてきた。先ほどの女性も岩下志麻ばりの美人に見えてくる。一人の紳士の存在で店内にピリッとした空気が立ちこめるのでこれは大したものだと思った。こういう人たちは大人に対してはいざ知らず、子供に対しては必ずや建前で振る舞うだろうから、小学校、中学校の児童、生徒に躾を仕込んで貰うのにうってつけではないかとさえ思った。

それにしても大阪はやはり面白い。少し歩いただけでいろいろなことにぶつかる。刺激が欲しくなったらとりあえずMF珈琲店をまた覗いてみよう。

うっかりミス エアコンの消し忘れ 水風呂 熱湯風呂

2009-02-06 11:47:12 | Weblog
朝、書斎の扉を開けると空気が暖かい。あっ、またやった、と思った。前日の水曜日は一日外出していて、夕食後は韓国大河ドラマ「ソドンヨ」を楽しみ、書斎に引っ込んだのは午後10時頃だった。一日部屋を空けていたものだから冷え切っており、エアコンとデスクの下の小型ハロゲンヒーターのスイッチを入れた。ブログの記事を書き終えて投稿を済ませたらもう木曜日になっていたので、パソコンとハロゲンヒーターの電源を切り、部屋の電灯を消して部屋を出たが、エアコンのことはすっかり忘れていたのである。たまたまエアコンが休止状態になっており作動音もしなかったので気づかなかったのであろう。

エアコンの消し忘れはもう何回もやっている。それでも木曜の朝で良かった。もし金曜の今朝のことなら消し忘れを必ず妻に見つけられることになる。ゴミの日なので起きがけに私の部屋のゴミを集めに入ってくるからだ。見つかるとお小言を喰う。確かに電気代の無駄遣いではある。でも本人の私が反省しているのに小言は余計なお節介である。今回は反撃の材料もあったので小言には逆襲できたのであるが、でもやっぱり見つからなくてよかった。

反撃の材料とは妻のうっかりミスなのである。

数日前、風呂が沸いたというので入ろうとした。浴槽の覆いを取ったところなんだか様子がおかしい。湯気が出ていないのである。しかし壁の操作盤の表示は正常である。いや、おかしい、浴槽の温度設定が44度になっている。わが家の決まりは43度なのである。これでピンと来た。妻が操作を間違ったのである。

わが家では湯船の水は二日にわたって使う。毎日水を換えるのが勿体ないからである。そうすると前日の残り湯を使う時は操作盤の扱いが少し異なり、まず電源を入れてから「自動」のボタンの代わりに「あつく」と記された追い焚き用のボタンを押すことになっている。そのボタンがちょうど温度設定用のボタンの横に並んでいるので、妻は「あつく」を押したつもりで温度設定用のボタンを押したのであった。このように私は冷静に判断をして湯船に飛び込むこともなく、ふたたび脱いだものを身にまとい事なきをえた。私の推理を妻が心から納得したようには見えなかったが、私を寒中に素っ裸にした事実は残るので、これが私の持ち点になっているのである。

このようなうっかりミスならあまり実害はないが、危ないうっかりミスもある。

京都に移って間もない頃であったが、私の敬愛する某先生が目をらんらんと輝かせて、まるで仕事のディスカッションを始めるような調子で「夕べおおごとでなぁ。家内が熱湯に飛び込んでしまって・・・」と話を始めた。その頃は家庭風呂に温度設定のような便利な機能は備わっていなかった。適当に見当をつけて湯を沸かす。上面の湯が結構熱くても底の方はまだ冷たい場合もあり得る。湯船につかる前は必ず湯の全体をかき混ぜて温度を確かめて入ったものである。ところがご令室は何か考え事でもされていたのだろうか、沸きすぎた湯をたたえている湯船にそのまま入られたようなのである。かなり広範囲に火傷が広がりその様子を科学者の観察眼で先生は説明をされる。「ワギナまで火傷をして・・・」と話が続いて、なるほど、医者はそういう表現をするのか、と感心しついでに「伊耶那美命(いざなみのみこと)ですね」と軽口をたたきそうになって、慌てて口をつむんだことを覚えている。伊耶那美命はそれが元で命を落とすことになっているので、縁起でもないと自制が働いたのである。

ちなみに、古事記には伊耶那岐命(いざなぎのみこと)と伊耶那美命が国生みに続いて八百万の神なのであろうか、神生みを始める。伊耶那美命が《火之夜芸速男神(ひのやぎはやをのかみ)を生みき。(中略)この子を生みしに因りて、みほと灸(や)かえて病み臥せり。(中略)伊耶那美神は、火之神を生みにしに因りて遂に神避(かむさ)り坐(ま)しき。》と出てくる。ほとの火傷で伊耶那美命が身罷るのである。戦前・戦中世代にはこのような「神話」は身近なものだったのである。

うっかりミスとかど忘れはままあることだから、実害のない限り、また人に迷惑をかけないのであれば、あまり気にしないのが大人の生き方だろうと私は思いたい。


ソドンヨ 額田王 天皇家

2009-02-05 00:07:51 | Weblog
最近は韓国ドラマ「ソドンヨ(薯童謠)」にはまっている。毎週水曜午後7時半から2時間足らずサンテレビで放映されている。昨年の暮れ辺りから見始めたが筋の運びが分かってきだした。百済の王位継承にまつわる波瀾万丈の歴史活劇なのであるが、その主人公がやがて百済の30代国王となる武王で、ドラマではチャンという名前で登場している。今日はその従兄弟である29代法王(諱、ローマ法王ではない。注)により奴隷の身分に落とされて、地方での土木工事に追いやられたところで終わった。ところがふと気になってこの「ソドンヨ」の時代を年表で調べてみたら面白いことが分かった。

今日のドラマでは法王が即位したが歴史年表では599年のことで、翌年、600年には次の武王の治世が始まりこれが640年まで続く。そして31代目義慈王の治世20年目の660年に百済は唐・新羅連合軍に都を落とされ滅亡するのである。この時代が昨日のブログに書いた万葉集の、それも額田王、大海人皇子(後の天武天皇)、天智天皇の時代と重なることが私には面白かったのである。

昨日は額田王が次の歌を詠んだ時の三人の推定年齢を、《額田王が三十何歳で大海人皇子が四十何歳、天智天皇に至っては五十何歳なんだそうである》と記した。実はテレビのナレーションではその年齢を正確に言っていたと思うが、それを私が漫然と聞いていたので正確な年齢が頭の中に入っていなかったのである。そこで正確な年齢を(と言っても歴史家のあいだの通説)調べようと思っていた矢先でもあった。

  あかねさす 紫野行き 標野行き
    野守は見ずや 君が袖振る  (巻一・二十)
               額田王

まず額田王であるが「国史大事典」によると生没年不詳とある。しかし歴史家の考証では生年が635年もしくは631年となっている。天智天皇は626生まれで671年没、そして天武天皇は生年不明で没年が686年になっている。「日本史広辞典」では生年が631?年となっているので一応これを採用する。「日本書紀」によると天智天皇七(668)年《五月五日に、天皇、蒲生野に狩猟したまふ。時に、大皇弟・諸王・内臣及び群臣、皆悉に従なり。》(下記井上靖「天武天皇」より)」とあるので、この時に上の歌が詠まれたことになる。そうすると額田王が33歳もしくは37歳で、大海人皇子が37歳、天智天皇が42歳となり、テレビのナレーションから私が聞き取った(と思っている)年齢より男性はそれぞれ10歳前後若いことになる。それでも今に直すと熟年であることは間違いあるまい。この時はすでに百済は滅びていたが、この三人が生まれたのはまさに百済武王治世の間であった。だからこのドラマのおかげで大化の改新から壬申の乱に至る時代が身近に感じられるようになった。

井上靖に「額田女王」という歴史小説がある。出版されたのがかれこれ30年前になるので、その時に読んだ内容はほとんど記憶に残っていない。そこであらためてこの本を取り出してみると、その「あとがき」に著者が自作解題とする「天武天皇」と言うエッセーが収められている。ここには三人の三角関係への井上氏の言及があるが、そこでは《天智天皇は弟の大海人皇子からその愛人額田王を召し上げたとしか思われないし、またそのとおりであるにちがいない・・・》との姿勢をはっきりと示している。そしてさらに天智天皇の四人の娘が、大海人皇子の后に立っていることに触れて、《天智天皇の気持ちのなかには、額田王は譲ってもらったが、自分のほうは四人の娘を差し出しているのである》とその心理に立ち入っている。



天智天皇と大海人皇子は同母兄弟であるから大海人皇子は血の濃い姪を、それも四人まで后にしているのである。いやはや、としか私には言いようがないが、考えてみたらこのようにして血を引くものを残すことが古代からの天皇家のありようであったと言える。だからこそ天皇家のなかで骨肉相食む争いを繰り返してもこの平成の御代まで血筋をなんとか伝えることが出来たのであろう。そう言えば私は以前のブログ女帝か後宮制度かで《男子出生は一般家庭とはことなる格別の重みをもつ。子供を産まなければならない、それも男の子を産まなければならない。これは科学を超越した神懸かり的な願い事である。先人の知恵が生み出した後宮制度は皇統の維持に必要不可欠な制度であったのである。》と書いたことがある。誰が見ても今のままでは天皇家の先細りは必至であるが、歴史に学ぼうという賢者がどこかにいてもよさそうな気がする。

後記 書いている間に日が変わり、今日が昨日に、昨日が一昨日になった。

教育テレビで「万葉集への招待」を観て

2009-02-03 13:39:16 | 一弦琴
この前の日曜日(2月1日)の午後、教育テレビで「万葉集への招待」を観た。すでにハイビジョンなどで放映したらしいが見逃していたようである。万葉集をいくつかの角度から取り上げていて風景や植物などの映像も美しく、なかなか楽しかった。

聴視者を対象にアンケート調査をしたのだろうか、選ばれたベスト10のほとんどは私も好きな歌なので共感を覚えたが、そのうちの二首は記憶になかった。

  恋ひ恋ひて 逢える時だに 愛(うつく)しき
    言尽くしてよ 長くと思はば (巻四・六六一)    
               大伴坂上郎女

万葉集の歌の多くは教科書と斎藤茂吉の「万葉秀歌 上下」(岩波新書)を通して入ってきたので、教科書にこのような歌は出てこないだろうから覚えがなくても当然だろうと思った。でも「万葉秀歌」にもこの歌が出てこないのはどうしてだろう。昭和13年に出版されているので、当時の世情を慮ったのかなとふと思った。

もう一首は万葉集に出てくる最後の歌である。

  新(あらた)しき 年の初めの 初春の
    今日降る雪の いやしけ吉事(よごと) (巻二十・四五一六)
               大伴宿禰家持

天平宝字三(七五九)年、因幡国の国司家持が国庁において郡司などのお役人を饗応した宴での歌だそうである。歌としてはなんともないが、筆の立つ人はすらすらと賀状にしたためるのにもってこいのようである。

下位から順番に紹介されて第一位はもう間違いなくこれだと思ったらやはりその通りであった。

  あかねさす 紫野行き 標野行き
    野守は見ずや 君が袖振る  (巻一・二十)
               額田王

額田王はすでに大海人皇子(後の天武天皇)との間に十市皇女を儲けていたのに、大海人皇子の兄である天智天皇に召されて宮中に侍っている。大海人皇子から見れば人妻ということなのだからそういことなんだろう、何がどうなっているのやら不思議な状況である。なんせ源氏物語よりもまだまだ古い時代なのだから、現代人の常識ではつかみがたいのも当然だろう。

そのあたりをリービ 英雄さんがどのように英訳しているだろうと思って「英語でよむ万葉集」(岩波新書)を探したが手元に見つからない。そこで「The Ten Thusand Leaves」を開いてみた。



Poem by Princess Nukada when the Emperor went
hunting on the fields of Kamau


Goint this way on the crimson-
gleaming fields of murasaki grass,
going that way on the fields
of imperial domain-
won't the guardians of the fields
see you wave your sleeves at me?

翻訳だからこれでよいとは思うが、ただこれだけを読んだ外国人が日本文化の味わいを感じ取るのはまず不可能であろうと思った。しかし私とて偉そうなことは言えない。この歌について何方かの斬新な切り口が私には目から鱗だったのである。それは歌が詠まれた時のそれぞれの年齢で、額田王が三十何歳で大海人皇子が四十何歳、天智天皇に至っては五十何歳なんだそうである。今風に眺めるとまさに熟年の恋歌なので、そう思ってみると、歌にいぶし銀の深みが備わってきたのである。

そういえば番組で紹介された次の歌なども素晴らしい。今の長寿時代にぴったりである。

  事もなく 生き来しものを 老いなみに
    かかる恋にも 我はあへるかも  (巻四・五五九)
               太宰大監大伴宿禰百代

ぜひ一弦琴の歌として唄ってみようと思う。