日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

万能細胞(iPS細胞)研究 マンハッタン計画 キュリー夫人

2008-01-12 19:59:29 | 学問・教育・研究
昨日(11日)の朝日朝刊にiPS細胞研究拠点が京都大学に設けられる話が出ていた。この研究センターは1月中に正式に発足し、将来的には教授10人に研究員100人以上の規模になるそうである。仮設の施設が年内に設置され、2年後を目途に建物が完成されるとのことである。文部科学省がこの計画を支援するが、経済産業省と厚生労働省もそれぞれの支援方針を打ち出している。この極めて素早い対応はご同慶の至りである、と言いたいのだが詳細が分からないし、また山中伸弥京大教授の意向がこの計画にどのように反映されているのかも分からないので、先ずは控えめな評価に止めておきたいと思う。

山中教授がやりたいように研究を進めていただくこと、緊急の支援策はこれに尽きると思う。施設にお金、一切の制限なしに言われるままに支出する。と言っても当面は海上自衛隊が訓練で発射した邀撃ミサイル一発分もあれば十分であろう。国を挙げての研究支援策のプロトタイプを作り上げる意気込みで事務方も協力すればよい。そして落ち穂拾いとでも言うのか、山中教授がやりたい研究以外のそれを補完する分野、テーマにその他の研究者を組織化すればよい。iPS細胞研究のすべてに山中教授を巻き込むことは、研究者としての活力を削ぐことになるのではと恐れる。山中教授の出来ることは実は限られていると私は思う。その範囲内で存分の力を発揮していただくことこそ肝要なのであって、それ以外の『雑事』でエネルギーを濫費させることがあってはならないと思う。

そこで次に問われるのは、文部科学省、経済産業省、厚生労働省それぞれが縄張り争いすることなく大きな国家プロジェクトを推進していくそのやり方である。

戦時中、アメリカの原爆開発に与ったマンハッタン計画をモデルにするのである。この壮大な国家プロジェクトで科学者のリーダーを務めたのががロバート・オッペンハイマー博士で、計画全体の指揮者はグローブス将軍であった。わが国におけるiPS細胞研究推進にマンハッタン計画に準えられるような組織を作ればよい。iPS細胞研究は科学の基礎研究というより技術的開発の側面が濃厚だから、効率的な組織化が極めて有効になるからである。このオッペンハイマー博士、グローブス将軍に匹敵する人材をそのトップに据えることが出来れば、日本のこの分野における研究での世界制覇は夢ではない。

ところで、朝日新聞の記事で私が素直に賛成できなかったのが次の箇所である。《知的財産は大学本部で管理し、センターを担当する弁理士や弁護士を置く》とか《京都大での知的財産権保護を支援する》などである。要はこの万能細胞研究で取れる特許は総なめに頂きましょう、と言うことであろう。大学がなんの衒いもなく「知的財産権」とか言葉を飾って金儲けを頭においているのである。独立行政法人になって大学が財政面に敏感にならざるを得ないのも分かる。また世界的な特許合戦に日本が遅れをとるわけにはいかない、との心情も分からないわけではない。しかしこの万能細胞研究フィーバーの根底に、病人の治療に先だっての利潤狙いがあるのかと思えば、「武士は食わねど高楊枝」世代の私にはこれまた淋しい思いがする。憲法第九条を持つ『変わり者』日本が、万能細胞研究関連の特許を抛棄すべく全世界の研究者・研究組織に呼びかけてもおかしくはあるまい。

私が思い出すのはラジウムとポロニウムおよび放射能の発見でノーベル化学賞を受賞したマリー・キュリー夫人のことである。彼女の夫ピエール・キュリーは自分の腕にラジウムを当てるなどの人体実験を行い、さらに医学者たちのと共同研究でラジウムが病細胞を破壊することからいろいろなはれものやある種のがんを治療するのに効果のあることを明らかにして、その医療にラジウム療法(キュリー療法)と呼ばれるようになった革命的手段を導入したのである。そのピエールにある日アメリカから一通の手紙が届いた。事業を始めたがっている技術者たちが彼に参考資料を供給してほしいと頼んできたのである。そこでピエールがマリーの意見を質すのであるが、この部分を娘エーヴ・キュリー著「キュリー夫人傳」から少し長いが引用をする。

《―それでぼくたちは二つの解決のうち、どちらかを選ばなければならない。僕たちの研究結果を、その中に精錬のやりかたも含めて、すっかり書いてやるか・・・(中略)
―それとも、とピエールはつづけて、僕たちはみずからラジウムの所有権者、《発見者》と考えることもできる。そのばあいには、君がピッチブレンドを処理するのに、どんなやりかたをやったかということを公表する前に、その技術の特許をとり、そして世界じゅうのラジウム製造にたいする、僕たちの権利を確保しておく必要がある。》

《マリーは数秒間考え込む。それからこう言った。
―それはいけません。それでは、科学的精神に反することになるでしょう。》

《マリーは二十年後に書いている。
 わたくしに賛成して、ピエール・キュリーは、わたくしたちの発見から物質的な利益を引き出すことを断念した。私たちは何一つ特許をとらず、研究の成果は、ラジウムの調製方法もともに、あますところなく発表した。それに、当事者にたいしてはその聞きたがる事柄をみな知らせてやった。それがラジウム工業に大変な恩恵となり、ラジウム工業はまずフランスで、それから外国で、のびのびと発展することができ、そうして学者や医師にその所望する産物を供給したのみならず、この工業は今日もなお、わたくしたちが指示した方法をほとんどそのまま使っている。》(「キュリー夫人傳」 川口・河盛・杉・本田 共訳 白水社)

京都大学(山中教授)が万能細胞研究の人類全体の医療に及ぼす影響の普遍性にかんがみ、すべての研究者が特許出願を抛棄するべく全世界に率先して働きかけて欲しいものである。研究者が自らの研究の社会的意義を考え、特許を念頭に置かずに研究成果をすべて公表する、これは一人一人の研究者の判断で出来ることであろう。科学者の社会的責任を今原点に戻ってじっくり考えていただきたいと思う。

寒くなるとLANに繋がらない?

2008-01-11 12:14:12 | Weblog
もう1ヶ月にもなるか、PCがLANに繋がりにくいのである。朝、PCの電源を入れる。デスクトップが現れてからブラウザーを起動する。そしてしばらくモタモタしているかとおもうと「接続できません」とかのメッセージが出てそれで止まってしまう。ところがしばらく時間を置いて再起動させるとブラウザーが働いてホームページがちゃんと表示される。このDELL4500は使い始めてから5年半経ち、その間いったんご臨終しかかったものを臓器移植で甦らせたものである。しかし寄る年波に勝てず、寒い季節になって愚図り始めたようであった。

DELLが寒さに弱かったことを以前に経験している。DELLが日本に入ってきた直後に仕事用に購入したPCが、とある寒い朝BIOSだけは読みに行くもののそこで止まってしまうのである。部屋が暖かくなりだした頃、電源を入れると時には正常に作動する。二三日様子を見て同じ具合なのでDELLに連絡して、結局基盤を取り替えることで問題は解決した。温度に敏感な部品の欠陥と説明を受けたような気がする。

今度の場合PCは正常に立ち上がるが、LANに繋がらないことだけが問題なのである。DELL4500に引き続いてDELL3000にスイッチを入れ、こちらのブラウザーを起動させるとこれは正常に働く。そこでしばらく3000で仕事をして4500が暖まった頃を見計らって再起動すると正常に動くのである。

いったん4500が動き出したらまったく正常で何の問題もない。どう考えてもこのトラブルの原因の見当がつかない。分からないことは無理に考えない主義なので、釈然としないが電源をいったん入れて器械が暖まってから再起動するという使い方をしてきた。本当は原因を突き止めてそこを直したいのであるが、当面のトラブルは避けるためのいわば「対症療法」である。ところがこの問題が昨夜、一挙に解決したのである。

出張ついでに帰宅した息子が「この頃LANの調子がおかしい」と言う。息子はノートパソコンを持ち回り私の家では無線LANに接続するのである。
「お父さんがパソコンを使っていないときにどうも繋がらないように思う」
息子は朝の5時にはもう目を覚ましPCを使う。私はまだ白河夜船である。
「それはおかしい。パソコンを使う使わないにかかわらず、IPフォンも使うからモデムにはいつも電源を入れている」、と言いながら私にはピンと来た。あることを思いだしたのである。

私は一台のPC関連の電源はすべて一つのテーブルタップから取っている。PCの電源が切れたら最後にテーブルタップのスイッチを切る。このテーブルタップにモデムの電源コードを間違って繋いだのかも知れない、と思ったのである。そして、その通りだった。私のテーブル周辺には正確にいうとテーブルタップが6個あって、その差し込み口がすべて塞がっている。昨年の12月に入った頃か部屋の片付けをした際に、錯綜した電源コードの配線を整理したが、その時にモデムの電源コードを元通りの常時スイッチオンのテーブルタップに接続すべきであるのに、どう間違ったのかPC用のテーブルタップに繋いでいたのである。

朝、まずテーブルタップにスイッチをいれてからPCに電源を入れる。すると同じように電源の入ったモデムが正常に作動する前に、PCがモデムからの信号を受け取らないまま立ち上がる。だからLANに繋がっていなかったのである。DELL3000はDELL4500に引き続いて起動させたが、そのわずかな時間差でモデムに正常に接続されていたのであった。

話が分かればモデムの電源コードを繋ぎ替えればそれで済むこと、今朝は気持ちよくDELL4500が一発でLANに繋がってくれた。「対症療法」では味わえない快感である。

「すきやばし次郎」の小野二郎さんを拝見して

2008-01-09 21:59:06 | Weblog
NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」が82歳の現役寿司職人、そしてミシュランの三つ星シェフでは最高齢の小野二郎さんの仕事ぶりを紹介していた。チームプレイで仕事を進めていくところなど、大学の研究チームとも似通っているところがあり面白かった。この年齢まで仕事一筋ににやってこられたとは本当に幸せな方である。ため息をつきながらNHKの番組を眺めていた。しかし、である。

ひたすらお客さんに美味しく味わっていただくことだけを念頭に寿司を握る。三波春夫流に言えば「お客さまは神様です」、たとえ費えがいかほどかかろうともいささかの妥協もしない。そして贅沢の極みの料理ができあがる。だからこの料理を口に出来るのは『神様』だけなのである。

二十貫の寿司の値段が何時出て来るかと待っていたが、終わりまで出てこなかった。そこでミシュランガイド「東京2008」で調べてみると、昼:コース 27,000-32,000 円、夜:コース 27,000-32,000 円と出ていた。一食に三万円かかろうと、それをものともしない常連さんがいると言うことは、日本にも中国に負けずにお金持ちがいるのだなと思い、日本国民としては心丈夫に感じた。また戦争が始まったら、こういう人たちが国債を大量に買ってくれるだろうし、飛行機も献納してくれることだろう、と思うからである。

と、少々素直でない言い方になったが、それには訳がある。戦争中、贅沢は敵だ、と喧伝これ務めていたNHKが、『神様』だけにしか口に入らない手の込んだ贅沢な料理を作る寿司職人をえらい持ち上げるのが、どうも気にくわないのである。私が贅沢をしたつもりでいただく上等の寿司でも、この十分の一かそれ以下の値段である。

贅沢を否定はしない。しかしそれはお金持ちだけが庶民を寄せ付けない別世界で秘めやかに楽しめばよいのである。そんなに贅沢してもいいの、と私がつい思ってしまうような話を、「みなさまのNHK」が派手に取り上げるのに違和感を覚える。プロフェッショナルを紹介するのはよい。一部のお金持ちのためではない、国民全体の生活を豊にするために努力しているプロフェッショナルに光を当てていただきたいものである。

小野二郎さん、どのようなつもりで取材に応じられたのだろう。「秘すれば花」というのに。

家族葬が終わって

2008-01-08 20:00:41 | Weblog
葬儀の会場となったのは自宅から車で10分足らずのところにあるこじんまりとした会館であった。自治会連合会の多目的ホールで、1月5日から7日までの3日間は私どもの借り切りとなった。ダンスも出来る広いホールにラウンジ、それに八畳と六畳の和室の続きがある。ラウンジにはITヒーターに冷蔵庫など、何でも料理の出来るキッチンがあり、バスルームはないが二三日の生活に不便はない。まず八畳の和室に義母の遺体を安置した。

住職の都合がとれないとのことで代理のお坊さんに枕経をあげていただき、そのあと5日は仮通夜となった。6日が通夜で7日に葬式と初七日の法要となる。本来5日が通夜で6日が葬式でよいはずが、6日が友引で市営火葬場も休みなので三日がかりの行事となってしまったのである。

夜になると会館の管理人さんは戸締まりの仕方を教えて帰ってしまった。われわれも引き揚げたいところであるが、当然のことながら遺体を一人だけにしないようにと言われたので、私がまず泊まりこむことにした。座布団はあるが寝布団はない。そこで寝袋と膝掛け電気毛布を持ち込んだ。♪しばし露営の草枕、の覚悟である。ちなみに、この文句は ♪勝ってくるぞと勇ましく 誓ってくにをでたからは、で始まる「露営の歌」の一節で、この歌の作曲者が「白鳥の歌」も作曲したあの古関裕而なのである。

皆には帰って貰い、私が一人で遺体のお守りをすることにした。お守りには一つ大切な役目がある。蝋燭と線香を絶やさないことなのである。蝋燭が燃え尽きるのに2時間あまりかかることをまず確かめた。ところが線香は30分ももたないので火を絶やさないためには文字通り寝ずの番になる。それは無理と最初から諦めて、蝋燭の火だけを守ることにした。

携帯の目覚ましを使えばよいのだが、それでは無粋なので水時計に頼ることにした。午前0時半に蝋燭を替え、だいたい2時間ほどで尿意を催すことを期待して日常より多目にお茶を飲み、遺体を安置している部屋の奥の六畳間で寝袋に入った。各部屋にコインを入れると動くエアコンがあり、和室では200円、洋室では300円を入れると60分動いてくれる。実に合理的である。そこで寝る前に1時間ほどエアコンを動かし部屋を暖めた。その上で念のために寝袋の上に電気毛布をかけておいたところ、これが正解で寒さを感じることなく眠れた。

ものの見事に2時半を廻ったところで目が覚めた。残りわずかな蝋燭を取り替えてはまた水を飲み2時間後に目覚めをセットした。このようにして夜中に二度蝋燭を取り替えただけで、いつもの起床時間の7時を迎えた。

やがて家族が集まってきた。妻もお供えの炊きたてのご飯をもってやって来た。お昼頃までのんびりと過ごし、私はいったん帰宅した。6時から通夜なのでそれまでに会場に戻ればよい。京都で一人暮らししている次男からようやく電話がかかってきたので会場に直接行くように指示した。次男は携帯を持っていないものだから、パソコンのメールと留守電でしか連絡が取れなかったのである。4時過ぎに会館にもどると、すでにホールに祭壇の飾り付けが出来ていた。

遺影を飾った祭壇には供花がセットで含まれている。その両脇にオプションで親族一同、姉家孫一同、妹家孫一同と三対の供花を並べた。簡素ではあるがまとまりがよい。そういえば私の父の場合は祭壇を自宅に設けたが、スペースがないものだからこれ程までも飾り付けが出来なかったように思う。葬儀を葬祭ホールで行うようになったのは住居事情などの問題もあってのことだろうが、スペースが広くなった分、それに伴って飾り付けの規模が大きくなったのではなかろうか。必然的に出費が嵩み、葬儀屋さんを喜ばしたのかもしれない。

姪夫婦とその子供が二人やってきた。小学5年の男の子に2年の女の子である。さっそくゲーム機を取りだして遊び始めた。話を聞いてみると任天堂のDSというゲーム機で、なんと二人で交信ができるそうなのである。しかし値段を聞いて驚いた、1万6千円もするというのである。それでも姪がいわく、男の子の友だちが家に遊びに来てもDSのおかげでドタバタ暴れ回ることなしに、静かにゲーム機をちゃかちゃかやってくれるので助かるのだそうである。

交信に飽きてきたのかやがて二人は新しい遊びを始めた。祭壇の前に遺体を収めた棺桶を置いているが、その蓋にある窓を開けて遺体とご対面してはまた閉じる。それを繰り返すご対面ごっこで、とくに女の子が熱心である。私の子供の頃なら死人と聞いただけで恐れおののいただろうに、なんともフレンドリーな雰囲気である。お人形さんでも眺めている感覚なのだろうか。家族だけなので子供が何をしようと気にならない。ただころんで怪我をするといけないので走り回ることだけはやめさせた。

女性の世話係が三人もいる。それに椅子が30脚は並んでいる。家族葬ということをお伝えしているはずですが、とその一人に確かめると、確かにそう承っていますが、いざとなるとご近所の方とか親しい方とかつい増えてくるものですので、と言われる。いや、私どもは正真正銘の家族葬ですのでと念をおした。元来は2名であるが、用心のために余分に1人を待機させたようである。

まもなく住職が到着、四五十代の190cmはあろうかという偉丈夫で、自分で車を運転してこられた。義父の三十三回忌の法要の折に一度お目にかかっている。戒名を記した白木の位牌を持参してくださった。それを祭壇に安置し、参列者9名で通夜の回向が始まった。このお坊さん、読経もさることながら真言南山進流なのだろう、声明が実に素晴らしい。声がよく節回しがしっかりしていてうっとりと聞き惚れる。焼香は喪主である私から始まる。故人の長女である私の妻が勤めればよいものをと思ったが、それは珍しいというので私が引き受けることにした。だから私の家の葬式という形式になっている。まあ何でもよい、言われるままになるのも気楽である。人数が少ないので焼香はあっという間に終わってしまった。ところがお坊さんは読経をやめない。通夜には通夜の儀式があって、それを丹念にこなしておいでなのだろうと独り合点して、読経に声明をたっぷり味わい、小一時間してようやく式が終わった。人数が少なくても手抜きなしである。善哉善哉。そのうえたっぷりと説教まであった。

二日目夜のお守りは義妹の連れ合いとその息子が引き受けてくれた。祭壇を作ってしまったので安全のために蝋燭に火をつけず、電気蝋燭?に巻線香でOKだという。それなら夜中に起きることもないので、気楽である。今回は友引のせいで仮通夜が余分に加わり、だから裸蝋燭を使ったのだろうか。祭壇を作ったから電気蝋燭にするとはいかにも便宜的、それなら仮通夜の時も電気蝋燭にしてくれてもよかったのだろう。しかし死人と一対一で向かい合う時間はまたとない貴重な体験でもあったので、これはこれでよかったのだろうと思う。

昨7日の朝は葬儀社からわが家に白木の祭壇を据え付けにやって来た。初七日の法要を終えて遺骨、位牌、遺影などを安置するためのものである。それが終わって私たちも会場に向かった。千葉からやって来る長男家族も無事到着、12時の葬儀開始を待った。会場は夕べのまま、受付も案内もなにも要らない。焼香順位を書いてほしいと言われたが、全員12名が通夜と同じやり方で焼香することにした。わが家にやってくると暴れ回る5歳の孫もまだ場に慣れず大人しくしている。やがて導師の到着である。

打ち合わせの時にお坊さんを何人にするか、を聞かれた。迷うことなくお一人にしていただくことにした。それによってお布施の額が違ってくる。うるさく言えばお寺の格とかお坊さんの位で変わってくることを、私の母の葬式の折に聞かされたが、話の中身はもう覚えていない。葬儀屋さんが普通はこの程度ですと教えてくれたが、戒名代をざっくばらんにお寺さんに尋ねたついでにお布施の額を尋ねたところ、導師が一人なのでお心のままで結構ですとの返答が戻ってきた。そこで普通ならこの程度、というより心持ち減らして包むことにした。普通というのはお坊さんが二人か三人であるらしいからである。

式が始まった。導師一人で大童であるが独力ですべてをやってのけるところはさすがプロである。読経に声明も実に有難く耳に響いてくる。弔電披露など余計なものは一切なし、まさに虚飾を排した式の流れに参列者一同が心を通い合わせていた。式は通夜より早く35分ほどで終わり、時間をたっぷりかけて故人との別れを惜しみ、供花で棺を埋め尽くした。喪主の挨拶も不要、で火葬場に向かった。

お骨の上がるまでの2時間ほど待合室で待つ間に、予約しておいた食事を摂り、故人をしのびながら心置きなく団欒に時を過ごした。遺骨が火葬釜から出て来るのを一同で迎えたが、私は人間の一生がここに凝縮されているのだとの感動を味わった。これまでの葬式では得られなかった経験である。虚飾を排した分、それだけ純粋な気持ちで遺骨に向かい合えたからだと思う。

まだ最終的な精算請求書は葬儀社から届いていないが、初七日の法要が終わった時点でのかかった費用は、すでに払った分とこれから払う分を合わせて1391715円であった。現金での支払いはすべて妹婿が引き受けたので、請求書が来れば私が支払うことにした。クレリの会員になっているので基本料金の一割は戻ってくるだろうから、合計金額はこれより減るはずである。いずれにせよ最終的に折半で精算することになっている。

ぶっつけ本番の家族葬で最初は戸惑ったが、終わってみると実によかったと思う。また一つの目途がついたことも大きな収穫と言えそうである。私の場合、戒名はもちろん、お坊さんは一切お断りである。これで総額の三分の一強の出費は不要になる。となると100万円葬儀費用に残しておけば、自分の身の始末だけはなんとかつけて貰えそうである。参列者は兄弟とその連れ合いに後は子供とその家族、それで十分である。これから時間をかけて?、作業の進め方を考案しておけばよい。出来たら50万円で一丁上がりというところまで持っていきたいと思う。この目途がついただけでも今回の家族葬は意義があった。参列者12名は新記録だろうと思って世話係に尋ねたら、いえ、もっと少ない方もおられます、との返事が戻ってきた。

以上が初体験家族葬の顛末である。


家族葬 目下進行中

2008-01-06 23:51:55 | Weblog
義母が1月4日の夜、亡くなった。行年98歳。正月三が日を我慢して、娘2人とそれぞれの家族を残しての旅立だった。

万が一の事を予期して、娘二人がこの22日に家族葬のセミナー?に出席することにしていたが間に合わず、予備知識なしに最後のお別れを子供と孫にそれぞれの配偶者、そしてひ孫で行う家族葬の本番に突入したのである。

長女である私の妻がコープこうべの葬祭サービス「クレリ」の会員になっていたので、夜の10時を過ぎてであるが電話をして家族葬の世話をお願いすることにした。まもなく実務担当者から葬儀会場が確保されたことと、翌朝病院から遺体搬送を行うことの知らせを受けた。病院からは義妹夫婦が同行することにして、葬儀万端の相談は遺体が会館に到着してから行うことにした。

家族葬という言葉をすでに使っているものの、私には参列者の範囲以外にはっきりしたイメージがあるわけではなかった。家族葬ワンセットいくら、とでもなっておれば便利だな、と思った程度である。しかし打ち合わせが始まってアレッと思った。先ずは祭壇をどれにするか、というところから始まるのである。内容にピンからキリまである。内輪だけなので見栄を張ることもいらず、でも最低のセットでは少し淋しいかな、と屋根をつけたり花を増やしたりしているとほどほどのものになってきた。

この基本セットに加えて遺影写真の作成、遺体搬送の寝台車料、その他祭壇関係以外の諸々の出費が加算されていく。会館使用料はもちろんマイクロバスや精進落としの料理などを全部合わせていくと祭壇基本料金にだんだん近づいていく。すなわち祭壇基本料金とほぼ見合う諸経費がかかることになる。さらにこれにお寺さんへのお布施などが加わる。

妻の実家が法事などをお願いする寺がある。その住職に導師を引き受けていただくことにした。ということで寺との交渉に葬儀社はノータッチとなる。お布施、初七日のお布施、戒名料、お膳料・お車代と四つののし袋を準備して、それぞれにいくら入れるかは交渉の成り行きで決まる。最低?の戒名ならお布施だけでよいらしいが、義父の戒名に見合ったものとなると戒名料を別に払うことになるのである。話がすべてまとまった結果、費用として祭壇基本料プラス供花、お布施一式、その他諸経費がほぼ同額となったが、ここに並べた順に少しずつ金額が減っている。私の印象では家族葬だからといって、費用的にメリットが大きいとは思われなかった。強いてメリットを挙げるなら、花輪とか会葬礼状に返礼品などのいらない事ぐらいであった。

私のたまたま選んだ家族葬の形式では費用的なメリットは特になかったが、これまでの葬式とは異なる家族葬ならではのよいところがいろいろと浮かび上がった。それが家族葬の真の眼目であろう。今はお通夜を終えて帰宅してきたところ、明日が葬式に告別式である。この続きはその後で記すこととする。

山中伸弥京大教授の万能細胞(iPS細胞)研究に寄せて

2008-01-02 21:15:53 | 学問・教育・研究
元日の朝日朝刊に話題の人、山中伸弥京大教授に朝日賞贈呈の記事が出た。「万能細胞作成に関する新手法の開発と実証」によるもので、この成果がマスメディアに大きく報じられてから2ヶ月も経たないうちの決定である。山中教授の受賞がおめでたいのはもちろんのことであるが、授賞を決めた朝日新聞文化財団の素早い対応も賞賛に値する。これを皮切りに山中さんは国内外の栄誉ある賞を受賞していかれることだろう。英雄の誕生である。英雄が古めかしい言葉ならヒーローと言い変えてもよい。王貞治さんが第一回目の受賞者となった国民栄誉賞も異色ではあるが山中教授にはふさわしいものと私は思う。福田赳夫内閣時代に創設されたゆかりもあることゆえ、福田首相には躊躇なく授賞に踏み切っていただきたいものである。タイミングも絶好である。福田首相の腰が重いようなら、ぜひマスメディアに後押しをお願いしたいものである。

科学上の業績で国民的ヒーローとなったさきがけは、1949年にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士であった。敗戦に打ち拉がれていた全日本国民に誇りを甦らせ、科学立国による復興に大きな弾みを与え、多くの若者が湯川博士につづけと向学心をたぎらせた。戦後日本の青春期でもあった。

山中教授の研究が社会に与えたインパクトは、同じレベルで比較はできないが、湯川博士ノーベル賞受賞のインパクトに決して劣るものではない。再生医療に向けての研究を大きく前進させるものとアメリカのブッシュ大統領が高い評価を与えるコメントを直ちに発表するなど異例の取り扱いを受けた。また湯川博士の中間子理論とはことなり、再生医療技術への応用となるとわれわれも具体的なイメージを描きやすいだけに大きな期待も生まれるというものである。

私にこのような個人的体験がある。もうかれこれ40年も前の頃になろうか、当時在職していた阪大生物学教室の隣の研究室で、Gさんという大学院生が心筋細胞の培養を試みていた。その研究室のテーマとはちょっと違った方向だったせいか一人でこつこつ仕事に励んでいた。その「Going my way」のスタイルが私の好みでもあったので、研究の進捗に秘かな関心を寄せていたが、そのGさんが素晴らしい研究成果を披露したのである。マウスの胎児であったか、その心筋細胞をバラバラに分離して培養する。その一個一個が拍動というのだろうかリズミカルに細胞の形を変える、その拍動がてんでバラバラなのに、培養心筋細胞がくっつきあって塊を作ると全体が同じ周期で拍動するようになるのである。お互いがなにかで連絡しあって共同歩調をとるようになるのだろう。16ミリフィルムの映像で見せられたと思うが、その時の感動と興奮は今でも記憶に強く刻まれている。細胞培養法の確立をはじめとして世界で最先端の研究をGさんは院生の身でありながらやっていたのではなかろうか。

山中教授は人間の皮膚細胞をいったん万能細胞(iPS細胞)の状態まで戻して、それをさらに心筋細胞に分化させたのである。その培養心筋細胞が拍動する様子を始めて観察したときの驚きと感動はいかばかりであっただろうか。上に述べたような経験があるので私にはその興奮を容易に察することができるが、研究の当事者だけにその喜びの大きさは計り知れないものであったことだろう。

その山中教授がきわめて冷静なのが私には印象的であった。朝日新聞の昨年大晦日の朝刊の特集記事のなかで、再生医療への応用について「まだ課題は多く、過度な期待は困るが、失望もしてほしくない」と述べ、また「iPS細胞」は自然界に存在しない人工的なもので、役に立たないと存在価値はない。自分で始めたことだから、最後までやりたい」との決意を述べている。現状を的確に把握し、前途の厳しさを自覚している真の研究者の素直な言葉が奥ゆかしい。国民の力強い後押しで勇気づけてあげられたらと思う。

このように先ずは山中教授の偉大な業績を評価した上で、私の感じるかずかずの問題点を次回にのべようと思う。