日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

昭和天皇は嫡男継承にこだわりを?

2006-02-10 18:28:59 | 社会・政治

「東宮さまに遠慮していたが…」秋篠宮さま (朝日新聞) - goo ニュース

書棚の一隅を歴史上の人物の伝記や日記が占めている。いずれ時間が出来たら楽しもうと思い現役時代から気の向くままに集めていたものだ。それらに目を通すと歴史家にとっては既に自明のことなのかも知れないが自分なりの発見があるのが面白い。

「牧野伸顕日記」(中央公論社)昭和6年(1931年)5月7日に《此外御下問の義に関し種々内話ありたり。皇族の養子、胎中天皇、華族制度等の事なり。両御所の間柄御円満の趣も内話し置けり。》の記述がある。最後の元老といわれる西園寺公望を牧野が興津に訪れていろいろ話し合った時のことである。

胎中天皇とはどのようなことなのか。牧野の訪問を受けた西園寺側の記録にそのヒントがある。《どのような経路で西園寺に伝達されたのかは不明だが、昭和天皇は胎中天皇のことも下問した。まだ若くて、健康な昭和天皇がこのような問題に関心を寄せたのは興味深いことだが、皇室典範には胎中天皇について何らの規定もなく、そのため現行のままでは皇后妊娠中に天皇が死亡した場合、皇位継承順位第一位である皇弟(秩父宮)が践祚し、たとえ天皇の死後誕生した皇子が男子であってもその子に皇位は継承されない。これは嫡男継承の原則に矛盾するおそれがあり、また生まれた男子の処遇をよほどうまく考えなければ、皇位の正当性をめぐる争論をひきおこし、皇統分裂の基ともなりかねぬ深刻な問題であった。》(「西園寺公望傳」第四巻(岩波書店)203ページ)。

昭和6年といえば《国民挙って親王御誕生を祈り奉りたるは申す迄もなき事乍ら》という状況下で順宮厚子内親王が3月7日にお生まれになった年である。親王の誕生は《此上は益々皇后様御健康の此上にも御勝れ被遊、国民安堵の吉日到来を御期待申上ぐる次第なり。》(「牧野伸顕日記」昭和6年3月7日、433ページ)と再び待たれることとなったのである。

たとえ昭和天皇に親王が生まれなくても皇位継承順位第一位である秩父宮がおられる以上皇統の維持には問題はない。しかし昭和天皇はやはりご自分の血筋を伝えることを帝王の責務と思われたのであろうか。幸いこの問題は前項にも述べた明仁親王の御誕生でこれ以上取り沙汰されることは無かったようだ。

昭和天皇の弟君にあたる秩父宮と高松宮にはお子がおられない。今上陛下の弟君である常陸宮にもお子がおられない。これは偶然の一致で、皇位の嫡男継承を重んじるあまりにまさか弟君がお子を儲けることに消極的であったわけではなかろう。

しかし上記の新聞記事で「東宮さまのほうに遠慮していたが、『もうそろそろいいよ』とのお許しがあったので……」の部分は少々気になるところだ。子供は天からの授かり物、なにを遠慮されることがあろう。産めよ増やせよの私どもの時代で五人兄弟なんて当たり前、明治生まれの両親世代では十人近い兄弟も珍しくはなかった。秋篠宮ご夫妻に御出産平成の記録を打ち立てていただきたいものである。

生物学者・昭和天皇とY染色体

2006-02-06 17:45:46 | 読書

宮中の奥向きのことがどう洩れてくるのか知らないが、昭和天皇に側室をもっていただく取り沙汰のあったことがHerbert P. Bix著 "HIROHITO" に出てくる(翻訳あり)。

1924年に結婚された昭和天皇と香淳皇后との間には1931年までに四人のお子が生まれたが全て女子であった(一人は夭折)。1932年もかなり過ぎて香淳皇后が流産されたのを機に、昭和天皇に側室をもってしてでも君主としての義務を全うしていただくべしとの圧力が高まった。当時の皇室典範では嫡出庶出を問わず男系男子が皇統を継ぐものと定められていたからである。

学習院院長や宮内大臣を歴任した伯爵田中光顕が東京、京都でふさわしいお相手を探して十人の姫君を選び出した。そのなかから更に三人に絞り中でも最も美しいと云われた一人が宮中にあがり香淳皇后もおられるところで昭和天皇とカード遊びをしたが、一夫一妻を是とする昭和天皇は特に関心を払われなかったとのことである。噂話として取り上げられており出典は明らかでない(271ページ)。

原文では"ten princesses"とあるから皇族か五摂家の姫君と取るべきなのかも知れないが、でも明らかに側室候補であるからこれでは身分が重すぎる。おそらく華族の姫君であったのだろうが、昭和天皇とカード遊びをする意味をどのように説明を受けていたのだろう。また天皇・皇后もどの程度まで『隠された意図』をご承知だったのか窺い知る由もない。ただ1901年生まれの昭和天皇はまだ満31歳で皇后もお若く、まだまだ男子誕生の可能性があった。そして翌1933年12月23日に明仁親王がお生まれになることで側室問題は収まった。

昭和天皇が公務の合間に生物学の研究に勤しまれたということは良く知られている。このBixの本にも昭和天皇がどのように『生物研究』に入っていかれたのかその経緯が要領よく纏められているが、その中で丘浅次郎著の「進化論講話」でダーウィンの進化論を学ばれたり、またダーウィンの「種の起源」も翻訳でお読みになったとのことが記されている。そして書斎にはリンカーン、ナポレオンと並んでダーウィンの胸像が置かれていたそうである(60ページ)。

「進化論」を学ばれたのであれば「遺伝学」も当然学ばれたのであろうと私は想像する。『性』を決定する性染色体の存在もご存じで、X染色体とY染色体がどのようにして男性女性を決定するのかその仕組みも学ばれたであろう。科学的探求心をお持ちの昭和天皇が『万世一系の天皇』と男系男子によりY染色体を継承してきたこととの一致に気づかれて「さもありなん」と云われたかどうか、私の空想が駆けめぐる。

何故戦前の高架が残ったのだろう

2006-02-01 17:05:11 | 読書

「神戸震災、再起の鉄道」(文芸社)の著者である神戸生まれの雑喉 謙氏は大学での専攻、職業、それに趣味が重なり合って《「神戸の鉄道の震災とその復旧」に至るまでの再起の過程に人一倍関心》を持ったとのことである。

内容は帯に記載されているように《故郷・神戸をおそった震災で、鉄道は甚大な被害を受けた。その復旧の経過を現地取材を交えて克明に記したドキュメント》である。相模原市に居住する著者は震災後2月4日を皮切りに何回となく神戸を訪れて、JR、阪急電車、阪神電鉄、神戸高速鉄道、山陽電車、神戸電鉄、六甲ケーブル、ポートライナー、六甲ライナーなどの復旧の進捗状況を観察するままつぶさに記している。

当時京都に単身赴任していた私は週末には神戸の自宅に帰り後片付けに追われた。時間的余裕もなかったが、私の脳裏に刻まれている神戸の原風景を壊したくなかったので、街の惨状を見て回る気にはなれずにただ京都と神戸の間を往復するだけだった。従ってこの本は私の知らなかった、しかし知りたいと思っている震災からの復旧を鉄道に焦点を当てて纏めたものとしてなかなか重宝である。

極めて示唆に富む記述がある。

JRの住吉―六甲道間では高架が連続的に崩壊したのであるが、全面的に高架になったのは昭和53年と比較的新しい。《ところが同じJR でも、戦前の鉄道省時代に造られた灘―鷹取間の都心部を通る高架は、そりゃあ少しは損傷したものの致命的な崩壊には至らず、震災から2週間目の1月30日には神戸駅以西に列車が走っていた》とのことである。

住吉―六甲道間は灘―鷹取間の東になり場所が違うからこの結果をもって簡単に高架の強度を比較できないかも知れない。しかし戦前のJR高架と戦後に出来た高架とが並行して走っているところが三宮にある。

《戦後昭和43年にできた神戸高速鉄道は、阪急三宮駅西側で鋼管の高架支柱が真っ二つに引きちぎられる(脆性破壊)という物凄い地震力を受け、これに続く鉄筋コンクリート高架も連続崩壊したのだが、並走している戦前からのJR高架が、細かくいえば若干の補修を要する箇所はあって》も何ともないように立っていた。

JRに限らず阪急でも阪神でも戦前の旧い構造物が損傷を受けずに残っているところが目立っているのである。このように鉄道の高架に関する限り戦前が勝ち組で戦後は負け組である。両者とも『耐震構造』になっているはずであろうに何故このような違いが生じたのか、研究者、技術者による検証がなされたのであろうか。その結論を知りたいものである。まさか『戦後』の理論が間違っていたわけではなかろうに・・・。