日々是好日

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『耐震強度偽装』事件から確認検査機関不要論をおもう

2005-12-02 20:04:12 | 社会・政治
庶民が一生のうちの最大の買い物といえば『住居』であろう。住居こそ憲法で保障された「健康で文化的な(最低限度の)生活」を営む基盤である。そんな理屈ぽい話はともかく、自分の気に入った住居で家族と平和に暮らす、その幸せを求めて人は働くと云ってもいい。

家を買い求めるのは大事業である。そして多くの人にとっては一生に一度の大きな買い物であろう。ところが生憎なことにほとんどの人が良い物件悪い物件を見分ける経験も無いままに買い物を迫られるのである。

マンションを買う場合に一番頼りにするのは売り主の説明であろう。耐久性・耐震性についても売り主の説明を鵜呑みするしか手がない。よほど用心深い人ならともかく、自分で(たとえ専門家に依頼するとしても)独自に耐震強度を調査などしないだろう。耐震強度が満たされているかどうかは元来は国が検査を行っていたもので、近年民間にその業務が委託されたにせよ究極の責任は国にあり、国が目を光らせてくれていると思い自分を安心させるのである。

今回の『耐震強度偽装』事件に関して11月28日国会で参考人招致による質疑が行われた。その光景をテレビを通じて観た人はあのような職業倫理皆無の手合いが庶民の『財産』を食い物にしている現実に慄然としたことであろう。と同時に今回の事件を通じて国の施策がいかにいい加減なものであるかが露呈された。

『仏を作って魂を入れず』は補償の問題だけではないのである。民間確認検査機関や自治体による検査システムも全く機能していなかった。だからこそ構造計算書の偽造が長期間にわたって見逃されていたのである。この事実こそ『検査機関』が形だけの『無用の長物』であったことを証明している。ことはそれだけに止まらない。箸にも棒にもかからない『確認済み証』を「神聖な公文書」と声高に主張するヒューザーの小嶋社長の姿勢からも明らかなように、一人歩きを始めた『確認済み証』があらゆる『悪行』を覆い隠す隠蔽の道具立てになっているのである。

このような内容を伴わない形式だけを整えたような『確認検査』は不要である。建築業者は誠心誠意安全で快適な住宅を建設して適切な価格で販売する、その当たり前のことを建築主・売り主が行う。それで十分ではないか。

マンションを購入する側も疑い出せばきりがない。そこで思い切って売り主の言葉を信じることにするのである。相場より安い物件だと単純に喜ぶのではなく、何かありそうだと思った上で売り主を信じるのである。とにかく自分の目で見えるところは見てそれで納得して買ったものがたとえ震度5では危ない建物であったとしても、30年、50年と地震に見舞われることなく無事に住居であり続けてくれたらそれはそれでいい、と悠然と構えるのである。世の中には地震以外にも気になることが山ほどあるではないか。

しかし、である。万が一、購入したマンションが売り主の言葉、約束と異なるものであることが発覚した場合に、たとえ売り主が倒産したとしても業界全体で買い主に完璧な補償をするシステムを業界全体で確立することを大前提とする。愚にもつかないと確認検査機関を補強するのはおよそ無駄なこと、検査機関の検査機関、またその検査機関となるのが目に見えている。それにかかる費用を補償システムの方に振り向けるのである。一方、悪徳業者には厳しいペナルティを課すのだ。江戸時代になぞらえれば身代限りはもちろんのこと、市中引き回しのうえ磔け獄門、罪は九族に及ぶぐらいの最高刑に処するのである。信頼とはそれほどに高価なものなのであるのだから。

妄言多謝