健康増進法とは良い法律である。
少なくとも、公共の場所の分煙をはっきりと推進しようとする条項においては。
でも、いやーなことに気付いてしまった。
第二条にこんな条文があるのだ。
(国民の責務)
第二条 国民は 健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め生涯にわたって自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない。
健康は、国民の責務であって、生涯にわたって努力しなければならないらしい。
困った。ぼく自身健康でありたいから、努力はする所存だ。しかし、法律で決められたくないよな。
このことを指摘してくれたのは、粥川準二さん(「資源化する身体」などの著者)。
この前の日曜日、科学ジャーナリストが集まって意見交換するような集いが会ったのだが、そこで粥川さんの発表を聞いた。粥川さんは、最近、明治学院大学の大学院に在籍していて、ちょうど修士論文を仕上げたところなのだ。
それにしても、なぜ、こんな条文が健康増進法に入り込んだのか。
非常に素朴なレベルで、あれれっと思う。(素朴でない議論としては、粥川さんの修士論文が書籍化されるとのこと)
その一方で、健康増進法以来、多少なりとも公共の場所の分煙の動きが活発になってきた実感もあって、ぼくはこの法律ができたことに感謝している。
しかし、まいったな。
本当に、この「責務」は余計だ。よく反・禁煙論者に、健康増進法を問題にする人がいるけれど、彼らが感じている危機感は、この部分については正しいと思う。
にもかかわらず、こんな法律が導入されちゃう前に、マナーやら文化やらでなんとか解決してくれなかったあなたたち(喫煙者、とりわけ「マナーや文化」論者)どうしてくれるよ、迷惑だよ、という気分。もちろん喫煙問題だけが扱われる法律ではないから、喫煙者がマナーや文化で、分煙を実現していたとしても、こういう条文は生まれてきたのかもしれないが。
せっかくなんで、ひさしぶりに喫煙関係の論考のエントリをコメント欄に貼っておきます。
昔雑誌に書いた原稿をpdfにしたものです。
追記
某所より、これは八つ当たりであろうとの指摘あり。
そうですね。八つ当たりです。反省。
ぼくがエッセンシャルなこととして、感じているのは、現在のたばこ問題をめぐる混迷の一端は、「マナーや文化」を論じる、喫煙擁護論者が、みずからそのマナーや文化を、たばこの煙を痛みに感じる人たちが納得できる水準で創出しなかった(しようともしなかった)こと、のみです。
このことと、健康増進法の面妖さは、少し関係あるかもしれないけれど、たぶん別の要因の方が大きいでしょう。
「ニコチアナ」という、ぼくの作品の中ではもっとも売れなかった小説を書いた時、ぼくが投げかけたはずの問題意識を受け止めてくれたのは、自分が「クリーン」だと信じている非喫煙者よりも、むしろ、諸々のジレンマに悩む喫煙者に多かったという感覚があって、それゆえに、「健康」が絶対的善として君臨する社会への違和感を、正当に主張してくれるのは彼らではないかという期待も持っていたりするのですよね。
にもかかわらず、ぼくはやはり、たばこの煙は吸い込みたくないです。
会社やめてからますます感受性が高くなってしまい、いまやすぐに頭が痛くなるし。
少なくとも、公共の場所の分煙をはっきりと推進しようとする条項においては。
でも、いやーなことに気付いてしまった。
第二条にこんな条文があるのだ。
(国民の責務)
第二条 国民は 健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め生涯にわたって自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない。
健康は、国民の責務であって、生涯にわたって努力しなければならないらしい。
困った。ぼく自身健康でありたいから、努力はする所存だ。しかし、法律で決められたくないよな。
このことを指摘してくれたのは、粥川準二さん(「資源化する身体」などの著者)。
この前の日曜日、科学ジャーナリストが集まって意見交換するような集いが会ったのだが、そこで粥川さんの発表を聞いた。粥川さんは、最近、明治学院大学の大学院に在籍していて、ちょうど修士論文を仕上げたところなのだ。
それにしても、なぜ、こんな条文が健康増進法に入り込んだのか。
非常に素朴なレベルで、あれれっと思う。(素朴でない議論としては、粥川さんの修士論文が書籍化されるとのこと)
その一方で、健康増進法以来、多少なりとも公共の場所の分煙の動きが活発になってきた実感もあって、ぼくはこの法律ができたことに感謝している。
しかし、まいったな。
本当に、この「責務」は余計だ。よく反・禁煙論者に、健康増進法を問題にする人がいるけれど、彼らが感じている危機感は、この部分については正しいと思う。
にもかかわらず、こんな法律が導入されちゃう前に、マナーやら文化やらでなんとか解決してくれなかったあなたたち(喫煙者、とりわけ「マナーや文化」論者)どうしてくれるよ、迷惑だよ、という気分。もちろん喫煙問題だけが扱われる法律ではないから、喫煙者がマナーや文化で、分煙を実現していたとしても、こういう条文は生まれてきたのかもしれないが。
せっかくなんで、ひさしぶりに喫煙関係の論考のエントリをコメント欄に貼っておきます。
昔雑誌に書いた原稿をpdfにしたものです。
追記
某所より、これは八つ当たりであろうとの指摘あり。
そうですね。八つ当たりです。反省。
ぼくがエッセンシャルなこととして、感じているのは、現在のたばこ問題をめぐる混迷の一端は、「マナーや文化」を論じる、喫煙擁護論者が、みずからそのマナーや文化を、たばこの煙を痛みに感じる人たちが納得できる水準で創出しなかった(しようともしなかった)こと、のみです。
このことと、健康増進法の面妖さは、少し関係あるかもしれないけれど、たぶん別の要因の方が大きいでしょう。
「ニコチアナ」という、ぼくの作品の中ではもっとも売れなかった小説を書いた時、ぼくが投げかけたはずの問題意識を受け止めてくれたのは、自分が「クリーン」だと信じている非喫煙者よりも、むしろ、諸々のジレンマに悩む喫煙者に多かったという感覚があって、それゆえに、「健康」が絶対的善として君臨する社会への違和感を、正当に主張してくれるのは彼らではないかという期待も持っていたりするのですよね。
にもかかわらず、ぼくはやはり、たばこの煙は吸い込みたくないです。
会社やめてからますます感受性が高くなってしまい、いまやすぐに頭が痛くなるし。
私自身は健康増進法は「責務」という文言含めて、あまり好きになれませんので、受動喫煙の防止だけ別に定めて欲しいなぁと密かに思っています。
ところで、食育基本法
http://www.e-shokuiku.com/kihonhou/index.html
をご存じですか。
昨年6月に議員立法で成立した法律ですが、以下のような文言があり、これも法律として定めるのは、どうかと思っています。
…………
(附則から一部抜粋)
国民一人一人が「食」について改めて意識を高め、自然の恩恵や「食」に関わる人々の様々な活動への感謝の念や理解を深めつつ、「食」に関して信頼できる情報に基づく適切な判断を行う能力を身に付けることによって、心身の健康を増進する健全な食生活を実践するために、今こそ、家庭、学校、保育所、地域等を中心に、国民運動として、食育の推進に取り組んでいくことが、我々に課せられている課題である。
…………
「我々」って誰やねん、とかツッコミどころ満載です。
それにしても、食育。
そもそも言い出しっぺは誰なんですか。
食と育の間に密接な関係があるのは間違いないでしょうが、食についての知識のみならず、ある種の精神性にまで訴えていくやり方が、保育園や小学校の「現場」にまで入り込んでいるきょうこの頃、疑問を抱いておりました。
感謝の念とか生産者の都合とかと一緒に、糖尿病学会としても、「食事療法を教えなくても給食で勉強していればね~」という、ため息も入っています。法律の制定にはその方向で働きかけがありました。
#メンテ中書き込み実験兼ねて
しかし、私にはタバコは麻薬みたいなものにしか見えないので何とかしたいとは思っているわけです。
というのはすごく自然に響きます。ゆえに、「環境を保全する責務」とか言われても、それなりに納得できます。ぼくたちは、自分たちの社会や、将来の社会に対して責任を負っているのだ、という意味で。
けれど、健康が責務と言われるとなぜ、だめなのか、というと、はやり、「健康」が、あるまで「個人」の領域に属するものだと考えられてきたからなのですね。ところが、よくよく考えてみると、「健康」すら個人のものではなくっている。
ならば、やはり「責務」と考えて良いのか、という問題にいきつくことになるわけですね。
喫煙に話を戻すと、これを健康ではなく、環境問題として論じるという方向性はありえますね。能動喫煙の話は健康言説(?)で処理するとして、その煙の処遇(?)については環境問題。粉塵などと同じで、自分が汚染源にならないような責務を負う、と。