川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

目下、全員参加の学童保護者会を「脱退可能」なものにしたいのだけれど、いかがなものか

2006-03-24 21:24:32 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
学童保育の保護者会(父母会と呼ばれているものが多いけれど、ここではぼく自身のこだわりに従って保護者会とします)には、年に一度だけ総会があって、毎年、会則を書き換えるような大きな事案はそこで話し合われる。
今年は、「脱退条項」を付け加えるように提案しているのだけれど、食いつきが悪い。
このブログを見てくれている人の中にも、学童やPTAにかかわる人が多いと思われ、ぜひコメントをいただきたし。

その前に歴史的ないきさつから説明すると……

学童の保護者会というのは、もともと、学童保育所を運営するために結成されたものだった。だから、学童保育所に子供を預けるということは、まず保護者会に入って運営に参加するということでもあった。今でも、ぼくが知る限り神奈川県では、保護者会運営の学童はかなり多いようだ。でも、世田谷区はかなり前に、行政サービスとして区が引き取った。

そこで、保護者会というのは、以前のように「全員参加」である必要は、必ずしもなくなる。PTAが原則任意参加であるのと同様に(そのわりには、意思の確認をせずに全員参加のところが多いけれど)、学童保護者会も任意参加であるのが妥当な位置づけに変わった。にもかかわらず、昔からの流れで、保護者の意志を問うことなく全員参加になっている。

で、ここからが、ぼくの問題意識。

今の学童父母会は、本来的には任意参加のはずなのに、事実上、強制参加になっている。
これは、よろしくないのではないか。
ここは是非、任意参加、あるいは、せめて、やめる意志を持った人がすんなり退会できる条項(脱退条項)を、規約に盛り込みたい。

個人的なモチベーションとしては、こういうことは、元来ボランティアであり、ぼく自身、わりと熱心に活動してきたけれど、「強制参加」の会で続けていくことについて、非常にストレスがある。自発的に行っているのだというボランティアマインドを阻害されているような、非常に息苦しい感覚がある。だから、ことあるごとに気になってきたし、機会があるごとに言い続けてきた。

これは個人的モチベーションであるとともに、公にも「いいこと」であると信じている。
少し抽象的な言い方になるけれど、やはり、不自然な成り立ちをした組織は、どこかにひずみを抱え込むことになるから。

もう少し、具体的に「なぜか」を列挙してみる。

☆少額ながら会費を支払わされるような団体に入るのに、意志を問わないのはおかしい。

☆強制参加のままであると、そもそも「会」の存在意義自体、支持を受けているのか分からなくなる。たとえば、ぼくたちは今年度、世田谷区が学童保育を「新BOP」(放課後スクール)に完全統合しようとする動きに対して、「反対」の立場であれこれと活動した。しかし、これはどれだけの保護者に支持されていただろうか。ぼくは「ほとんど」であると信じているけれど、「預かってくれる場所があれば、それ以上は望まない」という考え方をする人も現にいる。そういう人にとって、ぼくたちが「反対」することは、無駄な労力と映るかもしれないし、ひょっとすると、本来、望ましい施策を遅らせることですらあるかもしれない。

☆その一方、任意参加への道を開くと、「会」はその目的や、存在意義をたえず問い直されることになり、結果、活動のフォーカスが合いやすい。また、今は会報などを出したりしていなけれど、簡単なものであれ作って父母会が何をしているのかたえずフィードバックしようという気運も生まれるかもしれない。

☆強制参加は、一部の「参加したくない」人たちにとって不公正。たとえば、会の方針を苦痛に思う保護者が、脱退を願ったとして、それを受け入れられる仕組みがないのは不幸だ。

といったところ。

これに対して、当然、いくつかの懸念がある。

まず、最初にして最大の問題として、脱退者がたくさん出てしまい、会が成り立たなくなってしまうのではないか、ということ。

ぼくはそれほど心配していない。少なくとも、急にばたばたとやめて、半分になってしまいました、なんてことにはならないだろう。よほど強固に「やめたい」人以外は留まってくれる確信は、無根拠だけれどある。
ぼくたちは、保護者や子供たちの交流のためのイベントや、新BOPへの統合に際して、それなりに活動してきたし、それが無意味だとは言わせない、くらいのことは胸を張って言える。また、役員をやるだけの時間的余裕がない会員たちも、基本的には支持してくれた実感がある。
脱退条項を盛り込んだら途端に組織率ががた落ちすると考えるのは、違うと思うし、また、そうならずに済むようにやればいいだけ。保護者のことを「信頼」してよいと思うのだ。

ただ、ぼくが責任を持てるのは、今から数年間くらいのことだ。
自分の子供が学童に通わなくなった後のことは、やはり、分からない。
ひょっとすると、父母会の組織率が半分を割るような未来がやがて来る可能性もある。

でも、そうなったとしたら、それはそれでいいんじゃないか。
むしろ、その時に、支持を受けない会が、ただ惰性で存在する方がよほど不幸だ。
また、かりに、一度、組織率が下がったり、極端な場合会が消滅したとしても、かならず必要とあらば志ある(?)保護者が、復活させるものだ。
PTAをなくしてしまった学校でも、たいていは数年後に復活するという法則が世の中にはあるらしいけど、やはり、「必要」だと思われれば誰かがやる。

そして、もうひとつ考慮しなければならない「想定上の批判」として、「地域や保護者が一丸となって、子供たちの安全を守ったり、望ましい成長を見守ろうとしているこの時期に、何を逆行的なことを行っているのか」というものがあるだろう。これは、PTAの任意加入問題をめぐる議論を検索していて、あちこちで出会ったもの。

これについては、今の学童の保護者会がかりに少しばかり組織率が低くなったからといって、子供の安全や成長が脅かされたりすることはない、と答えることができる(ちょっと情けないが)。実はぼくたちは、このことに関しては、それほど多くのことをできていない。また、これ以上のことを、現在の学童父母会の役員ができるとも思えない。むしろ、きちんと「意志を持って、会に入っている」人たちが増えた方が、よりよい活動ができると信じる。これはPTAに関しては違うのかもしれないけれど(今もPTAは実に多くのことをしている)、ぼくらの学童保護者会についてはこう言い切っても間違いではない。

さらに、実は、最近、痛感していることなのだけれど、こういう地域と絡む組織は、「ゆるい」方がいい。もちろん、子供の安全や、成長のためには、地域との連携が不可欠。でも、それが、「ムラ」的にガチガチのものになると、息が詰まる人が続出する。
たとえば、この前の敦賀の事件も、母親が外国人であったことがクローズアップされがちだが、と同時に、「強制的に集団登園しなければならない」ような「きつい」環境が容疑者を追い込んだことも指摘されている。また、すごく古い例だけれど、文京区の春菜ちゃん事件だって、そういう側面があったのではないか(これは綿密に調べたわけではないが)。密すぎる共同体は、本来なら発露しなかった、内なるリスクを呼び覚ますことすらあるのだ。もっとも、これは今のぼくらの学童保護者会でも、十分に「ゆるい」し、ぼくたちが現実的に心配することではないのだが。

さらにさらに言えば、子供の安全や成長について、そんなに心配だろうか。
もちろん、親だから、心配だ。「心を配る」ことは、常にしていたい。
でも、やみくもに、怖れる必要があるだろうか。
たとえば、この前かかわった、ゲーム脳の議論の例。
ゲーム脳理論の提唱者である森昭雄氏は、「子供たちが笑わなくなり、キレやすくなっている」という危機感から彼の一連の著述活動、講演、研究を行っているというのだけれど、ぼくにはそれがよく分からない。
本当に、「笑わなくなり、キレやすい」のか。自分の息子のクラスを見る限り、みんなよく笑い、楽しそうだ。「キレる」というのが具体的に何を示すのか分からないが、「このことか!」と膝を打つようなシーンにはついぞ出会ったことがない。
学童でも同様。時々、トラブルはあるけれど、みんな元気だ。楽しそうだ。

子供って、もっと信頼していいと思う。
多少ひねくれようが、なんだろうが。ゲームしようが、しまいが。彼ら・彼女らは育つ。常に保護者の思惑をこえ、心配をよそに、しっかり大きくなる。
ぼくは素朴にそう感じており、また、そう感じさせてくれる身の回りの子供たちを誇りに思っている。

安全にかんしても綿密に調べていないけれど、ぼくらが子供だった時代の方が、よほど多くの子供たちが、交通事故の被害に遭い、また、時には目を覆わんばかりの犯罪の犠牲になっていた(これは、以前、読んだものの曖昧な記憶に基づく記述。詳しくご存じの方がいらしたら、情報提供願います。修正します)。もちろん、不幸な事故や、哀しい事件は、ない方がいい。でも、今の時代が特別ひどいのだ、なんて考える必要はないと思う。
そして、こういうものは「根絶」をさけびゼロにしようとすると、逆にモグラたたきのように、飛び出すものでもある。
ぼくらはもっと神経を研ぎ澄まし危機を察知しようとしつつも、大らかであるべきだ。心を配りながらも、ゆるくあるべきだ。

なんだか、途中から本筋を離れてしまったけれど、それはつまり、ぼくもよく分かっていないんだと思う。
ただ、ぼくをこれまで導いてきた本能的な部分で、「今の状態はよろしくない」と告げている。そして、それなりに理由は見つけられる、ということ。

さて、肯定的な意見も、それはちがうんじゃないかって意見も歓迎です。
ぜひ、あーだこうだ言ってみてください。プリーズ。


三月のうちに一段落を……

2006-03-24 11:17:08 | トンデモな人やコト
月曜日に、世田谷区役所に行くことになった。
ゲーム脳講演会についての、総括というか、意見交換。
今月中に一段落できることになりそうで、ほっとする。

つい先日、東大でゲームと脳について研究をしてPh.D.をとった、松田剛氏(http://www.c.u-tokyo.ac.jp/jpn/kyokan/ronbun/ronbun_11_25_matsuda.html)のトークショー(?)が、科学未来館であったそうだ。出席できずに残念。博士号論文以降の研究について聞けたかもしれないのに。

ちなみに、2004年に通った博士号論文では、ゲームをしている時の前頭前野の血流が低くなることははっきりと確認している。というわけで、この部分で、森氏が標準的ではない測定方法にせよ、正しい結果を得ていた可能性はあるわけだ。もっとも、そこから先、すぐに長期的な脳のダメージを想定したり、凶悪犯罪と結びつけることについては、松田氏も、主査の開一夫助教授も「一部のデータからの飛躍的な憶測」であるとか、「十分な根拠なし」といった強い言葉で、警告している。

こう考えてみると、森氏は、つくづく「弱い証拠」から「大きな結論」を引き出してしまったのだなあと感じる。
これは岡田尊司氏の「脳内汚染」も同じなのだが。

やはり、ちゃんと研究しなきゃならない分野であろうし、社会的な関心が集まるのは大いに結構。
松田氏の研究によって、こういったテーマそのものが、脳科学のテーマとして成立しえるのだと専門家共同体の間で認められればいい。森氏はあきらかにその努力をせずに、こんなことになってしまったわけで。

って書きつつ、今月内に、ゲーム脳をめぐって考えたことを、もう一度、まとめておきたいなあと、自分にプレッシャーをかけておきます。