小石川植物園をたずねる
「高温注意報」が出るほど暑い日でしたが、前から行ってみたかったので、朝早く、午前10:00に電車で向かいました。
それでも、暑かったですね。それに、短パンはいいのですが、虫よけスプレイを忘れ、植物園内の蚊には閉口しました。
従って、詳細に見るのは後日のことにして、急ぎ足で一周して出ました。
今日の、散歩のルートは次の地図の通りです。
やはり、予期してたように、この植物園はよく整備されており、木々には必ず名札がついていました。
今は、サルスベリ以外には花もなく、やや単調なたたずまいでしたが、珍しい巨木が生い茂っていました。
蚊に刺されさえしなければ、ゆっくり見て歩くのですが、蚊には参りました。
最初に撮った写真です。これだけです。後は後日に・・・。
赤いユニークな建物がありました。元の「東京医学校本部」です。
その前にはには広い泉水庭園があり、鯉が悠々と泳いでいました。
蚊を追い払いながらも、注目させられたのは、
「関東大震災記念碑」でした。
「・・・焼け出された市民3万人以上が一時的に植物園に避難しました。その一部は園内の震災救護所でさらに長期にわたる避難生活を送りました。
大正14年1月(震災から1年5か月)に最後の居住者が退去し、有志によってこの記念碑がたてられました。」
下がその写真です。
また、旧養生所の井戸がありました。
「小石川養生所は徳川幕府が設けた貧困者のための施療所で、町医者小川笙船の意見により、享保7年・・・(1723)に、この場所に開設され、明治維新の時に廃止されるまで続きました。
養生所は町奉行所の管轄で、40名(後に170名)の患者を収容することができました。
この養生所の井戸は水質がよく、水量も豊富で、大正12年(1923)の関東大震災の時には避難者の飲料水として大いに役立ちました。」
下は、その井戸の写真です。
さて、暑いので次の念速寺へ急ぎました。
先日、吉村 昭著『梅の刺青』を読んでいて、このお寺を知り、是非、小石川植物園を訪問する際、立ち寄ってみたいと思っていました。
お寺の裏の墓地に「みき女」の墓がありました。
彼女の墓は、「特志解剖第一号 美畿女墓 ~1869 (文京区指定史跡)」とあり
その説明板には、
「美畿女(みき)は、江戸時代末期の人。駒込追分の彦四郎の娘といわれる。美畿女は、病重く死を予期して、死後の死体解剖の勧めに応じ、明治2年(1869)…、34歳で没した。死後、直ちに解剖が行われ、美畿女の志は達せられた。当時の社会通念、道徳観などから、自ら死体を提供することの難しい時代であって、美畿女の志は、特志解剖第一号として、わが国の医学研究の進展に大きな貢献をした。・・・」
小説『梅の刺青』によると
死後解剖について本人の了解を得たことは、
「口をつぐんでいたみきの心を動かしたのは、解剖後、厚く弔うという医師の言葉であった。遊女は、死ぬと投げ込み寺の穴に遺棄されるのが半ば習いとされていて、その霊はむなしくさ迷うと言われている。医師は、解剖後、丁重の葬儀を行い、戒名もつけてしかるべき寺の墓地に埋葬し、墓も立ててやる、」と説き、本人も了解した。
また、
「遺体を見つめる医師たちは、みきの片腕に思いがけぬものがあるのに視線を据えた。それは刺青で、梅の花が数輪ついた枝に短冊が少しひるがえるようにむすばれている。短冊には男の名の下に『・・・さま命』と記されている。」
これが、この本題『梅の刺青』の所以でしょう。
解剖後、埋葬されたお寺が、今日お参りした「一向宗東本願寺末寺 念速寺」であり、戒名は「釈妙倖信女」で、約束通り厚く葬られたようですが、下の写真にもあるように、「美畿女墓」とは書いてありましたが、正式な戒名は見当たりませんでした。
序でに書き加えますと、このお寺に祀られている墓の戒名には「釈妙・・・」が多いように見ましたが・・・。
次は、伝通院に向かいました。
結構の登りのきつい善光寺坂を上りきったところに、けばけばし過ぎる感じの豪壮な寺がありました。初めてのお詣りです。
この墓地には、お大の方をはじめ、千姫や三代将軍正室孝子の方等、徳川家ゆかりの子女たちが埋葬されています。
徳川家康の生母「於大の墓」が区指定史跡として祀られていました。
法名は
『伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼』(でんつういんでんようよこうがくちこうだいぜんじょうに)