古代魚とカメのお話
「自己責任」
この言葉を音だけで聞くと、とても高圧的だったり、弱者切捨てのように
聞こえてしまいがちかも知れません
そこで、久野が時折述べている「自己責任」について…
端的に結論を述べる、経営者口調では、すごく強く聞こえてしまうこの言葉を
どんな風にしたら伝えられるのか、最近読んだ本(パコ・ムーロ著)の力を借りながら
翻訳をしてみたいと思います
それが「古代魚とカメのお話」です。
沢山の種類の魚が住む、大きな沼があったそうです。
その中には、今では「古代魚」といわれる魚やカメ、その他多くの生物が生活していました。
ある日、カメがみんなを一同に集めてこういったそうです。
「この沼は、年々少しづつではあるが干上がってきている。
今はまだ深刻な問題だとは誰も思わないだろう。しかし、いずれ大きな問題となる。
そこで、今日から準備を始めよう!地上でも生きられるような準備をだ。
幸いなことに、水はまだたっぷりあるから、準備の時間はある。」
多くの生物がその話を聞き、動揺しつつも、カメに従うことにしたそうです。
数十年の時を経て、準備を始めていた生物たちは、
陸の上で生活が出来るような、各々の進化を遂げていきました。
しかし生物たちの中には、例外がいました。
それは古代魚です。古代魚は進化のプロセスを他の魚と歩むのを拒んだのです。
古代魚は、そのうち雨が降って問題は解決するのだと、頑なに信じていたのです。
しかし、沼は序々に干上がり続け、古代魚の住めるような空間は、なくなってしまいました。
ついに、動くことも出来なくなってしまった古代魚は、我が身の不幸を嘆いたというお話です。
「沼が干上がる」という現象に対して、古代魚には全く非がありません。
古代魚はこの沼に住んでいたために、自然の変化という不運によって死んでしまったのです…
でも、古代魚にも「進化」の努力をするチャンスはあったのです
このお話は、久野の言う「自己責任」という言葉を上手く表現していると思います。
私たちは、身体的な障害を持っている方や、身内に不幸があり
「それもお前の責任だ」と断定するような論を、展開するつもりはありません。
しかし「沼が干上がってしまう」ような、個人ではどうしようもない「事象」に対してでも
何かや誰かのせいにして嘆き悲しんでいても、物事は解決しません。
誰かが沼にやってきて、水を足してくれることも、悲しいことにあり難い話なのです。
だからこそ、それを自己で変革していく力、その気持ちを持ってほしいと思っていますし
そうしていくことが、久野の言う「自己責任」を負うことなのだと思っています。
心理カウンセラー 井上 由加里
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