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flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

兼六園

2007-06-16 00:00:57 | 城郭・城下町
(石川県金沢市 国指定特別名勝 日本の歴史公園100選101番)
 金沢城から百間堀を渡り、兼六園に入る。
この日は無料解放の日であり、大勢の来園者が訪れていた。
 兼六園は、延宝四年(1676)藩主前田綱紀のとき、金沢城御殿の庭「蓮池庭」として作庭されたのが始まりといわれ、文政五年(1822)老中松平定信が、宏大、幽邃、人力、蒼古、水泉、眺望の六つを兼ね備える意を込めて兼六園と命名した。
天保八年(1837)前田斉泰のとき、霞ヶ池を中心に地形を利用した大規模な造園が施され、現在の三万坪の庭園が完成した。
 見所として、徽軫(ことじ)灯籠、現存日本最古の噴水、茶室夕顔亭、翠滝等がある。
     
(関連記事:北国街道金沢 金沢長町
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金柑煮

2007-06-15 21:00:00 | てんゆうれしぴ
 金柑をいただいたが、そのままでは食べづらいので、調理してみようと思う。
皮まま使うので、先ずよく洗う。
縦に切れ目を数箇所入れ、ヘタが気になるようであれば、取り除く。
鍋に金柑を入れ、十分浸るほど水を入れ火にかける。
沸騰したら、一度下ろして中の種を串などで取り出す。
改めて水を張り、砂糖または、ハチミツ(50~100g好みで)を入れ火にかけ、沸騰したら金柑を入れ、落し蓋をして中火にして20分ほど煮る。(好みでレモン汁、料理酒など少々加える)
その後一晩おきなじませる。
 皮ごと食べることで、ビタミンCが柑橘類の中で最も多く摂れ、健康食かも。
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桜井海岸 平成十九年

2007-06-15 00:00:09 | 海道・みなと

(愛媛県今治市桜井)
 今回は海のそばである今治市「湯ノ浦」に宿をとった。
翌日の天気予報は雨天であったが、朝、曇天であったので、道の駅「今治湯ノ浦温泉」でレンタサイクルし、近隣の旦、宮ケ崎地区、祖先の居住地登畑地区、そして墓のある町谷へと向かった。途中、雨が降ったり止んだりという状況であったが、墓の草を取っていると次第に雲も薄くなり、晴天となった。
 町谷から頓田川を下り、二年振りの桜井地区へ。
旧街道から郷桜井、そして桜井漁港、砂浜を走る。
亡き父が子どもの頃、今治天保山からこの桜井の浜まで遠泳をよくしたと語っていたことを思い出す。
 松山藩が安政二年(1855)に黒船来襲の防御として築いた土塁「御臺場」や、「志島ヶ原」の万単位の松林、越智・河野氏所縁の綱敷天満神社、菅原道真が大宰府へ左遷される途中時化に遭い、桜井の浜に流れ着いて岩の上で着物を干したと伝わる「衣干岩」を巡り、久し振りの“青い四国”を感じ得た。

(関連記事:桜井海岸2005 唐子浜

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賤ヶ岳

2007-06-14 00:00:05 | 城郭・城下町
 木之本の町から標高421mの賤ヶ岳(しずがたけ)へ向かう。
天正十一年(1583)この山を含む付近一帯で、織田信長亡き後の羽柴秀吉と柴田勝家が戦ったのである。
勝利した秀吉勢の福島正則、加藤清正、加藤嘉明、片桐且元、糟野武則、平野長泰、脇坂安治を後に「賤ヶ岳七本槍」と称した。
 眼下には羽衣伝説の余呉湖、琵琶湖、湖北平野が望めるが、この日は湖北地方のみ雲に覆われ、往時の出来事を想像させるような視界が広がっていた。

          

山を下り、麓の大音集落へ向かう。

(関連記事:木之本地蔵 長浜城 北ノ庄城
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今話題の…

2007-06-13 21:00:21 | kourei-ki-日記-
 先月初旬、年金記録をネット上で調べることのできる「年金オンライン」の手続きをした。
IDとパスワードを入力して、過去の納付状況と給料がわかるというもの。
「発行には2週間ほど要します」ということであったが、1ヶ月を超していた。

今、盛んに言われている、未納問題。
結果、調べてみると、私は途中で転職や氏訂がありながらも、合致していた。
合っているほうが珍しい?
と言わんばかりの周囲の状況。
運がいいのだろうか…これが当たり前なのだが…。
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鷺森

2007-06-13 00:00:49 | 孝霊天皇流族関係記事

(さぎのもり 愛媛県西条市三芳)
 壬生川の町を歩き、鷺森に辿り付く。
文和元年(1352)河野通盛が、当時海岸浅瀬であったこの地を干拓させ、神社を勧請したのが始まりという。そのとき社叢に植えた楠に白鷺が集まり、この地を「さぎのもり」と呼ぶようになったと伝わっている。
当時のものと思われる楠が今も育ち、神木であり、市指定天然記念物となっている。
 応永元年(1394)神社に隣接して河野氏族桑原通興が鷺森城を築いた。
海水の入る水堀を配し、「浮城」の異名を持つ。
桑原氏は、土地の名を取り壬生川氏と名乗った。
その後、新居郡金子山城金子氏、周布郡剣山城黒川氏が何度となく攻め入る。
天正八年(1580)金子氏に属するようになった壬生川氏は、姓を桑原に戻したが、天正十三年(1585)小早川勢に攻められ城主以下討死し、落城した。
 

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嵩山城

2007-06-12 00:00:45 | 城郭・城下町
(市場城 月ヶ谷城 豊橋市嵩山町)
 嵩山(すせ)集落の北側にある二城。
字山角庵、標高206mの山頂に位置する月ヶ谷(わちがや)城と、字市場、月ヶ谷城の麓に位置する市場城。その位置関係と在城時期から、双方は監視砦と館城の関係にあったと推定できる。
当初、この辺りには小枝左京進という人物が所領していて、大永三年(1523)に一時期松平氏に属していた西郷信員がこの地に進出したと伝わっている。
市場城も同時期に築かれたと推定し、その後今川氏下に戻った西郷氏が月ヶ谷北方の中山村に主体を置き、代わって同じく今川氏に属する奥山氏が遠江から移ってきたと考えられる。
永禄三年(1560)桶狭間の戦いによって今川義元が没すると、西郷氏は再び松平氏に属し、それによって義元の子氏真ら勢力によって二城を攻撃され落城した。


 市場城は遺構として、西部土塁の一部が南北に残るのみである。
旧城域は現在、耕地や宅地及び自由ヶ丘団地の一部となっている。


 月ヶ谷城はその市場城の北側に位置し、尾根の頂きに主体部を置き、北から一段、二段、その下に帯郭を設けている。
 (主郭上段低土塁)
主郭の縁には低い土塁を巡らせ、辺りに散在する岩石を用い、土留めを施している。
 (主郭段差)
(主郭下段土塁)
(主郭下段西側虎口)
 (主郭下段南側虎口)
二段目には西側と南側に虎口が残り、南側は枡形の形状がみられる。

 (帯郭南東側)
二段目南側の帯郭には井戸が口を開けている。この帯郭の東西には、尾根地形にあわせた幾つかの段差がみられ、西側の付け根には両端を土橋状にした短い堀がある。
 

 南東側尾根には円墳の荒木15号墳があるが、周囲のやや削平した地形から、この場所にも何らかの施設があっただろうと推察する。
  
   

 城の辺りの地名は旧嵩山村であったが、隣接して西側を月ヶ谷村といった。
月ヶ谷(わちがや)の名の由来は、城跡に程近い旧正宗寺末、月ヶ谷山萬福寺の寺紋が「輪違」(輪が繋がった形状の紋)であることからとされている。
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壬生川

2007-06-11 00:00:42 | 街道・宿場町

 旧西条市から旧東予市の中心地、壬生川(にゅうがわ)に立ち寄る。
今回の宿泊地に向かうバスに乗り換えるためである。
この地へは東予市当時の1991年7月17日に、市内多賀地区を訪れている。
駅で乗務員に切符を渡す。かつての市中心駅は時間帯無人駅となっていた。駅前も、先回と比べると寂れた様子…合併による影響もあるかもしれない。
待ち時間+α、旧今治街道(小松街道)沿いの町並みを歩いた。現在の町の往還は、高縄半島の海岸を通る国道196号線であり、町の海寄りを通っている。
 湧水のある、大曲川に架かる三津屋橋は、その街道のための橋。
橋の袂、厳島神社側には「こんぴら道 天保十四卯八月」の道標が立つ。また、この辺りは1998年映画「がんばっていきまっしょい」のロケ地になったようである。
厳島神社に入ると、そこには「史跡 旧三津屋港跡」の碑が建つ。時代を経る度に、陸と海での物流が次第に沖へ離れていったことがわかる。
 国道に出ると、道路に面して国指定有形文化財となっている越智邸がある。そしてその近くの堀川には、かつて「繁栄橋」という木橋が架かっていたという。明暦二年(1656)松山藩松平定行は、壬生川港の開港の際、今後の繁栄を願って架けられたものといわれている。橋の袂には常夜燈があったが、現在はすぐ近くの鷺森神社へ移されている。
 城跡でもある鷺森神社へと向かう。
   

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賀茂しょうぶ園 2007

2007-06-10 21:00:39 | ふるさとの木々
(愛知県豊橋市賀茂町神山)
 とよがわを隔てて、我が家のとなりまちにある菖蒲園。私が小学校の遠足に訪れて以来、馴染み深い場所でもある。今季も訪れてみることにした。
 ここのところ、勇み足の季節経過であったが、もう間もなく梅雨入りすると同時に、菖蒲の花の季節は終わりを迎える。
 昭和39年から42年にかけて行われた賀茂地区圃場整備と、間川の河川改修工事によって流路の変わった後の跡地を利用して始められた菖蒲園である。300種、37000株の花菖蒲が育てられている。


2009年 2008年の模様はこちら)
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飛騨高山 平成十九年春

2007-06-10 00:00:20 | 街道・宿場町
(岐阜県高山市)
 平湯から舞い戻り、暫し町並みを歩く。
約3年振りの高山は、この季節に訪れたことはなかった。
高山祭りの直後であり、訪れる人も若干少ないが、季節は遅い春真っ盛りである。ご当地の味に舌鼓を打ち、この日の宿へと向かった。
  


 気温0℃の朝を迎えた。
久し振りに身の引き締まる思いを感じ、晴天となった宮川朝市へと出向く。有名な朝市も、こうしてみると、地元では当たり前の日々の催し。人々の自然な光景を見ながら、「安川」より平湯を経て、奥穂高へと向かった。
      

(関連記事:飛騨高山平成十六年秋 平成二十年春
(小京都関連記事:信濃松代 筑摩松本 伊那飯田 加賀金沢 飛騨古川 郡上八幡 尾張犬山 三河西尾 伊賀上野 近江長浜 近江八幡
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西条陣屋

2007-06-09 00:00:20 | 孝霊天皇流族関係記事

(愛媛県西条市)
 うちぬき広場から、噴水の見える西条陣屋跡へと向かう。
同じく“うちぬき”から発する本陣川の途中を水堀として利用した陣屋は、寛永十三年(1636)河野氏裔一柳直重が伊勢神戸から移封、三万石の伊予西条藩と一万石の伊予小松藩が設けられたのが始まりである。寛文五年(1655)直重の子直興のとき、改易に遭い播磨小野に移ったが、直重弟直頼の伊予小松藩は残り、廃藩まで続いた。一柳氏の後、五年間天領となり、寛文十年(1660)紀伊徳川家頼宣と側室越智氏娘の間に生まれた松平頼純が西条に入藩する。松平氏は十代で廃藩を迎えた。
 大手口を入ると、往時の大手門が西条高校、西条郷土博物館の門として利用されている。
郷土博物館及び愛媛民藝館を見学。自然資料、歴史資料を観覧した。そして博物館、教育委員会で西条藩士のことをお尋ねした。我が家に嫁いだ、戸倉治太夫娘、宮島四郎右衛門姉の資料はないかと確認していただいたが、現状ではわからず、松平氏時代の藩主を祀る西條神社で現在、古文書の整理をしているということであり、後日訪ねることとした。
 今回の宿泊先乗り換え地、壬生川(旧東予市)に向かう。

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平湯

2007-06-08 00:00:02 | 漂い紀行

(2007年4月 高山市(旧上宝村))
 飛騨一ノ宮から平湯へと向かう。
この日、この地に泊まる予定ではなかったが、温泉に浸かることと、高所に住む生活を見たかったので、ひと時ながら訪れることにした。
 平湯峠からやや下った標高約1200mのバスターミナルに着く。
乗鞍や安房トンネルを経て上高地に隣接する観光の地である平湯。
この日は天候が微妙で、時折青空は見せるものの基本的に曇天であり、明日向かう奥穂高では、ロープウェイが強風で停止したという情報が耳に入った。
 飛騨北アルプス自然文化センターに立ち寄り、この地での自然と人との関わりを学ぶ。
町を歩く人は殆どなく、人口凡そ180人、60世帯の静かな町を見ながら、湯に浸かった。
     

(関連記事:奥飛騨温泉郷 西穂高千石 鍋平高原

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うちぬき

2007-06-07 00:00:45 | 水のほとり
 西条の街を歩き、うちぬき広場に差し掛かる。
日本名水百選ともなっている「うちぬき」は、水脈に筒を打ち込むと、水圧で自噴するところからきている。
四国の瀬戸内側は、川の水も少なく水が少ない印象にあるが、四国山脈に近いところでは、伏流水が豊富にあり、西条では石鎚山に近いこともあって、加茂川沿いの地域では約2000もの「うちぬき」が存在するという。
故に、「水都」と称される場合もある。
 私が愛媛に来ていつも思うこと、それは飲み物がおいしいこと。それは、これら清浄な水を使用しているからに違いない。

(関連記事:水都大垣 西条陣屋
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不破関

2007-06-06 00:00:53 | 街道・宿場町
 関ケ原には約4年振りに訪れる。
今回はレンタサイクルにて回ることとした。
駅前の貸出所は無くなったため、歴史民俗資料館で借りることとし、東首塚方面へ足を運んだ。
資料館横では関ケ原町新庁舎の建設が行われていた。不破郡は平成の大合併で、大垣市との合併計画があった筈であるが、名を残すべく、単独の道を選び、役場を新たに建てるようだった。
 レンタサイクルに乗り、中山道方面へ。
私が普段使用している自転車よりはるかに軽い。坂の多いこの町でも、それ程苦にはならなかった。
旧道に入り、松尾集落の井上神社、そして不破関跡へ立ち寄る。
 日本書紀によると、弘文天皇元年(672)壬申の乱の際、不破道を塞いだと記されている。
都を守るため、西国と東国を分ける越前愛発(あらち)、美濃不破、伊勢鈴鹿の三ケ所の関所を設置することを決め、大宝律令により定められた。関ケ原の名の所以である。
延暦八年(789)一旦廃止されるも、東山道の関所として再開、その後新たに中山道を整備することになり再び廃止された。現在でも周囲の土塁の一部が残り、発掘調査によって出土した遺物が同所にある不破関資料館に展示保管されている。
 また、東山道の関守跡が、中山道南側にあり、現在は個人の所有地となっているが、日本庭園等を設け、往時の雰囲気を出している。

菜の花の咲く藤古川を渡り、中山道山中の集落へ向かう。
   
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伊予西条

2007-06-05 00:00:13 | 街道・宿場町
 丸亀から宿泊先、墓参に向かう途中にある西条市に立ち寄る。
近年、近隣東予市、小松町、丹原町が合併し、人口約11万人となった。
近世は一柳氏、松平氏の領地(西条藩)となったところであり、讃岐街道の宿場でもあった。
 この地には、振り返ると我が家に三人嫁ぎ、二人嫁いでいった縁の地でもある。
私は今まで旧東予市を除き、通り過ぎるだけであったが、我が父は何回か訪れていたであろう。
 駅を降りると、歴史や規模と比較して、さほどの盛大さを感じない。小ぢんまりした駅前である。四国最大の工業都市だからであろうか。
街を歩くと、そこかしこで何かしら懐かしい匂いがしてくる。その匂いは場所によって性質の違うものだが、何かは分からなかった。
 銀座アーケードを歩き、先ず、自噴水“うちぬき”に向かった。
  
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