(西条市三芳)
中村城跡を後にし、地区のことを詳しく尋ねるため、三芳公民館を訪れた。
そこで私が名乗ると、地区の学校に同姓の職員がいることをお教え頂いた。数軒しかない筈の私の姓、何か関係があるのだろうか。
タイムリミットまで、付近を散策することにした。
天井川(川床が上流からの土砂の堆積により、周辺平地より高くなった川)の大明神川に辿り付き、暫く堤防松並木を歩いた。
堤防を下り、両側の柱のみが立つ石鳥居に出合う。旧郷社宮内神社の一の鳥居のようである。そして白雉四年(653)創建の光明寺へ立ち寄る。
光明寺から今治街道を横切り、日切大師と呼ばれる弘福寺を訪れる。ここには乳房の付いた地蔵さんがあり、子育ての仏さまとして信仰されている。
「お日切さん」の楠の横を水路に沿って抜け、宮内神社へ。
近づくにつれ、沿道には寄進の名を刻んだ玉垣が多く現れ始める。いつも感心するのは、この地方は神仏に対してや、公共のものに対し、寄進する気持ちの高いこと。私もつくづく反省させられる。その中で私の姓と、知る名前を発見した。明治時代この地の医師の家で生まれ、我が一門に嫁いだ娘、嫁いだ後に故郷に寄進をしたようである。本殿の玉垣には、その娘の実家の当主の名があった。
宮内神社の創始は分からないが、延文四年(1359)の旱魃の際、神主藤原松麿によって雨乞いを行ったという。また、文安六年(1449)の棟札が残っている。
神社境内は藪椿の社叢となっていて、季節には華やかであろうことが想像できた。
時間に限りがあったため、ここで駅へ向かうこととなったが、改めて訪れることを決め、三芳の地を離れた。
中村城跡を後にし、地区のことを詳しく尋ねるため、三芳公民館を訪れた。
そこで私が名乗ると、地区の学校に同姓の職員がいることをお教え頂いた。数軒しかない筈の私の姓、何か関係があるのだろうか。
タイムリミットまで、付近を散策することにした。
天井川(川床が上流からの土砂の堆積により、周辺平地より高くなった川)の大明神川に辿り付き、暫く堤防松並木を歩いた。
堤防を下り、両側の柱のみが立つ石鳥居に出合う。旧郷社宮内神社の一の鳥居のようである。そして白雉四年(653)創建の光明寺へ立ち寄る。
光明寺から今治街道を横切り、日切大師と呼ばれる弘福寺を訪れる。ここには乳房の付いた地蔵さんがあり、子育ての仏さまとして信仰されている。
「お日切さん」の楠の横を水路に沿って抜け、宮内神社へ。
近づくにつれ、沿道には寄進の名を刻んだ玉垣が多く現れ始める。いつも感心するのは、この地方は神仏に対してや、公共のものに対し、寄進する気持ちの高いこと。私もつくづく反省させられる。その中で私の姓と、知る名前を発見した。明治時代この地の医師の家で生まれ、我が一門に嫁いだ娘、嫁いだ後に故郷に寄進をしたようである。本殿の玉垣には、その娘の実家の当主の名があった。
宮内神社の創始は分からないが、延文四年(1359)の旱魃の際、神主藤原松麿によって雨乞いを行ったという。また、文安六年(1449)の棟札が残っている。
神社境内は藪椿の社叢となっていて、季節には華やかであろうことが想像できた。
時間に限りがあったため、ここで駅へ向かうこととなったが、改めて訪れることを決め、三芳の地を離れた。






