(岐阜県揖斐郡揖斐川町清水)
中山道赤坂宿から始まる谷汲巡礼街道を歩き、揖斐川を渡るとそこは、清水(きよみず)集落。
鎌倉時代初頭、鎌倉幕府御家人であった清和源氏の流れを汲む源頼兼が晩年居住したという。その子頼高は地名から清水蔵人と称し、清水氏を名乗った。清水氏百五十年の後の延元元年〈1336)河野(林)通兼がこの地に移り、清水山に居城。通兼の子通祐、そして通村、通雄、通頁、通利、通忠が居城したと伝えられる。
通兼が入城して間もない頃の南北朝時代正平(貞和)年間、夢窓国師がこの地を訪れ、城地に観音堂を建立、千手観音を祀ったという。後の享保十七年(1732)曹洞宗補陀山釣月院として再興し、現在に至る。
通忠の子、正長(通政)は土岐氏が居城していた本巣十七条城に移り、暫くして林氏同族稲葉氏臣加納雅楽助、悦右衛門が入った。天正七年(1579)織田氏臣となっていた不破曽根城主稲葉良通(一鉄)がこの地に移り、麓に清水新城を築城。天正九年(1581)に良通室が卒し、菩提のため清水山西腹に清光山月桂院を創建した。境内には天正十六年(1588)に卒した良通(一鉄)と同室、良通の子貞通の室の墓碑があり、良通が陣鐘として使用したという元応二年(1320)銘の梵鐘がある。
昭和52年、清水山南東側を採土した際、形式から清水古城と同時期の多量の五輪塔が出土した。現在、釣月院境内に集められ供養されている。
釣月院本堂横から標高約110mの山頂へ向けて登ると、程なくして削平地がある。
郭跡とみられるが、樹木が深く明確な遺構が見出し難い。
頂きに辿り付くと、郭跡、土塁がみられ、変形しているものの城跡として判別できる状態にある。
山頂からは揖斐、不破平野部が一望でき、城の機能として十分な役割であったであろうことが認識できる。