(亀山城 香川県丸亀市)
早朝の丸亀に到着。他の要件で訪れているため、朝一番の登城となった。
この街へは何度となく通ってはいるのだが、地に足を着けたのは初めてである。
街は朝ということもあってか、閑散とした様子。何本かあるアーケードも、シャッター通りであった。
空襲を受けていない丸亀だが、古い町並みが少ない。然しながら、ここから丸亀(金毘羅)街道が始まり、往時は金刀比羅宮への参詣の往来で賑わったという。
亀山公園に到着。大手口を入ると、国指定重要文化財となっている寛文十年(1670)に造られた高麗門と櫓門がある。
そして往古、丸亀山と呼ばれた標高66m頂きに向かうため、「見返り坂」を上る。
高さ20mの石垣が現れる。元々独立した丘を開削して造られた城であるため、この高さの石垣が実現したのであろう。
頂には、高所であることと、瀬戸内海からの風当りを考慮した規模であろう三層の小さな天守が建つ。万治三年(1660)に建てられ、国指定重要文化財となっている。ここからは丸亀の街や讃岐富士、瀬戸内海が望め、見張りとしての役目を十分担っている。また、多聞部分での発掘調査の痕跡がみられた。
帰路は二の丸、三の丸を周り、搦手側へと向かった。そして藩主玄関先御門、番所、御駕籠部屋、長屋を通り、市教育委員会のある「まなびらんど」へ立ち寄った。
市教委では、丸亀市の縄文晩期からの歴史をご説明頂き、先程の丸亀城発掘調査並びに石垣修復資料を提供頂いた。
慶長二年(1597)高松城主生駒親正によって築城が開始された丸亀城は、間もなくしての元和元年(1615)一国一城令で廃城となり、生駒氏は出羽矢島へ転封、伊予大洲藩領となった。
寛永二十年(1643)肥後富岡の山崎家治が讃岐西部に五万石の領地を与えられ、丸亀城を再建するも、明暦二年(1656)城内焼失、山崎家が絶家となり、万治元年(1658)からは六万石で京極高和が入り、京極家は廃藩まで続いた。
早朝の丸亀に到着。他の要件で訪れているため、朝一番の登城となった。
この街へは何度となく通ってはいるのだが、地に足を着けたのは初めてである。
街は朝ということもあってか、閑散とした様子。何本かあるアーケードも、シャッター通りであった。
空襲を受けていない丸亀だが、古い町並みが少ない。然しながら、ここから丸亀(金毘羅)街道が始まり、往時は金刀比羅宮への参詣の往来で賑わったという。
亀山公園に到着。大手口を入ると、国指定重要文化財となっている寛文十年(1670)に造られた高麗門と櫓門がある。
そして往古、丸亀山と呼ばれた標高66m頂きに向かうため、「見返り坂」を上る。
高さ20mの石垣が現れる。元々独立した丘を開削して造られた城であるため、この高さの石垣が実現したのであろう。
頂には、高所であることと、瀬戸内海からの風当りを考慮した規模であろう三層の小さな天守が建つ。万治三年(1660)に建てられ、国指定重要文化財となっている。ここからは丸亀の街や讃岐富士、瀬戸内海が望め、見張りとしての役目を十分担っている。また、多聞部分での発掘調査の痕跡がみられた。
帰路は二の丸、三の丸を周り、搦手側へと向かった。そして藩主玄関先御門、番所、御駕籠部屋、長屋を通り、市教育委員会のある「まなびらんど」へ立ち寄った。
市教委では、丸亀市の縄文晩期からの歴史をご説明頂き、先程の丸亀城発掘調査並びに石垣修復資料を提供頂いた。
慶長二年(1597)高松城主生駒親正によって築城が開始された丸亀城は、間もなくしての元和元年(1615)一国一城令で廃城となり、生駒氏は出羽矢島へ転封、伊予大洲藩領となった。
寛永二十年(1643)肥後富岡の山崎家治が讃岐西部に五万石の領地を与えられ、丸亀城を再建するも、明暦二年(1656)城内焼失、山崎家が絶家となり、万治元年(1658)からは六万石で京極高和が入り、京極家は廃藩まで続いた。













